ボエモン7世 (アンティオキア公)
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ボエモン7世は、アンティオキア公ボエモン6世(英語版)と妻シビラ(英語版)との間に生まれた。ボエモン7世は若くして父から位を継承したため、始めは母シビラが摂政を務めた。キプロス王ユーグ3世(英語版)も摂政権を主張したが失敗した。また、シビラはトルトーザ司教バルトロメオ(英語版)をベイリフ(英語版)に指名した。ボエモンは、幼少期を叔父であるキリキア・アルメニア王レヴォン4世の庇護下でキリキアの宮廷で過ごした。その後、1277年にトリポリに戻ると、直ちにマムルーク朝のカラーウーンと和平を結び、アッコにおけるカルロ1世の摂政としてロジャー・オブ・サン・セヴェリーノ(英語版)を認めた。またヴェネツィア共和国に対して免税し、逆にジェノヴァ共和国などからは距離を置き始めた。
帰国後、ボエモンはギー2世(英語版)を通じ、ビブロスを統治していたエンブリアコ家(英語版)と対立した。この頃、トリポリは非常に弱体化しており、ローマ派(カトリック)はトリポリ司教パウル・オブ・セーニ(英語版)が、アルメニア派はシビラとバルトロメオが率いていた。パウルはテンプル騎士団の新しい総長ウィリアム・ド・ボージュー(英語版)と親しくなり、その後テンプル騎士団とは敵対するエンブリアコ家とも親しくなった。これがボエモンとテンプル騎士団の間の戦いの引き金となる。はじめにボエモンがテンプル騎士団の建物を焼き払うと、報復にバトルーン(英語版)にある伯爵城を破壊し、アンフェ(英語版)を攻撃した。ボエモンも軍を率い対抗するが敗北し、休戦協定に署名せざるを得なくなった。
1278年、ギーとテンプル騎士団がトリポリを攻撃したが、ボエモンに迎撃された。ボエモンは戦いには敗北したが、テンプル騎士団のガレー船15隻は嵐で壊滅し、ボエモンの船はシドンを攻撃した。今回は聖ヨハネ騎士団総長ニコラス・ロルグネ(英語版)が仲介に入った。最後の戦闘は1282年1月に始まり、エンブリアコ家がトリポリへの奇襲を画策した。彼らはテンプル騎士団総長が不在なことに気づくと、聖ヨハネ騎士団のもとへ行き、ボエモンは命を助けることを条件に引き渡した。ボエモンはアンフェで彼らを首まで砂まで埋めて餓死させた。この行為はジェノヴァやモンフォールのジャン(英語版)らの反感を買ったが、最終的にボエモンがビブロスの支配権を手に入れた。
1287年、ラタキアをカラーウーンによって奪われた。ボエモンは妻との間に子供を残さず死去し、トリポリは後継者問題に陥ったが、妹のルシアがヨーロッパから到着し、国の支配権を継承した。
参考文献
- Setton, Kenneth M. (general editor) A History of the Crusades: Volume II — The Later Crusades, 1189 – 1311. Robert Lee Wolff and Harry W. Hazard, editors. University of Wisconsin Press: Milwaukee, 1969.
- Richard, Jean (1999). The Crusades: c. 1071-c. 1291. Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-62566-1
- Aboujaoude, Boulos (Fr.), "History of Aboujaoude Family", Catholic Press, Lebanon 1976.
| 先代 ボエモン6世(英語版) |
トリポリ伯 1275–1287 |
次代 ルシア |

