ジャン・ド・リュジニャン

From Wikipedia, the free encyclopedia

キプロス・ニコシアの聖ヨハネ大聖堂の礎碑銘にある紋章

ジャン1世ことジャン・ド・リュジニャンフランス語: Jean de Lusignan、1329年または1330年 - 1375年)は、キプロス王国の摂政、後に総督。また名目上のアンティオキア公でもあった。キプロス王ユーグ4世英語版と2番目の妻アリス英語版の息子[1]リュジニャン家出身。

キプロスの摂政をしている間、ジャンはマムルーク朝の港湾都市を攻撃した。1369年6月5日、ジャンはシドンを攻撃。その後、要塞化されたベイルートを避けつつバトルーン英語版タルトゥスを攻撃しさらに北へ進軍。ラタキアアヤス英語版アンタルヤと進軍していった。7月9日から10日にかけてはアレクサンドリアを攻撃した。その勢いでマリーン朝の商船を拿捕しようとしたが失敗した。7月19日にはシドンに戻り守備隊を撃破したが嵐によってやむを得ず撤退。7月22日にはファマグスタに撤退した[2]

ジャンはキプロス王ピエール1世英語版の暗殺に関与したとして、王妃エレオノール英語版ジェノヴァ共和国の扇動によってニコシアで暗殺された。歴史家ステファン・ド・リュジニャン英語版はジャンの子孫である。

家族

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI