ジョージ4世と競馬

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本項ではジョージ4世と競馬について述べる。

王太子時代のジョージ4世(1809年頃)

イギリス国王ジョージ4世(在位:1820年 - 1830年、1762年生、1830年没)は、王太子の頃から競馬に熱中した。国から与えられる歳費をほとんど競馬に費やし、それだけでは足りずに借金を重ね、その返済のためにまた国費を引き出した。

1788年には王族として初めてイギリスダービーに優勝、1791年には当時のイギリスで最大のレースであるオートランズステークスに優勝した。「競馬の庇護者」として各地の競馬場の運営に関わり、とりわけアスコット競馬場の走路拡張や観戦席の建設をさかんに行い、ロイヤルアスコット開催を創設した。また、アイルランドでは今も行われているロイヤルウィップステークスを創始した。

馬主としてはダービー優勝(1788年サートーマス号)のほか、オートランズステークス(1791年バロネット号)、ドンカスター金杯(1789年トット号)とグッドウッド金杯(1829年フルールドリス号)などの大レースに勝ったが、アスコット金杯には勝てなかった(最高は2着)。このほか持ち馬のセリム号はイギリスの種牡馬チャンピオンになり、リバイアサン号もアメリカで種牡馬チャンピオンになった。

1791年にはエスケープ事件という不祥事に関わった。この事件では、不正を疑われた王太子に対してイギリスのジョッキークラブが断固とした態度をとったことで、ジョッキークラブの権威が大きく高まり、後の競馬のルール制定につながった。

ジョージと競馬の馴れ初め

1785年の肖像
叔父のカンバーランド公(1765年頃)

王太子時代のジョージに酒と女と賭け事遊びを教えたのは叔父のカンバーランド公(1745年 - 1790年)だったと伝えられている[1][注 1]

カンバーランド公はジョージ3世からみると弟にあたる。しかし、カンバーランド公はアン・ホートンとの不適切な結婚など身持ちが悪く、王族の面汚しとみなされていた[1]。カンバーランド公は競馬にうちこみ、1780年にダービーが創設されると、たびたび持ち馬を出走させた。カンバーランド公は子供時代のジョージを連れ出して競馬に連れていき、いろいろな遊びを教えた。質実な態度から「農夫ジョージ」と呼ばれた父ジョージ3世と反対に、ジョージは遊び呆けるようになった[4]

1784年のレーシングカレンダー。巻頭の会員名簿の筆頭に「王太子殿下(HRH Prince of Wales)」の名がある。2番めはカンバーランド公。

ジョージは、1783年にジョッキークラブへの加入が認められる21歳になると、すぐに会員となって競馬を始めた[4]。ジョッキークラブ会長の第6代準男爵サー・チャールズ・バンベリー[注 2]は自ら、若いジョージに競馬の手ほどきをしたという[6]。ジョージは欲しい馬がいれば金に糸目はつけずにいくらでも注ぎ込んだ[7]。そんなジョージをせっせと歓待し、しきりに馬の購入を勧めたのは馬商リチャード・タタソールだった[8][9]。ジョージの所有馬はすぐに20頭を超え、経費は年に3万ポンドを要したと伝えられている[7]

1786年にはジョージが競馬に登録した馬は24頭を数え[10][11]、2頭をダービーに出場させるまでになった[1]。このときのジョージの馬の成績は、Braganza号が4着、Little Henry号が着外だった[12]

こうした浪費によってジョージはこの年に早くも破綻に直面した[7]。ジョージは持ち馬をあらかた手放す羽目になり、ニューマーケットの厩舎も解散せざるをえないところまで追い詰められた[4][注 3]。一時期は手元には1頭の馬しかいなくなったという[11]

まもなく1787年に議会から与えられた16万1000ポンドの資金で、ジョージは競馬を再開することができた。議会の承認を得られたのは、当時の首相小ピットが「ガチガチの馬キチ(decidedly horsey[5])」だったからだという。ジョージはすぐに再び競走馬を買い集め、持ち馬は39頭に達した[14]。この数は、当時を代表する大馬主である初代グローヴナー伯爵リチャード・グローヴナーの32頭、第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル英語版の30頭を上回る数だった[11]

ジョージはそのための厩舎の拡張に追われた[7]。1791年の『タイムズ』紙は「王太子は王国で一番の厩舎を持っている。そのくせ全然レースに勝っていない」と記事にした[14]。実際にはジョージは既に、1788年にサートーマス号をダービーに出走させて勝っており、王族として初めてダービー優勝を果たしている[7]。しかしその頃のダービーの賞金はまだそれほど高くなく、ジョージが勝った年の優勝賞金は971ポンド15シリングに過ぎなかった[15]。これに対し、サートーマス号を購入した際にジョージが支払った額は2000ギニー(2100ポンド)だった[7]

