エティエンヌ・モーリス・ファルコネ
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パリでフランス東部のビュジェ(Bugey)に出自を持つ貧しい家庭に生まれた。初め大工仕事を学ぶが、ファルコネが制作した木彫りや粘土による装飾彫刻で彫刻家のジャン=バティスト・ルモワーヌ(1704-1778)に才能を認められ、支援を受けて、ルモワーヌの工房でほぼ10年間働いた。この時期、ジャン・バティスト・ピガール(1714-1785)やオーギュスタン・パジュー(1730-1809)といった彫刻家と知り合った。知り合いになった有力な画家フランソワ・ブーシェを通じて、ルイ15世の公妾で芸術のパトロンであったポンパドゥール夫人に近づき、夫人の邸宅クリシー城の装飾家具などの注文を受けた[1]。
1754年に王立絵画彫刻アカデミーの会員に選ばれた。1755年と1757年のパリのサロンに出展した彫刻によって人気のある彫刻家の一人になった。1757年のサロンに出展されたポンパドゥール夫人の注文で制作された『愛の脅威』が、ファルコネの代表作の一つとなった。
1757年から1766年までセーヴル王立磁器工場の彫刻工房の所長も務め、ビスク磁器(Biscuit)のデザインもした。1764年にポンパドゥール夫人が亡くなった後、1766年に外交官のフレデリック・メルキオール・グリム(Friedrich Melchior Grimm)とドゥニ・ディドロの推薦を受けて、ロシアのエカチェリーナ2世の宮廷に招かれ、サンクトペテルブルクに移った。
ロシアではピョートル大帝のモニュメントの制作に取り組み、12年間かけて通称『青銅の騎士』と呼ばれる像を完成させた[2]。1778年にパリに戻ると、絵画彫刻アカデミーの校長になった[3]。
1791年にパリで亡くなった。息子のピエール=エティアンヌ・ファルコネ(Pierre-Étienne Falconet: 1741-1791) は画家になった[4]。弟子にはフェリックス・ルコントや息子と結婚したマリー=アンヌ・コロー(Marie-Anne Collot)らがいる。