ジョン・デロリアン
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生い立ち
1925年、デトロイトのやや荒れた地域に住むルーマニア系の父ザッカリーとハンガリー系の母キャサリンの間に、4人兄弟の長男として生まれた。父親はフォードの鋳造工場に勤めていたが英語が不自由なため出世が出来ず、工場の仕事がないときは大工職人として働いた。ただ、大恐慌の渦中でこのような家庭は珍しくなく特に貧困層というわけではなかった。
父親は酒好きで喧嘩っ早いと近所でも有名だったが、ジョンは父親の自動車の整備や大工仕事を手伝うなど仲は良かったようである[1]。だが収入が不安定なゆえに酒浸りになり、やがて妻に暴力を振るうようになったためジョンが17歳のときに離婚した[2]。
ジョン・デロリアンはデトロイトのキャス工業高校に進学し、夜はジャズクラブで趣味のサックスを演奏した。非常に優秀な成績を収め、ローレンス工科大学の奨学金を獲得した。弟のジョージは「周りが漫画を読んでいるとき兄はアインシュタインを読んでいた」と当時を振り返る。大学3年のときに第二次大戦が始まり陸軍に徴兵されたが、3年間の従軍中にアメリカ本土から出ることはなかった。終戦後はローレンス工科大学に復学し、クライスラーの工場や地元の板金工場でアルバイトをしながら1948年に卒業した。

卒業後はコミュニケーション能力を身に付けようと、全く興味の無かった生命保険会社に就職した。2年後、叔父の勧めでクライスラー研究所(CIE)に入所。CIEには実務経験をしながら大学院の修士課程プログラムを受けられる教育機関があり、2年間の実務経験を経て修士号を取得したのち、正式にクライスラーに入社した[3]。
パッカード時代
1950年代初頭、高級車メーカーのパッカードは小型車市場への対応や自動変速機の技術においてビッグスリー(GM、フォード、クライスラー)に遅れを取り、深刻な経営不振に陥っていた。再建に向けて有能な若手エンジニアを模索する中、クライスラーに入社してまだ1年のジョン・デロリアンに声がかかり、1953年、年俸14,000ドル(2025年換算で約16万ドル)でパッカードに引き抜かれた。
パッカードの開発チームに加わったデロリアンは、トルクコンバータを直結し燃費と加速を向上した「ロックアップクラッチ」、既存の2速トランスミッションに発進用ギアを組み込み発進加速を鋭くした「ツインウルトラマチック」を考案し、他にもプッシュボタン式ギアセレクター、ガラス埋込アンテナなどわずか3年の間に12件の特許を取得した[4]。研究開発部門の責任者に昇進し、彼の名は他の自動車メーカーでも知られるようになった。
パッカードは経営難を打開するため1954年にスチュードベーカーと合併し、それから2年後、デロリアンが本社への異動が決まった矢先にゼネラルモーターズ(GM)からオファーが届いた。
ゼネラルモーターズ時代
ポンティアック事業部へ
1956年、GMのポンティアック事業部の責任者セモン・クヌーセン(1912-1998)は、年俸16,000ドル(2025年換算で約18万ドル)プラス特別賞与を約束しデロリアンをパッカードから引き抜いた。 42歳の若さでポンティアック部門のトップに就任したクヌーセンはデロリアンの良き友人となり、後にデロリアンは『人生で最も影響を受けた人物』と語っている。
1960年、デロリアンが設計を担当したポンティアック・テンペストが発売された。コンパクトセダンながらも広い室内空間を確保し、リアトランスアクスル採用による50:50の重量配分、4輪独立懸架サスペンションなど、当時のアメリカ車の中でも異例のスペックを備えていた[5]。その開発の背景にあったのは、当時GMが推し進めていたシボレー・コルヴェアを流用するプラットフォーム共有化戦略に抗い、ポンティアック部門の独自性を守ろうとするクヌーセンとデロリアンの強いプライドであった[6][7]。

テンペストの成功により主任技師に昇進したデロリアンは、テンペストの上級グレードである「ル・マン」に6.4Lの大排気量エンジンを搭載した「テンペスト ル・マンGTOパッケージ」を考案した[8]。当時GMには「中型車の排気量は5.4Lまで」という自主規制があったが、デロリアンは既存モデルの派生バージョンという”裏技”を使ってこの規制をすり抜けた。車名はフェラーリ250GTOにあやかってデロリアン自身が名付けたもので、発売時にはポンティアックGTOと改められた。

