ジャチント・モレラ

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死没 (1909-02-08) 1909年2月8日(52歳没)
トリノ
ジャチント・モレラ
Giacinto Morera
生誕 (1856-07-18) 1856年7月18日
イタリアノヴァーラ
死没 (1909-02-08) 1909年2月8日(52歳没)
トリノ
国籍 イタリア
研究分野
研究機関
出身校 トリノ大学トリノ工科大学[1]
博士論文 Sul moto di un punto attratto da due centri fissi colla legge di Newton
主な業績
主な受賞歴
プロジェクト:人物伝
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ジャチント・モレラ[注 1]Giacinto Morera1856年7月18日 - 1909年2月8日(1909-02-08) )は、イタリア工学者数学者である。複素解析におけるモレラの定理線型弾性英語版論に関する仕事で知られている。

生い立ち

ノヴァーラにてジャコモ・モレラ (Giacomo Morera) とヴィットーリア・ウニコ (Vittoria Unico) の間に生まれた。 Tricomi (1962) によればモレラ家は裕福で、ジャコモは大商人であった。ジャチント・モレラは金銭面の心配なくラウレア英語版後の研究を続けることができた[2]。しかし、ジャチント・モレラは勤勉な人物で、自身の研究に懸命に取り組んだ[注 2]トリノパヴィアピサライプツィヒで学んだ。 その後、1885年の一時期をパヴィアで過ごし、1886年から15年間ジェノヴァに滞在した。その間に同市民のチェジーラ・ファー (Cesira Faà) と結婚した[3]。1901年から死去するまでトリノで研究した[注 3]。1909年2月8日、肺炎で没した[4]

教育と職歴

フランチェスコ・シアッチ英語版イタリア語版。早い時期からモレラを指導した。

トリノで1878年に工学のラウレア、1879年に数学のラウレアを取得した[5]。論文の題名は "Sul moto di un punto attratto da due centri fissi colla legge di Newton"[注 4]。トリノではエンリコ・ドヴィディオアンジェロ・ジェノッキイタリア語版、そしてフランチェスコ・シアッチ英語版イタリア語版の講義を受けた。モレラは後に、シアッチを科学研究・人生のメンターと認めている[6]。卒業後も続けて上級コースを履修した。1881年から1882年までパヴィアで学んだ[2]。この時期にモレラを指導した人物には、エウジェニオ・ベルトラミエウジェニオ・ベルティーニイタリア語版フェリーチェ・カゾラーティがいる[7]。1883年にピサに発ち、エンリコ・ベッチリッカルド・デ・パオリスイタリア語版ウリッセ・ディニ英語版イタリア語版の下で学んだ。1年後にはライプツィヒフェリックス・クラインアドルフ・マイヤードイツ語版カール・ノイマン英語版らに教えを受けた[8][注 5]。1885年、モレラはヘルムホルツキルヒホフクロネッカー[9]ヴァイエルシュトラスらの授業を受けるためベルリンへ向かった。年内にイタリアへ帰国しパヴィア大学に新設された "Scuola di Magistero" の教授として短期間働いた[10][注 6]。教員試験[注 7]を通過した後の1886年、ジェノヴァ大学理論力学イタリア語版の教授となった。15年間ジェノヴァに滞在し、学部長や学長を務めたこともあった[11]。1901年、トリノ大学に招聘されヴィト・ヴォルテラの後任として理論力学教授に任命された[注 3]。1908年に "Meccanica Superiore"(高等力学)教授となり、理学部長を任ぜられた[8]

受賞

アッカデーミア・デイ・リンチェイ(1896年7月18日に通信会員、1907年8月26日に国内会員)[12]トリノ科学アカデミーイタリア語版会員(1902年2月9日)に選出された[13]Maggi (1910, p. 317)ハルキウ数学会英語版ウクライナ語版が1909年10月31日(旧暦)に、モレラの死を知らぬまま、モレラを外国人会員に選出したと述べている。

人格

カルロ・ソミリアーナ英語版。モレラの親友で伝記を執筆した。

カルロ・ソミリアーナ英語版は追悼論文でモレラの人柄について述べている。ソミリアーナはモレラと20年以上の交流があり、1901年からは同僚であった。殆ど毎日、科学研究について話し合っていた[14][注 8]。ソミリアーナによれば、モレラは献身的な友人で大切な同僚[2]、人や真実を冷静に判断できる人物であった[16]。性格面では、陽気な人で機知に富んだ話し手であったと記憶されている[17]

知能は鋭敏で洞察力があり[18]、思考は並外れて明晰で[19]、モレラ自身は分析的・批判的能力を持ち多才で人類の知性のあらゆる兆候を適切に把握、評価することができたと述べられている[20]。一方でソミリアーナは、モレラは自身の専門でない学問領域には一切興味を持たなかったとも評価している。ソミリアーナによれば、これはモレラ特有の意見の帰結であった。モレラは完全かつ厳密に科学的知識として分類できないすべてのものを排除し、恐れていた[20]。モレラ自身もジェノヴァ大学学長の就任演説の際、ピーター・テイトの主張を引用したのち[注 9]、自身の観点の背景を明らかにしている[21][20]

