スグンチャク
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スグンチャクの祖父は「四駿四狗」と讃えられた建国の功臣ムカリで、父親はムカリの息子でその地位を継承したボオルであった。1230年より皇帝オゴデイ自ら軍を率いての金朝侵攻が始まると、スグンチャクも兄で当時ムカリ家の当主であったタシュとともに従軍し、鳳翔府の攻略に功績を挙げた。その後は潼関での戦いにも従軍し、金朝の平定に大きく貢献した。金朝の平定後はオゴデイの息子のクチュを総司令とする南宋侵攻にも加わり、棗陽攻めに参加した[1]。
1239年(己亥)に兄のタシュが早世すると、その息子のシドルクがまた幼かったため、スグンチャクがムカリ家当主の地位に就いた[2]。スグンチャクは後の上都路の西アルチャトという地に陣営を置いて華北方面のモンゴル・漢軍を総括し[3]、中都一帯の事は必ずまずスグンチャクに報告しその可否を決めた後で皇帝に上奏するよう定められたという[4]。
スグンチャクは厳格な人柄で、信賞必罰を厳しくしたため、スグンチャクの配下で軍律を破る者は少なかったとされる。ある時、スグンチャクの陣営を訪れたオゴデイの使者が帰還して軍士の綱紀が行き届いている様を報告したところ、オゴデイは「まことにムカリの家の者である」と評したという[5]。また、他国の使者がスグンチャクの下を訪れると、あまりの威厳に言葉を発することもできず、モンゴル側が慰撫することでやっと発言を始めるほどであった。スグンチャクの側近達は「[スグンチャク様は]既に諸王・百官を越える地位を得ていますのに、ことさらに威を示す必要があるでしょうか」と諫めたが、スグンチャクは「寛容な対応は各々が適宜行えば良い。天下(旧金朝領)がモンゴルに服属して間もなく、民心は未だ定まっていないのに、万一態度を緩めたことで離反を引き起こし、その時になって悔やんでも遅いのだ」と語り態度を改めなかったという[6]。このようなスグンチャクの強力な権限・強大な威厳は、「権皇帝(皇帝の代理人)」と称されたムカリの地位を復活させたものであった[7]。
しかし、スグンチャクもまた兄のタシュに続いて早世してしまった。スグンチャクにはクルムシ、ナヤン、センウ、サルバンという息子がいたが、時の皇帝モンケはクルムシが「柔弱」であるとしてナヤンに跡を継がせようとしたが、ナヤンが固く固辞したため、結局はクルムシが跡を継いで国王となった[8]。スグンチャク時代の強大な権勢はクルムシ時代に再び凋落したが、スグンチャクの弟のバアトルが仕えたクビライが帝位を得たことでムカリ国王家は再び浮上し、センウは大元ウルスにおいて高い地位を得ることになった。