アスコットでの栄光

1792年の肖像
1790年のオートランズステークス。奥側のエスケープ号が僅差で2着となる。ジョン・ノット・ザルトリウス(1755年 - 1828年)の作品。

ジョージが名実ともにイギリスで一番の馬主となったのは1791年のことである。

その前年、1790年6月にアスコット競馬場でイギリス最大の競馬レースが創設された[注 4]。これはオートランズステークス(Oatlands Stakes)といい、競馬史上初の、3頭以上によるハンデ戦だった。どの馬にも均等に勝つチャンスが有るという企画は画期的で[注 5]、馬主以外の第三者が賭けに参加することの魅力が広まり、競馬が広く人気のある娯楽へと変遷する契機になった[16]。優勝賞金の原資となる登録料は1頭あたり100ギニー(105ポンド)も必要だったが、イギリス中から出走希望馬が集まり、賞金は膨れ上がった[16][14][8]

ジョージは全英が注目するこの空前の大レースに参戦するため、当時の一流馬エスケープ(Escape)号を入手した。実は、エスケープ号はもともとジョージ自身が1785年に生産した馬だったのだが、1786年の資金難のときに手放してしまっていた。それが活躍したので1500ギニー(1575ポンド)も出して買い戻したのである[13][注 6]。エスケープ号は第1回オートランズステークスで2.0倍[注 7]の大本命となった。しかしエスケープ号は惜しくもアタマ差で2着に敗れた[14][17]。勝ったのは父ジョージ3世が毛嫌いしていたホイッグ党党首チャールズ・ジェームズ・フォックスのシーガル号だった[14][17]。(ジョージ自身はフォックスとは酒、女、ギャンブルを楽しむ遊び仲間で「悪友」だった[18]。)

ジョージは翌1791年の第2回オートランズステークスに優勝することに情熱を傾けた。6月に開催されるレースの半年前に、各登録馬に与えられるハンデキャップが発表されることになっており、それが公表されるとジョージはめぼしい登録馬を買い集めた。そしてそれらの馬を集め、オートランズステークスと同じ距離、同じ斤量で競わせ、出走させる馬を厳選していった。直前まで候補に残ったのは、エスケープ号、バロネット号、ペガサス号、スモーカー号の4頭である。アスコット開催の5日前、ジョージはエプソム競馬場で4頭による最後の試走を行い、エスケープ号とバロネット号の出走を決めた[14][注 8]

1791年のオートランズステークス。奥側のバロネット号が半馬身差で優勝。(ジョン・ノット・ザルトリウス(1755年 - 1828年)の作品)
先頭のバロネット号の拡大図。チフニー騎手が王室の勝負服を着用している。

第2回オートランズステークスの優勝賞金は2950ギニー(約3100ポンド)と、ダービーの3倍にのぼった。当時としてはかなり多頭数となる19頭が出走し、この年のダービー2着馬が本命になった[注 9][19]。このレースは第1回以上に話題を集め、アスコット競馬場の歴史でも空前となる4万人の観衆が押し寄せ、賭けの総額は10万ポンドを超えた。なかには第7代バリーモア伯爵リチャード・バリー英語版のように、一人で2万ポンドも賭けている者さえいた[注 10]

ジョージはエスケープ号での優勝を信じており、エスケープ号にたっぷり賭けていた。ジョージはお抱え騎手のサム・チフニー(Samuel Chifney)にエスケープ号に乗るように指示していた。ところがチフニー騎手はレースの寸前の馬の様子をみて、エスケープ号が調子を落としていると考えた。そこでチフニー騎手は慌てて2ヶ所の賭け場へ走り、それぞれバロネット号に30ポンドと27ポンド賭けた。これが当たれば1000ポンドになるはずだった[14]

このあたりのジョージとチフニー騎手、調教師のウォリック・レイクらの間で行われたやり取りについては、内容の異なる様々な伝聞がある。ある説では、4頭の候補馬がアスコット競馬場に到着したのを見た途端、チフニー騎手はエスケープ号では勝てないと踏み、バロネット号への騎乗を申し出たという。一方レイク調教師はエスケープ号の調子は悪くないと反対した。ジョージはどうするか決めかねて、レース当日になってから自分に相談すること無くチフニー騎手自身で決めて良い、と伝えたとされている。また別の伝聞では、エスケープ号とバロネット号を出走させると告げてきたジョージに対し、チフニー騎手は直談判をしてその場でバロネット号騎乗の許可を得たという。このときレイク調教師はエスケープ号の調子は万全だと言った。ジョージがチフニー騎手にバロネット号にそんなに自信があるのかと尋ねると、チフニー騎手は、ほかにも強力な出走馬がいるから勝利の確約はできないが、勝機はかなりあるはずだ、と答えたという[14]