GMはポンティアックGTOの販売台数を5千台程度と見込んで限定販売しようとしたが、1964年に発売されるや最初の1年で3万2千台を販売し[9]、自動車業界全体が販売不振に喘ぐ中でポンティアックの売上げは25%も上昇。それまで地味なブランドだったポンティアックは「GMのパフォーマンス部門」という地位を確立した。
これらの成果が称えられ、1965年、デロリアンはGM史上最年少となる40歳でポンティアック事業部の責任者に昇格した[10]。
成功と組織内の対立
数々の功績を残しながらも、デロリアンと組織の間には軋轢が生じていた。彼はGMが定める『ダーク系スーツに白シャツ、落ち着いた色のネクタイ』という社内規定を公然と無視してイタリア製スーツに柄物のネクタイ、またはノーネクタイで胸元のボタンを外すというカジュアルなファッションを好み、愛車にはGM製ではなくマセラティやフェラーリを選び、ハリウッド女優やモデルとの華やかな交友関係を隠そうとしなかった[4]。こうした自由奔放で反抗的ともとれる態度が保守的な上層部や同僚らの反感を買ったのである。
1966年、デロリアンは大人気のフォード・マスタングに対抗しようとポンティアック・バンシー(XP-833)というやや小ぶりのスポーツカーを起案したが、上層部は『シボレー・コルベット(C2)の需要を奪いかねない』という理由で一蹴した。ところが上層部はデロリアンたちが生み出したXP-833のデザインコンセプトをシボレーブランドに採用する指示を出し、デザインを盗み取る形で1968年の新型コルベットC3を発表した。一方でコルベットの下位に位置するシボレー・カマロを発表するという矛盾した決定も下し、ポンティアックからはカマロの姉妹車となるファイアバードが生まれた[11]。

それでもデロリアンの勢いは止まず、1969年にモデルチェンジをしたポンティアック・グランプリで再び大成功を収める。デロリアンはこの車に往年の高級車デューセンバーグをオマージュし、ポンティアック史上最長となる1.8メートルのボンネットやデューセンバーグと同じS、SJグレードを設定した。高級感と高出力エンジン、扱いやすいサイズが高く評価され、前年モデルの4倍近い販売台数を記録した。
組織内のわだかまりはあったもののデロリアンの業績は誰もが認めるものであり、年俸は20万ドル(2025年換算で170万ドル)、年間賞与は40万ドルに達した。さらにGMのトップブランドであるシボレー事業部を任されることになった。
シボレー事業部へ
1969年2月、デロリアンはシボレー事業部の統括責任者に就任した。
この時期のシボレーは、コルヴェアの悪評や過去最多となる670万台のリコールなど多くの問題を抱えており、デロリアンは直ちに改善策を打ち立てた。マイナーチェンジを控えるコルベット、カマロ、ノヴァの設計見直しによる大幅なコストダウン、在庫部品管理の合理化、全国のディーラー網の再構築など数々の政策を推し進めた結果、わずか3年で業績を回復させ、シボレー事業部だけでフォード社全体の売上に匹敵するほどの見事な復活を果たした[12]。
1972年、48歳のデロリアンは北米乗用車トラック部門を統括する副社長に任命され、文字通りGMのナンバー2となった[10]。次期CEOへの昇進が確実視されたが[4]、1973年4月2日、17年間勤めたGMを辞職することを表明した。
テレビのトーク番組に出演したデロリアンは「副社長になったあと、委員会の会議でいつものように中身のない議題を聞かされた。1か月ほど同じことを繰り返すうち、これが定年まで18年も繰り返されるなんて耐えられないと思った」と語り、GMから退職を薦められた噂を否定した。
デロリアン・モーター・カンパニー
DMCの発足
退職後は全米ビジネスマン同盟の会長を務める傍ら[12]、「グランプリ・オブ・アメリカ」という大人向けの本格的なゴーカート施設を支援し筆頭株主になった。(この事業は1975年に倒産している)
同時に彼は、新しい自動車メーカーを立ち上げるための資金集めに奔走していた。GMを退社してわずか1年後の1973年、自己資金400万ドルに加え銀行融資や計132名の投資家から資金を集め、総額2億ドルを投じてデロリアン・モーター・カンパニー(DMC)を立ち上げた。
設計・開発
