ジョン・ボーズ (初代ボーズ男爵)
From Wikipedia, the free encyclopedia

初代ボーズ男爵ジョン・ボーズ(John Bowes, 1st Baron Bowes PC (Ire)、1691年 – 1767年7月22日)は、イングランド出身の裁判官、政治家、アイルランド貴族。アイルランド法務次官(英語版)、アイルランド法務長官(英語版)、アイルランド財務裁判所主席裁判官(英語版)、アイルランド大法官(英語版)を歴任した[1]。大法官在任中の1759年、プロテスタント優位でカトリック刑罰法が定められているアイルランドにおいて、カトリック信者は法人および個人としての権利を主張できず、「法律において存在が想定されていない」とする判決文を出して物議を醸した[2]。
トマス・ボーズ(Thomas Bowes)と妻(旧姓ノース)の次男として、1691年にサリー州またはハートフォードシャー州で生まれた[3]。1712年12月6日にインナー・テンプルに入学、1718年6月29日にロンドンで、1725年9月29日にダブリンで弁護士資格免許を取得した[1]。フィリップ・ヨーク(後のイギリス大法官、初代ハードウィック伯爵)とともに法律を学んでおり、ヨークは後にボーズの後援者になった[3]。1725年にアイルランド大法官(英語版)に就任したリチャード・ウェスト(英語版)とともにアイルランドに赴いており[3]、1727年に第三上級法廷弁護士(英語版)に任命され、1728年に第二上級法廷弁護士に昇進した[1]。1730年にアイルランド法務次官(英語版)に転じ、1731年にタグモン選挙区(英語版)からアイルランド庶民院議員に選出された[1]。ボーズは庶民院議員としても弁護士としても雄弁家であると評された[2]。もっとも、アイルランドに赴任した直後にはイングランドでの昇進のための赴任と割り切っており、「休日はお酒を飲むことが仕事である」と愚痴をこぼした[3]。また同僚からも上から目線の態度が嫌われた[2]。1739年に行われた、第4代サントリーのバリー男爵ヘンリー・バリー(英語版)の殺人容疑をめぐる裁判で検事を務めた[3]。
1739年にアイルランド大法官が空位になると、アイルランド庶民院議長(英語版)ヘンリー・ボイルとアーマー大主教(英語版)ヒュー・ボルター(英語版)は人選にボーズとアイルランド法務長官(英語版)ロバート・ジョスリンを挙げ、ハードウィック伯爵と首相ロバート・ウォルポールはジョスリンを選んだ[3]。ボーズはジョスリンの後任として法務長官に昇進した[3]。
1741年にアイルランド財務裁判所主席裁判官(英語版)に転じ、1742年1月23日にアイルランド枢密院(英語版)の枢密顧問官に任命された[1]。財務裁判所主席裁判官として、第6代アングルシー伯爵リチャード・アンズリー(英語版)とジェームズ・アンズリー(英語版)のオルタム男爵(英語版)位とアングルシー伯爵家の遺産をめぐった裁判(1743年11月)で裁判官を務めた[4]。1753年から1756年までの金銭法案をめぐる論争をアイルランド政府を揺るがすものとして批判した[3]。
1757年3月22日にアイルランド大法官に任命され、1758年8月15日にアイルランド貴族であるミーズ県クロンライアンにおけるボーズ男爵に叙された[1][5]。1757年10月に大法官としてアイルランド貴族院議長に就任した[2]。大法官に任命された理由はハードウィック伯爵の後援とされる[4]。大法官としてアイルランドの成文法の出版を推進し、1762年に実現した[4]。
1759年12月にアイルランド王国とグレートブリテン王国の合同に反対する暴動が発生したとき、ダブリンのカレッジ・グリーン(英語版)で群衆により馬車から引き摺り出され、合同に反対するよう誓わされた[2]。これにより、アンソニー・マローン(英語版)、チャールズ・ルーカス(英語版)、ジョン・ヒーリー=ハッチンソン(英語版)など群衆の主張を支持する政治家を嫌うようになった[2]。
カトリック刑罰法をめぐり、1757年に初代クランブラシル伯爵ジェームズ・ハミルトンが提出した、ローマ・カトリック教会の聖職者を公的に登録させる法案に反対した[2]。公的に登録させると、聖職者として法的に承認することになるという主張だった[3]。1759年にはカトリック信者のローレンス・サウル(Laurence Saul)がアイルランド国教会への改宗を強制されそうになった女性をかくまったことで裁判にかけられ、ボーズは事件の判決で「アイルランドの法律では『アイルランドのローマ・カトリック信者』という存在を想定していない」と書いて論争を呼んだ[3][2]。ローマ・カトリック信者が「弾圧と刑罰」を目的として存在を認められるにすぎず[1]、法人としての権利を主張できず、個人としての権利もないという論旨だった[2]。
アーマー大主教ジョージ・ストーン(英語版)が1764年に死去した後はアイルランド政府の重鎮になり、1765年から1766年にかけてLord Justiceを務めた[2]。
長年痛風に悩まされた後、1767年7月22日にダブリンのドラムコンドラ(英語版)で生涯未婚のまま死去[2]、ダブリンのクライストチャーチ大聖堂に埋葬された[1]。後継者がおらず、爵位は一代で廃絶した[1]。遺産は20万ポンドに上った[2]。
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 259.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 Quinn, James (October 2009). “Bowes, John”. In McGuire, James; Quinn, James (eds.). Dictionary of Irish Biography (英語). United Kingdom: Cambridge University Press. doi:10.3318/dib.000819.v1.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 Connolly, S. J. (3 January 2008) [23 September 2004]. “Bowes, John, Baron Bowes of Clonlyon”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/3052. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- 1 2 3 Gilbert, John Thomas (1886). “Bowes, John (1690-1767)” . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 6. London: Smith, Elder & Co. p. 58.
- ↑ “No. 9813”. The London Gazette (英語). 29 July 1758. p. 2.
外部リンク
- ジョン・ボーズ - ナショナル・ポートレート・ギャラリー (英語)

- “ジョン・ボーズの関連資料一覧” (英語). イギリス国立公文書館.

| アイルランド議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 リチャード・サンダース ウィリアム・ホーア |
庶民院議員(タグモン選挙区(英語版)選出) 1731年 – 1742年 同職:ウィリアム・ホーア |
次代 チャールズ・ガーディナー(英語版) ウィリアム・ホーア |
| 公職 | ||
| 先代 ロバート・ジョスリン |
アイルランド法務次官(英語版) 1730年 – 1739年 |
次代 セント・ジョージ・コールフィールド(英語版) |
| 先代 ロバート・ジョスリン |
アイルランド法務長官(英語版) 1739年 – 1741年 |
次代 セント・ジョージ・コールフィールド(英語版) |
| 先代 トマス・マーレイ(英語版) |
アイルランド財務裁判所主席裁判官(英語版) 1741年 – 1757年 |
次代 エドワード・ウィリス(英語版) |
| 先代 初代ジョスリン子爵 |
アイルランド大法官(英語版) 1757年 – 1767年 |
次代 ジェームズ・ヒューイット |
| アイルランドの爵位 | ||
| 爵位創設 | ボーズ男爵 1758年 – 1767年 |
廃絶 |