1839年にニュージャージー州で生まれる[1]。旧姓はワース(Worth)、マーリット(Marlit)[2]。
1872年7月24日にネイサン・ブラウンと結婚する[2][3]。
アメリカ・バプテスト宣教師連合(ABMU)から日本に派遣され、1873年2月7日、ブラウン夫妻、シャーロットの娘2人、ジョナサン・ゴーブル家族と共に横浜に着き、山手居留地203番に住む[2]。同年2月24日、「切支丹禁制の高札」が撤去され、キリスト教が黙認される[2]。3月2日、ブラウン夫妻とゴーブル夫妻の4人で横浜第一浸礼教会を設立。教会はブラウン宅に置かれ、ネイサンが牧師となる[2]。翌1874年に山手居留地75番に建てた会堂に移る[2]。
会堂は教会の集会のほかに学校としても用いられた[2]。1873年から自宅で少女たちを教えていたシャーロットは、会堂で教育活動をおこなったが、病気のため続けられなくなり、1875年にクララ・サンズに引き継いだ[2][3]。シャーロットはその後家事と育児に専念し、夫が『新約聖書』の翻訳に専念できるようつとめた[2]。
1886年1月1日にネイサンが亡くなると、シャーロットは一時帰国するクララ・サンズから女子生徒6名を預かり、女学校設立を考えるようになった[2][3]。共立女学校に依頼し、助手としてエイミー・コーンズを推薦された[2][3]。教室兼寄宿舎として、ブラウンの住居の裏手にある山手居留地67番の印刷所2階が使われた[2]。1887年10月1日に英和女学校となった[3]。シャーロットは本格的な女学校設立を望み、婦人ミッション本部に校舎建設資金と教師の派遣を要請したが、すぐには叶えられなかった[2][3]。1889年3月、療養のため一時帰国するアンナ・キダー(Anna H. Kidder,1840-1913)に付き添ったシャーロットは、婦人ミッション本部を訪問し、直接要請したところ、校舎建築の見通しが立ち、教師派遣も約束された[2]。
1890年1月25日にクララ・カンヴァースが来日し[3]、後継者を得たシャーロットは、1890年9月にウィリアム・アシュモア(William Ashmore, 1824-1909)と再婚し、中国スワトウに向かった[2]。
校舎と寄宿舎は1891年12月に山手居留地34番に完成した[2][3]。資金援助をした婦人バプテスト外国伝道協会の前会長にちなんで、メリー・L・コルビー・ホームと名付けられ、1892年には日本名捜真女学校となった[注 1]。
1909年にウィリアムが亡くなると、シャーロットは山手211番に住む娘のマッカーサー夫人の元に移った[2]。
1923年2月7日、シャーロットの来日50年の記念日に、東京のバプテスト・ミッションのテンネー(C.B. Tenny)がお祝いに訪れた[2]。シャーロットはその約1か月後、3月8日に亡くなった[2]。3月10日に山手211番の自宅で葬儀が行われた。司式はテンネーがつとめ、近親者のみが参列した[2]。
シャーロットは横浜外国人墓地のネイサンの墓地(アメリカ4区25)に埋葬された[2][3]。