デロリアンはGM時代の盟友ウィリアム”ビル”・コリンズ(1932-2024)をチーフエンジニアとして招き入れた。次にデザイナーを決めるため、デロリアンとコリンズは1974年のトリノ・オートショーに赴いてデザイン会社4社と協議し、ジョルジェット・ジウジアーロ率いるイタルデザインと契約を交わした。
1976年、オールステート保険から50万ドルの資金提供を受けて製作した「DSV-1」というコンセプトモデルを発表[13][14]。ポンティアック時代から温めてきたステンレスボディ、FRPよりも軽量で剛性に優れるERMシャーシー[15]、ミッドシップマウントのロータリーエンジン、0-100キロ到達まで7秒の加速力など、高性能ぶりをアピールすると同時に、安全性・耐久性をも兼ね備えた”Ethical sports car”(道徳的なスポーツカー)を提唱した。
投資家への印象を良くする狙いからDSV”DeLorean Safety Vehicle”と命名したが、1970年に登場して失敗したブリックリンSV-1(Safety Vehicle oneの略)を連想することや、また予定販売価格の12,000ドルをアピールするため、「DMC-12」に変更された[16]。
※DMC-12は社内のコードネームであり、DMC社が公式に使用したことはない。
アリゾナ州フェニックスで作られた試作車は相次ぐ故障とパワー不足に悩まされ、とても人前で披露できる代物ではなかった[16]。行き詰まったデロリアンはポルシェを頼り3ヶ月ほど交渉を続けたが、「完成まで最短でも4年は必要」という回答だった[16]。そこに現れたのがロータスの創業者、コーリン・チャップマン(1928-1982)である。チャップマンは18ヶ月で量産体制に漕ぎ着ける約束をし、このプロジェクトを引き受けた[17]。
融資と工場の誘致
1978年頃、デロリアンは資金と生産拠点を確保するため各地で熱心なロビー活動を行い、プエルトリコ政府から4,000万ドルの融資および米空軍基地跡地を借用する仮契約に至った。ところが1週間も経たないうちにデロリアン側から一方的に契約破棄の申し出があり、イギリスに変更すると発表があった。
デロリアンは政情が不安定な地域は失業者が多く、つまり積極的に企業を誘致するだろうと考え、紛争が続くアイルランドと北アイルランドとも交渉を続けていたのだった。アイルランドはすぐに辞退したが、イギリス政府は北アイルランドの治安改善と失業者対策に期待し、開発資金の1億2千万ドルとベルファスト近郊のダンマリーの荒地に工場用地を提供すると決定[18]。この件でプエルトリコのロメロ・バルセロ知事は「ジョン・デロリアンは二枚舌だ」と公式に抗議する事態に発展した。
1980年5月までに量産1号車を完成させるというイギリス政府との契約を守るため[19]、ロータスは設計見直しに取り掛かった。コリンズが設計したERMシャーシは量産が難しいと判断し、ロータスが得意とするスチール製バックボーンシャーシに切り替えた[14]。また、重量が増すステンレス鋼板と重心が高くボディ剛性も落ちるガルウィングドアを中止しようとしたが、デロリアンは「これがなければ私の車ではない」と断固として譲らなかったという。
生産
コンセプトモデルの発表から3年が経過しようやく量産が始まるという段階になって、デロリアンはデザインに新鮮味が失われたと考えフェイスリフトを敢行した。外観上の小変更に思えたが、実際は関連する様々な箇所での設計変更が発生し、1980年5月としていた完成予定が翌年1月まで延期となった。ロータスの工場からも半数以上の従業員が動員されたためロータスの生産にも影響が及んだ[16]。
ダンマリーの工場では約2,500人が働き、小さなオフィスは事務職員と秘書、受付など8人程度が常駐した。デロリアンがオフィスに長時間いることは滅多になく、ロンドンの高級ホテルに宿泊しプライベートジェットを使って日帰りで訪れた。北アイルランドではIRAによる外国人や実業家を標的とした襲撃や誘拐事件は珍しくなく、デロリアンの警戒心は決して大袈裟なものではなかった。
工場が建つ場所は長く対立が続くカトリック居住区とプロテスタント居住区の中間にあり、異教徒同士の衝突を避けるため工場の通用門は両側の2か所に設けられ、駐車場や食堂も分離された。実際に北アイルランド紛争下のダンマリーの治安は悪く、深夜に窓に銃弾が撃ち込まれたり、市内全域で発生した暴動で倉庫に火炎瓶が投げ込まれたこともあったが[20]、工場に入れば異教徒同士が協力し合う光景が多く見られたという。賃金と労働条件はアメリカの基準に基づいており、ベルファストの他の企業よりもはるかに優遇されていた[20]。