チフニー騎手にとっての心配の種が一つだけあった。ジョージはエスケープ号に相当賭けているはずだから、もしもバロネット号がエスケープ号を負かしてしまうようなことになると、ジョージが損をするのではないかということだった。そこで思い切ってそのことをジョージに尋ねてみた。するとジョージは、これは他言無用の内緒の話だがと断った上で、実は保険としてこっそりバロネット号にも賭けているから、バロネット号が勝った場合でも17000ポンドの儲けになると答えた[14][注 11]

レースが始まると、エクスプレス号という馬が先頭に立ち、4馬身後ろでバロネット号がこれに続き、さらに2馬身離れた3番手にジョージの本命エスケープ号がつけた。ゴールまであと半マイル(約804メートル)というあたりで、チフニー騎手は後ろを走るエスケープ号の行き振りが思わしくないのをみると、これを見捨ててエクスプレス号との勝負に出ることにした。両馬は全く並んでゴールまで激しく争い、最後の最後にバロネット号がわずかに前に出て優勝した。当時の『タイムズ』紙によれば、両馬はほぼ並んでいたが、ゴール寸前でバロネット号は半馬身の差をつけたという。この勝利により、ジョージはイギリスで一番の大レースの優勝馬主となった[14][8][注 12]

普段はジョージが競馬に散財することを諌めていた父ジョージ3世も、この時ばかりはジョージを褒めたという。ジョージ3世は「おまえのバロネット号はよく稼ぐ。儂は先週14人に準男爵位(バロネット)を授けたが、奴らは1ペニーだってよこさない。[21][22]」と言ったと伝えられている。バロネット号はこのあとイギリス各地で勝利をおさめ、アメリカへ種牡馬として売られていった[14]

絵画界への影響

ジョージ・スタッブス(1724年 - 1806年)、「1791年、バロネット号とサミュエル・チフニー騎手」。4本すべての脚が空中に描かれている。

この勝利のあと、ジョージは自身がパトロンであった王立美術学校からジョージ・スタッブスを招聘し、バロネット号の肖像画を描かせた。スタッブスは6月のアスコット競馬場でのオートランズステークスを見に行ってはおらず、この作品は10月のニューマーケット競馬場で国王賞(キングスプレート)というレースを勝ったときのもので、背景にもニューマーケットの建物が描かれている[23][24]。ジョージはこの作品を住まいであったカールトン・ハウスに飾った[23]

チフニー騎手は、ジョージの服色である、「紫の胴に緋色の袖、袖と胴に金の飾りつき、黒帽子(purple waistcoat, with scarlet sleeves, trimmed with gold, and black cap)」を着用した姿で描かれている[注 13]。この服色は現在も王室所有馬の服色となっている[23]

バロネット号の4本すべての脚は、前後に伸ばして空中にあるように描かれている。この作品は、全力疾走中の馬を描くにあたってこのような表現が行われた最初の作品である。疾走中の馬の脚をこのようなすがたで描くという発想は、解剖学を修めたスタッブスの師匠で、2年前に死んだ名馬エクリプスを解剖した医師による意見の影響だったと考えられている[24]。競走馬をこのように描く手法は、その後長いあいだ、絵画界の伝統となった[24]

こうした表現は、19世紀の後半にエドワード・マイブリッジが初めて疾走中の馬の高速度撮影に成功し(『動く馬』)、実際にはこのような走り方をしていないことを明らかにするまで続いた[24]

エスケープ号事件

風刺画家トマス・ローランドソンによる1790年頃のジョッキークラブの会合。この絵の中には重要人物はほとんど描かれていないという見解[2]と、中央の太った男性がジョージ、その右でメモをとっているのがバンベリー准男爵とする見解[11]がある。
ローランドソンによる風刺画。賭け場(Betting Post)に群がる人々を描いている。中央左側で胸に勲章をつけているのがジョージ。中央右側で松葉杖を携えているのがエクリプス号の馬主オケリー氏。
エスケープ号事件を描いた風刺画。中央のエスケープ号のチフニー騎手は鞭を口で咥え、手綱を引いてエスケープ号を抑え込んでいる。エスケープ号の脚を縛っているペナントには「HONI SOIT QUI MAL Y PENSE」という文字が記されている。これは王室の最高勲章であるガーター勲章に描かれている金言で、「邪な考えを抱く者には災い来たる」という意味である。ジョージは画面の右におり、指を二本たて、チフニー騎手に恩給(年金)を約束し[5]、鼻に手をやって翌日の儲けの目論見をたたてている[9]

