ジェームズ・ヒューイット (初代リフォード子爵)

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ジョシュア・レノルズによる肖像画。

初代リフォード子爵ジェームズ・ヒューイットJames Hewitt, 1st Viscount Lifford PC (Ire) KC1712年4月28日1789年4月28日)は、グレートブリテン王国出身の裁判官、政治家。アイルランド大法官英語版を22年間務め(歴代3位の長さ)[1]、前評判を覆して同時代の政治家から高い評価を下された[2]

ウィリアム・ヒューイット(William Hewitt、1683年9月14日 – 1747年11月22日、ジェームズ・ヒューイットの息子)と妻ハンナ(旧姓ルイス)の息子として[1]、1712年4月28日に生まれた[2]。最初は事務弁護士になるべく、事務弁護士ジェームズ・バーチ(James Birch)の書記になったが[1]、1737年にミドル・テンプルに入学、1742年11月に法廷弁護士の資格免許を取得した[3]。弁護士として成功し[3]、1754年に上級法廷弁護士英語版、1759年に勅選弁護士英語版に任命された[1]

父は1744年にコヴェントリー市長を務めた人物であり[1]、ジェームズ・ヒューイットも1754年イギリス総選挙コヴェントリー選挙区英語版から出馬したが、811票(得票数3位)で落選した[4]。コヴェントリーの都市自治体から後援を受けたにもかかわらずの落選だったが、1761年イギリス総選挙で再び都市自治体の後援を受けて出馬、今度は1,079票(得票数1位)で庶民院議員に当選した[4]

庶民院では1762年に七年戦争の予備講和条約に賛意を示し、しばらく与党に同調したが、ジョン・ウィルクスの一般逮捕状(general warrant)をめぐる弁論で野党に転じ、以降主に法律に関する議題で野党の論客の1人になった[2]。1765年に政権交代があり、第1次ロッキンガム侯爵内閣が成立すると、ヒューイットは弟ウィリアムを代表して官職を申請し、認められた[2]。その後、1765年2月に印紙法案に反対、1766年に宣言法案英語版(イギリス議会に13植民地への課税権があると宣言する法案)に反対した[2]。同年にチャタム伯爵内閣の対米州植民地政策を支持したことで、11月6日に王座裁判所英語版判事に任命され、議員を退任した[2][3]

1767年10月にアイルランド大法官英語版の人選が討議されたとき、グレートブリテン大法官初代カムデン男爵チャールズ・プラットはヒューイットを「いい弁護士で誠実な人であるが、推薦されるほど高名ではない」と評した[2]。しかし内閣がイングランド人を選ぼうとし、法曹界の高位な裁判官が誰も就任に同意しなかったことからヒューイットが選ばれ[2]、1768年1月9日に正式に任命された[3]。同日にアイルランド枢密院英語版の枢密顧問官にも就任したほか、アイルランド貴族であるドニゴール県リフォードにおけるリフォード男爵に叙され、27日にアイルランド貴族院議長に就任した[1]。1781年1月8日にアイルランド貴族であるドニゴール県におけるリフォード子爵に叙され、10月9日にリフォード子爵としてアイルランド貴族院議長に就任した[1]

元首相ジョージ・グレンヴィルによれば、王座裁判所主席裁判官英語版初代マンスフィールド男爵ウィリアム・マレー英語版はアイルランド大法官に任命されたヒューイットを嘲笑した[2]。しかしヒューイットは1789年に死去するまで22年の長きにわたり大法官を務め、プランタジネット朝のスティーブン・リデル(Stephen Ridell、33年)とフロマンド・ル・ブラン英語版(24年)に次ぐ歴代3位の長さとなった[1]

在任中にグレートブリテン議会アイルランド議会の政争があり、1782年憲法英語版でアイルランド議会が独立した立法権と司法権を勝ち取る事件が起こった[3]。また、年俸が12,000ポンドに上るとされた[5]

年金と引き換えに引退することを検討したが、実現する前に[3]1789年4月28日にダブリンで病死、クライストチャーチ大聖堂に埋葬された[1]。同名の長男ジェームズが爵位を継承した[1]

アイルランド大法官として判決文が現存する最初の人物であり、1839年にその一部が『Reports of select cases argued and determined in the high court of chancery in Ireland, principally in the time of Lord Lifford』として出版されたほか、キングズ・インズ英語版に一部が現存する可能性もある[5]

人物

文人ホレス・ウォルポールによれば、ヒューイットは「代議士としての才能の無さで軽蔑された」という[2]。政治家ジェームズ・ハリスはヒューイットの1764年3月の演説について、「ヒューイット弁護士が続いて発言した。すると、かすれた囁きが議場に響いた。彼は発言を見られたが、聞かれはしなかった。たまに『陪審員』(jury)や『自由』(liberty)といった単語が聞こえてくる」と酷評した[2]。同様の評価とみられるアネクドートに、財務大臣チャールズ・タウンゼンドが議場の様子を聞かれ、「弁護士さん(ヒューイット)だけ起きている」と返答したというものがある[3]

アイルランド大法官としては前評判を覆し、同時代の人物から高評価が下された[2]。たとえば、『英国議会史英語版』が「他人を滅多に褒めないアイルランド人政治家」と評したジョン・ヒーリー=ハッチンソン英語版は1773年にヒューイットを「私的にも公的にも立派で誠実、かつ愛想がよい人」と評し、裁判官として「自身の業務を迅速に、能力を持って果たしている」と評した[2]。『英国人名事典』もヒューイットを「ふるまいが堅苦しく、思想も古風であるが、辛抱強さと上品な態度により広く尊敬されている」と評した[3]

家族

出典

外部リンク

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