シヤフ・カック
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人物
シヤフ・カックという名前はマヤ風だが、出身地や生卒年は不明である。シヤフ・カックの侵攻を受けた各都市で中央メキシコ様式の遺物が増えることから、テオティワカンの勢力を背景に持つ人物だったと考えられている。テオティワカン出身とする説や、ティカルからテオティワカンに逃れた人間が帰ってきたという説がある[4]。
シヤフ・カックの率いる軍は378年1月8日[6]にエル・ペルー(ワカ)に、その8日後の1月16日にティカルに入り、おそらくティカル王のチャック・トック・イチャーク1世を殺害した。古いモニュメントは破壊されるか、他の場所に移された。「投槍フクロウ」という明らかにテオティワカンと関係する名前の人物(投槍は中央メキシコの武器であり、フクロウはテオティワカンを象徴する動物)の子であるヤシュ・ヌーン・アイーン1世を新しい王朝の王として379年に擁立した[7]。
ティカルは3世紀にすでに中央メキシコと接触していた形跡が残っているが、4世紀末になるとマヤの伝統とは異なる外国様式の遺物が大幅に増えた。同様の現象はペテン以外のモンテ・アルバンやカミナルフユにも見られる[8]。
シヤフ・カックは同年またワシャクトゥンにはいって王族を皆殺しにした。ワシャクトゥンでの壁画にはメキシコ風の人物にマヤの人物が敬意を示す様子が描かれている[4]。
381年のベフカル、および393年のリオ・アスルの碑文によれば、これらの都市の支配者もシヤフ・カックによって擁立された[9][5]。ナーチトゥンの王もまたシヤフ・カックに従属していたことが2014年に明らかになった[10]。
マヤ諸都市の王朝は4世紀前半までは少なかったが、シヤフ・カックの侵攻以降増大する。キリグア、コパン、パレンケの王朝はいずれも420-430年代に始まるが、いずれもティカルまたはテオティワカンと関係がある[11]。コパンの初代王キニチ・ヤシュ・クック・モは即位して152日の後にコパンに到着したとあることから外部の人間であるのは明らかであり[12]、古典期後期に作られた肖像ではメキシコ式の服を身につけている[4]。
