ジークフリート・デーン
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ハンブルクのアルトナ地区に銀行家の息子として生まれ、少年時代にチェロを学ぶ。外交官になるつもりでライプツィヒで法学を学ぶが、ドレープス(J.A. Dröbs)に音楽の指導を受けた。ベルリン駐在のスウェーデン大使館に勤めながら、ベルンハルト・クラインに師事して音楽学への関心を深めた。1830年に家業の銀行が破綻したために貧窮し、音楽で自活することを決意する。やがて音楽理論家や音楽教師として一目置かれる存在となった[1]

ジャコモ・マイヤベーアの推挙によって1842年にプロイセン王立図書館音楽部門の学芸員に採用される。デーンは所蔵品を順番に整理したり、プロイセン全土の図書館から熱心に取り寄せたりして、その分類に献身した。中でもデーンが拡充した蒐集品は、アントン・シントラーやゲオルク・ペルヒャウに関するもので、とりわけ後者のものは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハやカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの自筆譜のコレクションで名高い。1842年から1848年まで機関誌『ツェツィーリア( Cäcilia)』の編集者を務める。1849年からプロイセン王立芸術アカデミーの教授に就任し、同年にグリーペンケルルが他界すると、ピーアズ出版社(the Peers Edition)のためにバッハの器楽曲の校訂に協力した。とりわけ《ブランデンブルク協奏曲》の初版の出版責任者となった。また、オルランドゥス・ラッススのモテットの大半を校訂している[1]。1850年には、イグナツ・モシェレスやルイ・シュポーアらと共同で、バッハ協会の設立に加わった(同団体はこんにちまで「新バッハ協会」の名で存続している)。
主要な門人
デーンは音楽学者や編集者として名を馳せただけでなく、対位法や作曲法の引く手あまたの教師として、グリンカやルビンシュタイン兄弟を含む[1]以下のような人材を世に送り出した。
- アルベルト・ベッカー (1834年-1899年)、作曲家
- マルティン・ブルームナー (1827年-1901年)、作曲家
- ペーター・コルネリウス (1824年-1874年)、作曲家・詩人
- イマヌエル・ファイスト (1823年–1894年)、作曲家・合唱指揮者・音楽教師
- ミハイル・グリンカ (1804年-1857年)、作曲家
- カール・アウグスト・ハウプト (1810年-1891年)、作曲家
- フリードリヒ・キール (1821年-1885年)、作曲家
- テオドール・クラック (1818年-1882年)、ピアニスト・作曲家
- カール・アドルフ・ローレンツ (1837年-1923年)、指揮者・作曲家
- アントン・ルビンシュタイン (1829年-1894年)、ピアニスト・作曲家
- ニコライ・ルビンシュタイン (1835年-1881年)、ピアニスト・作曲家
- ルイ・シュロットマン (1826年-1905年)、作曲家