Nella scienza chi ha cognizioni salde e profonde, in un campo anche ristretto, possiede una vera forza e all'uopo sa giovarsene; chi invece ha solo cognizioni superficiali, anche molto estese ed appariscenti, possiede nulla, anzi spesso ha in sè un elemento di debolezza, che lo sospinge alla vanità.
Morera (1889a, p. 15)

モレラは正直で誠実で良心的[22]、温厚で知性に富む人物であると知られ[14]、モレラの素朴な態度は、ジェノヴァ大学の学部長・学長であるときも人々に愛された[11]。また、Maggi (1910, p. 319) はモレラを高い道徳性を持つ人物であると評価し、公務員としての役割と社会関係とにおけるモレラの成功はその資質が理由であるとしている。

その成功があるにも関わらず、モレラは自身の体面を気にしたり、教育と研究以外の活動に興味を示したりすることもなかった。その結果、モレラは家族や親戚、同僚の輪の外を知ることがなかった[14]。 自身を知らしめること、皆に認められることに無頓着であった。また、人生に対して真剣な姿勢を持っており、虚栄心や軽薄さを嫌った[23]

ソミリアーナによれば[20]、モレラは生涯にわたり科学研究における高度で無私の理想に献身した。Maggi (1910, p. 319) はモレラの最愛の家族のみが、モレラが生涯をかけて追い求めた理想に対して同じ関心・気遣いを共有していたと言及している。

功績

研究活動

Una quantità di quistioni egli chiarì, semplificò o perfezionò, portando quasi sempre il contributo di vedute ingegnose ed originali. Talchè la sua produzione scientifica può dirsi critica nel senso più largo e fecondo, cioè non-dedicata allo studio di minuziosi particolari, ma alla penetrazione e soluzione delle quistioni più difficili e complicate. Questa tendenza del suo ingegno si rivelò anche in un carattere esteriore di molte sue pubblicazioni, che egli presentò in forma di lavori brevi e concettosi; dei quali poi particolarmente si compiaceva, ed in conformità del suo carattere sincero, la sua compiacenza non-si tratteneva dal manifestare apertamente.
Somigliana (1909, p. 192)

ソミリアーナによれば[14]、モレラは特別創造的ではなく、新たな理論を創造することはしなかった[19]。モレラの長所は既存の理論を完璧にすることにあった[24]。モレラの研究の殆どは、すでに高い完成度にあり[19]明確かつ正確に提示された[25]理論を、深く解析した自然な成果として現れている。モレラは自身の成果の適用性について工学の研究で得た精巧な感覚を有していた[14]解析学とその力学物理学的応用の既存のすべての分野を完全に理解していた[26]

モレラは60以上の研究論文を執筆した。これらのほとんどの書誌は追悼論文(Somigliana 1910,pp. 581–583, 1910a,pp. 610–612, Maggi 1910, pp. 320–324)に収められている。特にマッジイタリア語版 によるものは、研究分野別に論文を分類している。

複素解析

領域Dとその内部にある曲線Cモレラの定理の主張に従う。

モレラは複素解析に関する計8つの論文を発表した[注 10]Morera (1886b) で与えられたモレラの定理はモレラの研究の中で最もよく知られるものである[注 11]。モレラの定理は複素平面において与えられた連続複素関数f線積分が次の式を満たすならば、fは与えられた領域D上で正則関数となることを主張する。

ここでCD内の任意の閉曲線である。

微分方程式

Maggi (1910, p. 320) の分類における力学の方程式論、一階偏微分方程式完全微分方程式英語版に該当する、常微分偏微分方程式分野では12本の論文を著作している。Morera (1882a) ではエミール・レオナール・マチウ英語版によって証明されたポワソン括弧に関する変換公式の簡潔な証明を与えた。Morera (1882b) においてはリーの第三定理英語版と実質的に同値なシアッチの定理の証明を単純化した。Morera (1883b) ではパッフの問題を研究し、問題を解決するために実行される積分法の最小回数に関する定理を証明した。

弾性論における連続体の釣り合い

Maggi (1910, p. 322) はモレラの4つの論文を弾性論に属するものとしている。主な貢献は Truesdell & Toupin (1960)Ericksen (1960) に詳細に記述されている。

解析学

Maggi (1910, p. 322) は「解析学の種々の問題」に4つの論文を位置づけている。

調和関数のポテンシャル論

ポテンシャル論の論文は Maggi (1910, pp. 321–322) において「ポテンシャル関数論の基礎」「楕円体の引力と楕円型調和函数」の2つに分類される。Morera (1906) は楕円型調和函数と関連するラメ函数の定義・性質について扱っている。

理論力学と数理物理学

Maggi (1910, p. 322) は12の論文を「力学と数理物理学の様々な問題」に収めた。この中には Morera (1880) も含まれる。

代数解析学と微分幾何学

この節には代数解析学に関する2つの論文 (Morera 1883a, 1886c) と微分幾何学に関する唯一の論文(Morera 1886a)が含まれている。

教育活動

Somigliana (1910, 1910a), Maggi (1910) ではモレラの教育活動についてあまり言及されていない。ソミリアーナは一度だけモレラの教育における能力が高いことに触れた[8]石版印刷講義ノート (Morera 1903–1904) にモレラの教育について記録されている。この本は計2版が出版された[注 12]

出版物

脚注

参考文献

外部リンク

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