スケジュールが切迫する中、ほとんどが素人同然の従業員だったにもかかわらず、下請け工場が製造したコンポーネントを工場で組み立てる方式を採用したため生産は効率良く進んだ。この方式は後の自動車工場の生産方式の通例となっている[19]。
DMC-12のデビュー
1981年1月21日、量産型第1号車を初出荷する式典が執り行われた。
第1号車(VIN♯500と呼ばれる)が従業員の運転で工場を出たところで、外に積まれた空のコンテナにぶつけてしまうというアクシデントが発生[21]。すぐに車を入れ替えようと他の従業員が2号車(♯501)に乗り込んだところ、ガルウィングドアに手が届かず大急ぎで革製ストラップを追加した[22]。記念式典で撮影された記念すべき1号車は実は2号車だったが、デロリアンは工場の離れた場所にいたのでこの騒動を知らないままだったという。
同年2月15日、トロント国際オートショーでDMC-12が初公開された。
開発段階で次々と妥協を強いられた結果、ロータス・エスプリとよく似たシャーシ構造に130馬力の大衆車向けPRVエンジンを搭載する平凡なリアエンジン車となり、5年前のコンセプトとは大きく異なるものとなっていた[23][15]。PRVエンジンの選択は間違いではなかったが、アメリカの排ガス規制に適合させる過程で大幅にデチューンされてしまい、カー・アンド・ドライバー誌が実施した0-100キロ加速のテストで10.5秒という鈍重さを露呈した[24]。ただ同誌はパワー不足や高額な価格に触れつつも、ハンドリングや乗り心地、インテリアの出来などを高く評価しており、『もし販売を継続できたらジョン・デロリアンはヘンリー・フォードと共に自動車業界に名を残すかもしれない』と好意的な見方もしている[14]。
販売の低迷
新型車への期待とジョン・デロリアンの知名度のおかげで発売開始時のバックオーダーは3万台を超えており、好調な滑り出しが期待された。しかしこの時代、アメリカ経済は悪化の一途を辿り、1981年冬にアメリカ北部を襲った記録的な大雪もさらなる打撃となった。イギリスポンドの為替レートの悪化により、予定価格の12,000ドルを25,000ドルに、1年後には34,000ドルに値上げせざるを得なくなった[25]。アメリカを代表するスポーツカー、シボレー・コルベットが16,000ドルとあってはアメリカ市場での競争は困難であった[26]。さらに各地で販売された車両に様々なトラブルが発生し、そのうえディーラーに修理マニュアルを配布しなかったため十分な修理が出来ず悪評ばかりが広がった。
DMC創設時にジョン・デロリアンが理想として掲げたのは、馬力至上主義のアメリカ車とは一線を画す革新的なスポーツカーであった。皮肉にも今必要なのは馬力だと悟った彼は、販売開始から5か月という早い段階で高出力エンジンの開発に取り掛かった[27]。ターボチャージャーを専門とするレジェンド・インダストリー社と提携して、インタークーラー付きツインターボで200馬力にパワーアップした試作車を製作し[28]、0-100km/h加速5.8秒を達成。直ちに5,000基の供給契約を結び[29]、7,500ドルでオプション販売する計画を立てた[14]。
DMCの終焉

しかし時すでに遅く、発売から1年も経たないうちに、製造された約8,500台のうち5,500台が売れ残るという絶望的な状況に陥っていた。在庫車を処分するため大幅値引きや長期保証などのキャンペーンを行うも成果は得られず、また全国のディーラー343店舗に6台ずつ購入するよう指示したが1店舗も従わなかった。
資金繰りに困ったデロリアンはイギリス政府に4,000万ドルの追加融資を求めるが、1979年に始まったサッチャー政権は、既に1億2千万ドルもの大金を投じた赤字企業を援助するつもりなどなかった。1982年に入ると従業員1,300人が解雇され、抗議に集まった従業員がフェンスを乗り越えオフィスを占拠する暴動事件にまで発展した。
再起を賭けたターボエンジン搭載車は4台が試作されただけに終わり、1982年5月に製造ラインを停止した。DMCは1億7,500万ドルの負債を抱えたまま、会社更生法の適用を受け幕を閉じた。
公金横領事件
DMCが経営破綻した直後の1982年、イギリス政府が融資した資金のうち、約1,765万ドル(2025年換算で7,800万ドル)が不当に流用されていたことがFBIの捜査によって明らかとなった。