しかしこの直後、ジョージとチフニー騎手、エスケープ号は、エスケープ号事件として競馬史に残る悪名高い事件を起こした。オートランズステークス優勝のあと、ジョージは秋のニューマーケット競馬場にエスケープ号を出走させた。騎手はチフニー騎手である。木曜日のレースで、当時イギリスを代表する名馬の1頭だったエスケープ号は4頭中1番人気となり、賭けの倍率も2対1(3倍[注 14])にまで下がったのだが、不可解な大敗をした。翌日、人気の落ちたエスケープ号が再び出走し、前日と同じ相手に楽勝した。前日の敗戦で、賭けの倍率は4対1(5倍)から5対1(6倍)にまで高くなっていた。ジョージもチフニー騎手もこれで大儲けをしたという[11][5][14][13][9][注 15]

すぐに、ジョージらが2日目の馬券で儲けるため、チフニー騎手がいんちきをして初日にエスケープ号が負けるようわざと手綱を抑えたのだ、と非難の声が上がった。ジョッキークラブの会長で審判長をしていたサー・チャールズ・バンベリーほか3名の審判団はチフニー騎手を呼び出し、詰問した[注 16]。チフニー騎手は、1日目の敗戦はエスケープ号の調子が悪かったと弁解したが、2日目のレースでエスケープ号に20ギニー賭けていたことを白状した[5]。審判団はチフニー騎手の言い訳を信用せず、過去のチフニー騎手の賭けの記録を調べ上げた。これまでほかにも同様の行為が行われていたようだった。さらにチフニー騎手はある人物に対して300ポンドの借金があり、初日のレースのあと借金を帳消しにしてもらったことも突き止めた。その人物がチフニーにわざと負けるよう唆したものとみなされた[5]

バンベリー準男爵は、ジョージに対し、次にチフニー騎手を乗せたら、金輪際ジョージの馬と一緒にレースに出る者は一人もいなくなるぞ、と警告した。ジョージはいんちきを認めず、チフニー騎手を擁護したが、ジョッキークラブはジョージの言い分を認めなかった[9][14][13][26][注 17]。この一件のあと、ジョージはニューマーケットに足を踏み入れなくなった[9][11]

ジョージの側は、ジョッキークラブと決別してやったと息巻いていたが、競馬界の人々はみなジョッキークラブを賞賛した。たとえ相手が次期国王であろうとも、公正さを貫き通して追放処分を決めたことでジョッキークラブの権威は大いに高まった[5]。もともと当時のジョッキークラブは、何ら法的拘束力を持たない同好会にすぎない存在だったが、これ以後はイギリス中の競馬人がニューマーケットのジョッキークラブのさまざまな決定を遵守するようになった。現代ではニューマーケットのジョッキークラブは「世界の競馬の中心」「世界の競馬の決定機関」などと称されており、これはエスケープ号事件の結果である[14][13][28] [注 18]。エスケープ事件の核心は、王太子ジョージがいんちきをしたことではなく、いんちきをした王太子にジョッキークラブが毅然とした態度を示したことにある[注 19][注 20]

当時は、こうしたいんちき行為はよくあることだった[25]。(そもそもこうしたことを禁じる規則はなかったので、いんちきではあっても「ルール違反」ではなかった。)しかし当時のジョッキークラブの会長バンバリー準男爵はかねてより、競馬界からこうしたいんちきを一掃したいと考えていた。そのために大々的に宣伝に使える事例を求めているうちに、ジョージとエスケープ号の一件が起きたものである。Running Racing; The Jockey club years since 1750(『レースを走らす:1750年以降のジョッキークラブ』、1997年)の著者John Tyrrelによれば、バンバリー準男爵は「大魚を探し求めているうちに、王太子という大きくて見せしめにうってつけの魚がひっかかった」のだという[5]

その後ジョージは競馬を辞めたわけではない[注 21]。ジョージはアスコット競馬場を根城にして競馬に打ち込んだ。デルメ=ラドクリフ(Delmé Radcliffe(1774 - 1832)[注 22])を責任者として王室厩舎を設立し、持ち馬をニューマーケット競馬場のレースに出すときは、もっぱらラドクリフ氏名義で出走させた[注 23]。ジョージは1801年から1807年のあいだだけでも100勝以上をあげた[7]

競馬の庇護者ジョージ4世

脚注

関連項目

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