シヤフ・カック

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ティカル石碑31の裏側。378年のシヤフ・カックの「到着」を記す

シヤフ・カック[1][2](Siyaj K'ak')またはシフヤフ・カフク[3](Sihyaj K'ahk')は、古典期前期の378年に、中央メキシコのテオティワカンの勢力を背景としてペテン地域マヤ諸都市を征服したと考えられている軍人。日本語表記は資料によってシヤク・カック、シアフ・カック等、あまり統一されていない

ティカルワシャクトゥンに新王朝を立て、ペテン地域に新秩序をもたらした。

シヤフ・カックはマヤ世界を作りかえ、その後マヤ文明は急速に発展した[4]

シヤフ・カックのマヤ文字は上を向いたカエルと煙のような記号から構成され[5]、その見た目から「煙を吐く蛙」(Smoking Frog)とも呼ばれる。上を向いたカエルはsiy(aj)と読んで「誕生(した)」を意味し、煙のような記号はk'ahk'と読んで「火」を意味する。

人物

シヤフ・カックという名前はマヤ風だが、出身地や生卒年は不明である。シヤフ・カックの侵攻を受けた各都市で中央メキシコ様式の遺物が増えることから、テオティワカンの勢力を背景に持つ人物だったと考えられている。テオティワカン出身とする説や、ティカルからテオティワカンに逃れた人間が帰ってきたという説がある[4]

シヤフ・カックの率いる軍は378年1月8日[6]エル・ペルー(ワカ)に、その8日後の1月16日にティカルに入り、おそらくティカル王のチャック・トック・イチャーク1世を殺害した。古いモニュメントは破壊されるか、他の場所に移された。「投槍フクロウ」という明らかにテオティワカンと関係する名前の人物(投槍は中央メキシコの武器であり、フクロウはテオティワカンを象徴する動物)の子であるヤシュ・ヌーン・アイーン1世を新しい王朝の王として379年に擁立した[7]

ティカルは3世紀にすでに中央メキシコと接触していた形跡が残っているが、4世紀末になるとマヤの伝統とは異なる外国様式の遺物が大幅に増えた。同様の現象はペテン以外のモンテ・アルバンカミナルフユにも見られる[8]

シヤフ・カックは同年またワシャクトゥンにはいって王族を皆殺しにした。ワシャクトゥンでの壁画にはメキシコ風の人物にマヤの人物が敬意を示す様子が描かれている[4]

381年のベフカル英語版、および393年のリオ・アスルの碑文によれば、これらの都市の支配者もシヤフ・カックによって擁立された[9][5]ナーチトゥンの王もまたシヤフ・カックに従属していたことが2014年に明らかになった[10]

マヤ諸都市の王朝は4世紀前半までは少なかったが、シヤフ・カックの侵攻以降増大する。キリグアコパンパレンケの王朝はいずれも420-430年代に始まるが、いずれもティカルまたはテオティワカンと関係がある[11]。コパンの初代王キニチ・ヤシュ・クック・モは即位して152日の後にコパンに到着したとあることから外部の人間であるのは明らかであり[12]、古典期後期に作られた肖像ではメキシコ式の服を身につけている[4]

研究史

脚注

参考文献

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