ジルワダイ
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「シリギの乱」が起こる前、コンギラト部はデイ・セチェンの息子アルチ・ノヤンの息子ナチン・キュレゲンの息子オロチンが当主の座にあった。「張氏先塋碑」によると、ジルワダイはオロチンの弟であったという[1]。
至元13年(1276年)冬、以前よりクビライ政権に不満を抱いていたシリギ、トク・テムルといったトルイ系諸王はアルマリクにて叛乱を起こし、シリギをカアンに推戴してクビライに叛旗を翻した(シリギの乱)。叛乱軍はアルマリクから東に進み、モンゴル高原を制圧しようとしたが、これに呼応して兵を挙げたのがジルワダイであった[2]。
至元14年(1277年)、ジルワダイは兄のオロチンを捕虜としてコンギラト部の根拠地応昌を包囲し、更に北上してシリギ軍と合流しようと企んだ[1]。これに対し、クビライはコンギラトともに「左手の五投下」を構成するウルウト部当主トゴン[3]とマングト部当主ボロカン[4]、新興のキプチャク・アスト兵を率いるセチェン・バアトル[5]、カングス[6]、ウワズ[7]、シクドゥル[8]、バイダル(オイラト人のベクレミシュの指揮下にあった)[9]らがシリギ及びジルワダイの討伐に派遣され、そして耶律元臣[10]や洪茶丘[11]といった人物もこれに従軍した。
ジルワダイと合流しようとしていたトク・テムルは先行してモンゴル高原に到着していたキプチャク軍を率いるトトガクに進路を阻まれ、ジルワダイの下に到着することができなかった[12]。シリギ軍と合流できなかったジルワダイは単独でカラ・カドゥ(懐魯哈都)の地において大元ウルスの軍勢と戦い、敗北した[5][7]。この時の戦いでは、ジャライル部出身のトゴンが流れ矢を日本受けながら戦い抜くという功績を挙げ、後にクビライより労われている[13]。
敗れたジルワダイは逃れたが耶律元臣がこれを追跡し、魚児濼において捕虜とされた。耶律元臣はこの功績を賞され、この後も応昌に駐屯することになった[10]。
ジルワダイの乱鎮圧に参戦した将軍の多くはここから更に北上し、シリギ、トク・テムル軍の討伐に参加していった[14]。