不正が行われたのはDMC-12を開発中の1978年末から1979年頃と見られる。パナマ共和国にあるGPD(General Product Development)という会社へ、「ロータス社への開発委託費」として合計1,765万ドルが複数回にわたって支払われた。そのGDPの実態はロータス社の会長コーリン・チャップマンと財務担当のフレッド・バシェル(1934-2006)が設立したペーパーカンパニーであり、その本社はジュネーブの宝石販売業社だった[30]。大金はGDPを経由してスイス銀行へ振り込まれ、そこからデロリアンに50%、チャップマンに45%、バシェルに5%の割合でそれぞれの個人口座に分配したと見られる[31]。
当時GPDとの契約書を見せられたビル・コリンズは、強い不信感を抱き契約書への署名を拒否していた。ポンティアックにいた頃からデロリアンの右腕のような存在だったが、ロータスの介入による大幅な設計変更やこの不正疑惑ですっかり失望し、1979年にDMCを辞職した。
チャップマンは裁判が始まる前の1982年12月に心臓麻痺で急死。後継者のバシェルは1992年に資金横領罪で告発され、罰金150万ポンド(270万ドル)と懲役3年の実刑判決を受けるが[32]、もしチャップマンが存命だったら懲役10年は逃れられなかっただろうと言われている。デロリアンも1992年にイギリス政府から告訴されたが、アメリカが身柄引渡し要求に応じなかったため逃げ切った[33]。
コカイン事件
1982年10月19日、ジョン・デロリアンは27キロのコカイン所持および100キロのコカイン密輸計画の共謀罪でFBIに逮捕された[34]。DMCの工場を10日以内に閉鎖すると発表があった数時間後のことであった。
逮捕までの経緯
1982年6月28日、デロリアンのもとへ ジェームズ・ティモシー・ホフマンという男から電話があった。ホフマンはデロリアンが所有するカリフォルニア州パウマバレーの家の近隣に住んでいた顔見知りで、倒産の危機にあるDMCを救う手立てがあるという。
2週間後の7月11日、ニューポートビーチのマリオットホテルで面会した。ホフマンは「ある投資家が1,500万ドルの支援を考えている。私はその仲介料150万ドルと手数料30万ドル、計180万ドルが欲しい」と持ちかけ、他に選択の余地がないデロリアンは承諾した。だがホフマンの正体は麻薬関連容疑で逮捕された犯罪者であり、当時FBIとの司法取引に応じて麻薬密輸業者の捜査に協力中だった。
ホフマンは取引の監査役として金融業のジェームズ・ベネディクトを加え、9月20日にロサンゼルスのベルエア・サンズホテルで再び会合を開いた。このときホフマンは「コロンビアに投資すれば3,000万ドルが手に入る」という違法薬物の関与を仄し、ロサンゼルスの麻薬ディーラーのジョン・ヴィチェンツァを紹介した。ホフマンの説明では『デロリアンが用意した180万ドルで100キロのコロンビア産コカインを買い、パイロットのウィリアム・ヘトリックという男が密輸し、ヴィチェンツァが米国市場に流し、その売上の資金洗浄をベネディクトが行う。デロリアンは再編後のDMC株50%をヴィチェンツァに譲渡する』という筋立てだった。
だがデロリアンに180万ドルもの大金を揃える余裕はない。そこでベネディクトは「DMC株を1000株と40台のDMC-12を担保にして手形を発行すればいい」と促した。部屋には隠しカメラがあり、これらの会話はデロリアンが違法薬物の取引を認める証拠として記録された。
10月19日、ニューヨークからロサンゼルス国際空港に到着したデロリアンは空港でホフマンとベネディクトに迎えられ、空港近くのシェラトンホテル501号室に入った。部屋にはデロリアン、ホフマン、ベネディクト、ヴィチェンツァの4人が揃い、ベネディクトが皆にシャンパンを注いだ。ヴィチェンツァがクローゼットからブリーフケースを取り出し、皆の前で27キロのコカインを見せた。ここでデロリアンが「純金よりも価値がある」と言う姿が録画される。その数分後、隣室で待機していたジェリー・ウェストFBI捜査官が部屋に踏み込み、デロリアンをコカイン所持の現行犯で逮捕した。
これはFBI、DEA、税関、州警察などによる5か月にわたる合同捜査で、ベネディクトの正体はFBIのベネディクト・ティサ捜査官、ヴィチェンツァはDEAのジョン・ヴァストレラ捜査官[35]だった。密輸業者のウィリアム・ヘトリックも数日内にロサンゼルス市内で逮捕された[36]。
