ジョン・ロー
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ローはスコットランドの首都であったエジンバラ近郊で、金細工師・銀行家のウィリアム・ローとその妻ジャネットの第5子として出生した。1683年暮れ、12歳の時に、父親がパリで客死すると、かなりの遺産を遺した。14歳になるとファミリービジネスに加わり、銀行業を学んだ。1688年に、銀行業を放って、ロンドンに上京し、お金を湯水のように使い、賭博に手を出した。しかし、幸運が味方したのか、まもなく財産を築いた。世間からいかさま師との評判が立ったほどだった。1694年4月9日、エリザベス・ヴィリアースという貴族の娘をめぐってエドワード・ウィルソンと決闘して殺してしまい、投獄され、同年4月22日に絞首刑判決を受ける。1695年早々に友人の手引きで王座裁判所の監獄を脱獄し、指名手配される。アムステルダムへ逃れてからは、銀行家としての道を歩むことになり、パリ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどに赴き、ヨーロッパ各国の経済システムを注意深く観察し、経済思想家としても新しい自分の思想を持った。ローは行く先々でその地の支配者に思想に沿った新銀行設立の建白書を提出するが拒否される。アムステルダム時代にジェームズ2世の息子ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートと知り合いになる。1705年にスコットランドに戻った後、フランスに渡る。ルイ15世の摂政であったオルレアン公爵フィリップ2世と懇意であったために、比較的に宮廷では早く出世した。ローは通貨の信用性を初めて強調し、重金主義の批判者としてフランスのジャン=バティスト・コルベール以来の経済政策を批判した。
ジョン・ローの貨幣理論は、先古典派経済学の時代の重商主義が全盛を迎えたフランス経済にパラドックスともいえる理論を提示した。王立銀行券の問題は、確かに全国土の貨幣制度を紙幣にする試みであり、ある種、夢想家[3]と思われても仕方がない所業であった。18世紀に入り、彼は独自の先駆的な貨幣理論を持ち歩いたが、いずれにしても失敗に終わっている。もっとも、ローの持つ貨幣理論には現実的な側面があった。それは兌換貨幣がもつ貨幣価値の保存において、貨幣鋳造に関連する不確実性によって多大な損失を被る可能性がある。このときリスクにバランスを保つということを考えた。
ローは、自らの貨幣理論を遂行するに当たって、金融政策のセオリーを採用している。すなわち、対外経常収支に関する禁止事項を作成し、「平価切下げ[4]」などの貨幣のハードルを高くする政策を採る。そして銀行の仲介業務を通じた信用を確保し、紙幣が物価を保証するというものである。だが、彼は大衆を良く理解しており、貨幣理論の持つ特徴である労働価値、安定性、無限時間といった性質を熟知し、「国家の利益のロジック[5]」を用いて自らの政策を説明している。
フランス政府の公債整理計画は、パニックを利用した計画性のある貨幣政策であるが、1926年の時(ルール問題に関連するフランス国内のインフレーション)のように、その一貫性がしばしば仇になった。ローは、金銀正貨が経済力を示す世界において、国内の影響を考えながら、「アンチジョンロー」を順化させる方針を採ったのである。一般銀行の王立銀行への組み入れはその第一歩であった。しかし、結局、ジョン・ローはバブル経済という事態には対応できなかったのである。

