ジョン・ヴィジー (第4代ド・ヴェシー子爵)

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第4代ド・ヴェシー子爵ジョン・ロバート・ウィリアム・ヴィジーJohn Robert William Vesey, 4th Viscount de Vesci1844年5月21日1903年7月6日)は、アイルランド貴族クイーンズ・カウンティ統監を務めた[1]自由党に属し、首相ウィリアム・グラッドストンから連合王国貴族の爵位を得たが、1代で廃絶した[1]

第3代ド・ヴェシー子爵トマス・ヴィジーと妻エマ(1819年8月23日 – 1884年10月10日、第11代ペンブルック伯爵ジョージ・ハーバート英語版の娘)の息子として、1844年5月21日にセント・ジェームズ・プレイス英語版で生まれた[1]。1858年から1861年までイートン・カレッジで教育を受けた[2]。1863年6月12日、コールドストリームガーズエンサイン英語版(歩兵少尉)および陸軍中尉への辞令を購入して入隊した後[3]、1866年8月14日に連隊中尉および陸軍大尉への辞令を購入して昇進[4]、1871年3月25日に連隊副官(Adjutant)に任命された[5]。1874年4月15日に連隊大尉および陸軍中佐に昇進し[6]、連隊少佐への昇進と1882年のイギリス・エジプト戦争英語版参戦を経て1883年8月15日に軍務から引退した[2][7]

1875年12月23日に父が死去すると、ド・ヴェシー子爵位を継承した[1]。その後、1876年2月23日のアイルランド貴族代表議員補欠選挙で投票権を認められた[1]。政界では自由党に属し、1884年11月8日に連合王国貴族であるクイーンズ・カウンティのアビー・リークスにおけるド・ヴェシー男爵に叙された[1][8]。このときの内閣は第2次グラッドストン内閣だったが、1886年に首相ウィリアム・グラッドストンアイルランド自治英語版支持に舵を切ったとき、ド・ヴェシー子爵はアイルランド自治に反対した[1]

1883年時点でクイーンズ・カウンティ(現リーシュ県)に15,069エーカーコーク県に818エーカー、ダブリン県に420エーカー、ケント州に375エーカーの領地を所有した[1]。領地は合計で年収45,214ポンドに相当したが、ダブリン県の領地はその約7割にあたる31,713ポンドを占めた[1]。同1883年3月28日から1900年12月ごろまでクイーンズ・カウンティ統監を務めた[9]

1903年7月6日にクイーンズ・カウンティのアビーリークス英語版で死去した[1]。息子がおらず、ド・ヴェシー男爵位は廃絶、ド・ヴェシー子爵位は叔父の息子にあたるアイヴォー・リチャードが継承した[1]

家族

出典

外部リンク

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