裁判
拘留されたデロリアンはニューヨーク5番街のアパート、ニュージャージー州の牧場、パウマ・バレーの自宅を担保にして25万ドルの保釈金を収め仮釈放された。拘束されたのはわずか10日間だった[37]。
裁判は1983年に始まる予定だったが、FBIのビデオテープがラリー・フリントによってリークされてしまい、裁判所は陪審員が先入観を持ち公正な審理を妨げる恐れがあるとして翌年まで延期した[38]。
1984年4月19日に始まった裁判は、麻薬取引を企てた首謀者はデロリアンだという検察側の主張で始まった。しかしデロリアンの秘書は「最初の電話はホフマンからだった」と証言し、さらに「デロリアンを大金で釣る計画がある。やつは俺の言いなりだ」とホフマンが周囲に吹聴していた事実が明らかにされた。ホフマンは「彼とは親友だ」、それに対しデロリアンは「ホフマンとは路上で一度だけ立ち話をしたことがある」と正反対の証言をするが[30]、前科者のホフマンと犯罪歴のない実業家のデロリアンとでは、陪審員が持つ印象はデロリアンのほうが間違いなく有利であった。
また、おとり捜査の過程で、デロリアンに資金調達の能力がないと知りながら取引を続行したことや、ホフマンがデロリアンの家族の危険を仄めかし脅迫したという供述、ベネディクト・ティサ捜査官が取引のメモを全て破棄したことなど横暴な捜査方法が挙げられ、検察側の言い分は次々と覆された[39]。証拠のビデオテープについてデロリアンは「危険な相手だから従うふりをしろと弁護士から助言された」と弁明した。
22週間の裁判の後、陪審員は『事業を守ろうとする経営者の心理的弱点を突いた不当なおとり捜査』と結論付け、全員一致で無罪判決を下した。他にも投資家から集めた資金横領など約40件の容疑で起訴されたがすべて無罪となった。
その後の事業
コカイン所持や投資詐欺疑惑など全て無罪を勝ち取ったものの、実業家としての社会的信用は失墜し、数百万ドルの弁護費用が残された。
1982年にキリスト教へ改宗し、信仰に救いを求める一面も見せた(それ以前の宗教は不明) 。3年後の教会の集会で『留置所のベッドで聖書を読んでいると、まるで抱擁されているような救われた気持ちになった』と逮捕当時を回想している[40]。だがその一方で裁判を有利にするための彼らしいパフォーマンスだいう見方もある。
1984年(無罪判決の翌年)に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が公開されるとDMC-12が再び脚光を浴び、ミニカーなどのライセンス料を弁護費用の支払いに充てることが出来た。デロリアンは脚本家のボブ・ゲイルに感謝の手紙を送っており[41]、その後1989年に映画制作会社のユニヴァーサルと収益の5%を受け取る商業契約を結んでいる[42]。
1994年頃、再び自動車メーカーを起業しようとし、その資金集めの目的で「デロリアンタイム」というブランドを立ち上げ、ステンレス製腕時計「D=MC2」を3,495ドルで販売した[43]。購入特典として新型スポーツカーを先行予約出来る権利が付帯する。映画のおかげでDMCにはカルトな人気がありよく売れたが、裁判所から収益は全て弁護士に返済するよう命じられたため手元には残らなかった。
華やかな生活もやがて終焉を迎え、1999年にとうとう自己破産を申請。それでも再起の意欲は失せることなく、2004年9月に「デロリアン・オートモービル」の商標登録を出願した記録が残っている。
2005年3月19日、少し前に発症した脳卒中の合併症により80歳で亡くなった[44]。最後に住んでいたのはワンルームの賃貸アパートだったという[45]。葬儀にはたくさんのDMC-12が集まり列を成した。彼の遺灰はミシガン州トロイのホワイトチャペル墓地に埋葬され、墓石にはガルウィングドアを広げたDMC-12が描かれている[46]。
陰謀説
ジョン・デロリアンは晩年まで、「DMCはアメリカとイギリスによって政治的に潰された」という陰謀論を主張し続けた。
- 「イギリス政府は北アイルランド紛争による失業問題の解決策として私を利用したが、思うように成果が出ないとみるやすぐに切り捨てた。アメリカでは革新的な自動車メーカーの参入を恐れたビッグスリーが政界に働きかけ、FBIを使って私をコカイン密売の容疑者に仕立て上げた。
