シャルル=アントワーヌ・ブリダン
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石材の産地として知られるブルゴーニュ、ヨンヌ県のラヴィエール(Ravières)で生まれた。彫刻家ジャン・ジョセフ・ヴィナッシュ(Jean-Joseph Vinache)の弟子になり、1753年にローマ賞の彫刻部門で2位になり、翌年優勝し、ローマ留学の前に学ぶ「王立特待学生学校(École royale des élèves protégés)」で1756年から学んだ後、ローマ留学し、1762年までイタリアに滞在した。
フランスに戻ると王立絵画彫刻アカデミーの会員候補に選ばれ、1772年に現在ルーブル美術館に所蔵されている群像の石彫作品『聖バルトロメの殉教』を入会申請作品としてアカデミー会員になった。
1780年にアカデミーの彫刻の教師となった。エティエンヌ・モーリス・ファルコネ(Étienne Maurice Falconet: 1716-1791)の後任として教授になった[1]がフランス革命で王立絵画彫刻アカデミーは1793年に解体された。
ブリダンの弟子には、息子のピエール=シャルル・ブリダン(Pierre-Charles Bridan:1766–1836)やジャン=ピエール・コルトー、ピエール・カルトリエ、ジャン=ジョセフ・エスペルシューらがいた。
1805年にパリで亡くなった。