- 2つの出来事がほぼ同時に起きたのは単なる偶然ではない。両国が共謀したのだ。裁判は無罪だったが私だけが社会的地位を失った。誰も責任を負っていないのも極めて作為的だ。」
しかしこれらの事実を客観的に見ると、経営が悪化したのはDMCの設計開発の遅れや奔放な経営方針など、彼自身が招いた結果に過ぎない。そこにアメリカの記録的な不況、公的融資に極めて消極的なサッチャー政権の台頭などの複数の要因が運悪く重なったのが実状である。
また、北アイルランドで失敗した企業はDMCだけではない。アメリカのビジネスジェット機メーカー、リアファン社(Lear Fan)にも似たような顛末が起きている。同社が開発したリアファン2100(乗客7名+乗員3名)は、軽量な複合素材を使用した低燃費のプロペラ機でありながら小型ビジネスジェット並みの速度を売りにしており、デロリアンが掲げた理念と共通するところがあった。イギリス政府から7,200万ドルの融資を受け、生産が始まればベルファストで2,800人の雇用を生み出すと期待されたが、アメリカ連邦航空局がプロペラへの動力伝達装置の信頼性を懸念し認可が下りず、試作機が3機完成しただけで1985年に経営破綻へと追い込まれている[47]。
人物
カリスマ性の構築
ジョン・デロリアンは自動車業界の中でひときわ個性的で注目される人物であった。単なる大企業の重役という枠に収まらず、ニューヨークとロサンゼルスを行き来しながらビジネス界やエンターテイメント界の著名人らと交流を深め、1970年代後半にはニューヨーク・ヤンキースおよびサンディエゴ・チャージャーズの主要株主の1人となるなど[48]、一般大衆の誰もが知る存在となった。
身長193センチという長身に満足せず91キロあった体重を72キロまで絞り、黒く染めた長めの髪でもみあげを伸ばした。GMが幹部社員に定める『黒またはネイビーのダークスーツに白シャツと落ち着いた色のネクタイ』というルールに逆らい、イタリア製スーツに巾広のネクタイを身に付け、ノーネクタイのときは胸元をはだけて金のネックレスで飾った。GM社員にもかかわらずマセラティなどのイタリア車を愛用した。ポンティアックに在籍していた頃には、車の購入者に車と自分が写るサイン入り写真を贈呈したという。
1968年に数週間のヨーロッパ出張から戻ったときには、顎の雰囲気が変わっていることに皆が気付いた。彼は「若い頃にレースカーの事故で顎を負傷したことがありその再建手術をしたのだ」と説明したが、当時の妻エリザベスは離婚後、スイスの美容整形外科医から届いた請求書をマスコミに暴露した[49]。
彼のセルフプロデュースは名前にも及ぶ。DMCを運営し始める頃から、ルーマニア移民の父親の姓である Delorean(デロリアン)を、フランスの貴族出身のように思わせたかったのか、 De Lorean(ド・ロリアン)と途中にスペースを入れ L を大文字で表記するようになった。
‘60年代アメリカの人種問題
黒人差別が根強く残る1960年代に、デロリアンは黒人を積極的に雇用しようとした1人であった[49]。
J.F.ケネディの広報活動やジャーナリストとして有名なウィリアム・ハダットは、GMから広報コンサルタントの仕事の依頼を受けた際にデロリアンと知り合った。ハダッドは、ディーラーやガソリンスタンドで有能な黒人を見つけたら紹介して欲しいとデロリアンから頼まれたという。大企業でも黒人社員が罵倒される光景が珍しくなかった時代、デロリアンも差別用語を平然と使う男ではあったが、カリフォルニアや全米のディーラーを飛び回るうちにリベラルな思考に感化されたのだった。
デロリアンは管理職にも白人と黒人をバランス良く配置するべきだと考え、GMインスティテュート(現在のケタリング大学)の採用を数年間だけ黒人のみに限定する提案をしたが、この案は却下された[49]。
その後ハダットの著書である『黒人の経済発展』がコロンビア大学の授業で採用された際、そこに記述されているデロリアンの黒人社会への貢献が賞賛を浴び、デロリアンには講演の依頼が殺到した。
傲慢な理想主義者
1979年に出版された『晴れた日にはGMが見える』“On A Clear Day You Can See General Motors”は、作家のJ.パトリック・ライトがデロリアンの口述をまとめた書籍である。本書の中でデロリアンは硬直化したGMの企業体質を厳しく批判した。
GMに入社し初めて出席した会議の議題が「茶色のスーツを着てきたため帰宅を命じられたある重役の話」だったという逸話や[50]、有能な部下の発言やアイデアを抑え込む風潮があったこと、小型車の需要を軽視した結果、日本車や欧州車に市場を奪われた顛末など、巨大企業の極めて保守的な内情を次々と暴露した[51]。
だがそういった環境で『自分は特別な存在だ』という強い自負を抱き、理想を求めたことが読み取れる。コカイン事件終結後、雑誌のインタビューで「私の最大の罪は飽くなき野心だ。振り返ると私ほど傲慢な人間は他にいなかったと思う」と当時を振り返る。だがその反省とも取れる言葉とは裏腹に、数百万ドルの弁護費用を未払いにしたままニューヨークの900万ドルのアパートとニュージャージー州の400万ドルの屋敷を手放そうとしなかった[要出典]。
数々の裁判で無罪を勝ち取ったハワード・ワイツマン弁護士は、デロリアンの死後に次のように評している。「彼は非常に聡明で革新的、しかも失敗を恐れない男だった。しかしその傲慢さと特権意識が企業経営における判断力を鈍らせたのだと思う」。
私生活
デロリアンは4度の結婚をした。
最初の妻エリザベス・ヒギンズとは1954年に結婚し、25年間の結婚生活ののち1968年に離婚した[52]。
その翌年、44歳のデロリアンは19歳のモデル兼女優、ケリー・ハーモン(俳優マーク・ハーモンの妹)と結婚。2人はニューヨークやロサンゼルスで社交界やMLB・NFLのVIP席に頻繁に姿を見せた。長男ザッカリーを養子として迎え入れたが3年後に離婚した。その後はウルスラ・アンドレスやジョーイ・ヘザートン、キャンディス・バーゲンなどとの交際が噂されるなど、華やかな私生活で話題を振りまいた。
1972年、GMのナンバー2になったデロリアンは、ヴォーグの表紙を飾る25歳年下のクリスティーナ・フェラーレに一目惚れした。彼は「映画スターに恋する10代の若者のようだった」と当時の心境を著書に書いている。ケリー・ハーモンとの離婚裁判中にもかかわらず、人脈を駆使して5か月後にグッチのファッションショーでようやく彼女と会うことに成功し、その翌年に結婚した[30]。モデル・女優として活躍するクリスティーナはDMCの資金調達や宣伝広報に一役買った。その後1977年に長女のキャサリンが生まれ、一家はセントラルパークが見渡せるニューヨーク5番街の高級アパートで暮らした[53]。
クリスティーナは1984年のコカイン事件を一緒に乗り切るが、無罪判決が下ったわずか数週間後に離婚した。後にクリスティーナは「裁判が終わるまで妻としての責任を担ったが、事件を通じて夫の本性を知り夫婦関係は冷め切っていた」と発言している。離婚したあと、娘のキャサリンは1日に2回、10分間だけ父親に電話をかけることを許可されたが、父親と少しでも長く話したいキャサリンは算数の宿題を教えてもらうという口実を考えた。そして天才エンジニアに教わった結果、4年生のときに中学3年のレベルまで進んだという[54]。
その後時期は不明だがサリー・ボールドウィンと交際を始め、ニュージャージー州ベッドミンスターに所有する434エーカーの牧場に住んでいたが、1999年の自己破産によりゴルフ場開発業者に売却し(直後にドナルド・トランプが買収した)、ニュージャージー州モリスタウンに引っ越した。2002年にサリーと正式に結婚し、同じ年に娘のシーラが生まれた。デロリアンが亡くなる3年前のことだった。
後継者
クリスティーナ・フェラーレとの間に生まれたキャサリン”キャット”・デロリアンはDNG Motors (DeLorean Next Generation Motors)の役員となり、DMC-12の後継車となる「Model-JZN」を市場へ投入する準備を進めている。(2025年現在)
「デロリアン」の名を冠したプロジェクトは過去にもいくつか存在したが、キャサリンは単なるノスタルジーではなく『家族による正統な後継車』という立場を強調する。Model-JZNは1980年代にジウジアーロがデザインし構想のみで終わったDMC-24(4人乗りセダン)をモチーフとしており、車名は父親の名前の頭文字から命名した。
関連項目
- DMC-12
- 「ジョン・デロリアン」”Driven” - 1981年の映画。リー・ペイスがデロリアンを演じる。
- 「フレーミング・ジョン・デロリアン」”Framing John DeLorean” - 2019年の映画。アレック・ボールドウィンがデロリアンを演じる。
- 「バック・トゥ・ザ・フューチャー」"Back to the Future" -1985年の映画。