スコットランド啓蒙

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スコットランド国立肖像画ギャラリーの デビッド・ヒュームアダム・スミス

スコットランド啓蒙(スコットランドけいもう、スコットランド語: Scots Enlichtenmentスコットランド・ゲール語: Soillseachadh na h-Alba)は18世紀および19世紀初頭のスコットランドで起こった一連の人文学科学の発展の隆盛を指す。

18世紀までにスコットランドには教区学校(parish school)のネットワークが成立し、古代から存在する四つの大学(エディンバラ大学グラスゴー大学アバディーン大学セント・アンドリューズ大学)が存在した。こうした教育インフラの元、知的階級はコミュニティを形成して活発に読書や議論を行っており、こうした背景が啓蒙時代の到来を準備した[1][2]。同じ時期のヨーロッパ啓蒙主義における人文主義、及び合理主義と同様に、スコットランド啓蒙主義の思想家は、人間の理性の重要性と理性によって正当化できないあらゆる権威の拒絶とを主張した。スコットランドでは、啓蒙主義は徹底的な経験主義と実践性によって特徴付けられ、改善と美徳、そして個人と社会全体に対する実際的な利益に価値を置いた。特に急速な進歩を見た分野として、哲学、政治経済、工学、建築、医学、地質学、考古学、植物学、動物学、法律、農業、化学、社会学が挙げられ。主な思想家、科学者としてはフランシス・ハッチソンデビッド・ヒュームアダム・スミス、デュガルド・スチュワート、トーマス・リードロバート・バーンズアダム・ファーガソンジョン・プレイフェアジョセフ・ブラックおよびジェームス・ハットンがいる。スコットランド啓蒙は学生や科学者を通じて北米やヨーロッパ全土に大きな影響を及ぼした[3]

経済成長

1707年の連合王国成立により、スコットランド議会はロンドンに吸収された。その結果、国会議員、政治家、貴族、および地主はロンドンへと移住した。しかし、スコットランドの法律はイングランドの法律とは完全に分離されたままであったため、民法裁判所はエディンバラに依然として存在し、 スコットランド教会、大学や医療機関もそうだった。弁護士と牧師は、教授、知識人、医学者、科学者、建築家とともに、スコットランドの都市における影響力を握り、スコットランド啓蒙を促進した新しい中流階級を形成した [4][5]

1707年の時点でイングランドの人口はスコットランドの約5倍、国富は約36倍であったものの、大学の数ではイングランドが二つ、スコットランドに四つ(エディンバラ大学、グラスゴー大学、アバディーン大学、セント・アンドリューズ大学)とスコットランドの方が教育インフラが整っていた。国際貿易の側面からは、市場としての南北アメリカの拡大はこの時代の大きな構造的変化であり、特にグラスゴーは新大陸に工業製品を輸出し、新大陸のタバコをフランスへ再輸出した[6][7]。1695年に設立されたスコットランド銀行はジャコバイトへの協力を疑われていたため、1727年に連合王国によってロイヤルバンク・オブ・スコットランドが設立された。こうした諸インフラの整備により、スコットランンドの商業と貿易は急速な発展を遂げた[8]。この時代からスコットランドは経済成長をはじめ、イングランドとの格差は縮まっていった [9]

教育システム

1496年の教育法により、全ての貴族と自由民の子弟はグラマースクールに通うことが命じられたことが、スコットランドの人文主義に影響を与えたと言われている [10]。17世紀後半までに、ローランドには教区学校のほぼ完全なネットワークが形成されていた一方、ハイランドでは多くの地域で基礎教育がまだ不足していた [11]。17世紀までに、スコットランドには5つの大学が存在した。新教徒革命やその後の政治的混乱を経験したのち、これらの大学は復興を果たし貴族の子弟に質の高いリベラル教育を提供した [11]。全ての大学で数学の教育が施され、セント・アンドリュースとアバディーンでは天文学が教えられた。 ロバート・シバルド (1641〜1722)はエディンバラの最初の医学教授に任命され、1681年にエジンバラの王立医科大学を共同設立した [12]。こうした大学教育の発展により、スコットランドの学術は大きな進歩を見た。 18世紀の終わりまでに、エディンバラの大学医学部は、ヨーロッパにおける科学の主要な拠点の一つであり、アレクサンダー・モンロー、ウィリアム・カレン、ジョセフ・ブラック、ジョン・ウォーカーらを輩出した[13][14]

主要な知的領域

経験主義と帰納的推論

スコットランド啓蒙初期の主要な哲学者で、1729年から1746にグラスゴー大学の道徳哲学の教授だったフランシス・ハチソン (1694–1746) は、シャフツベリースコットランド常識学派の間の橋渡しとして重要な役割を果たし、功利主義帰結主義思想の発展を助けた[15]。また、シャフツベリーの影響を受けたジョージ・ターンブルは、アバディーン大学のマリシャル・カレッジの評議委員であり、宗教倫理、芸術、教育の分野で先駆的な作品を発表した[16]デビッド・ヒューム (1711–76) は『人間本性論』(1738) と『エッセイ、道徳と政治』(1741) で、哲学的経験論懐疑主義の要因について明確化した[15]。彼は、アダム・スミスイマヌエル・カントジェレミー・ベンサムを含む後の啓蒙活動の人物に大きな影響を与えた[17]。ヒュームとは対照的に、ターンブルズの学生であるトーマス・リード (1710–96)、ジョージ・キャンベル (1719–96)、作家で倫理学者のジェームズ・ビーティー (1735–1803) は、 常識学派を定式化した[18]

文学

この時期のスコットランド文学の中心的人物はジェイムズ・ボズウェル (1740–95) である。彼の『An Account of Corsica』(1768) や『The Journal of a Tour to the Hebrides』(1785) は優れた旅行記であり、『Life of Samuel Johnson』(1791) は、英国の啓蒙思想に大きな影響を与えた[19]。また、アダム・スミスやデュガルド・スチュワートなど、多くの主要な思想家に影響を与えたヒュー・ブレア (1718–1800)[20]、スコットランド出身の詩人として初めて国際的な評価を得たマクファーソン (1736–96)[21]、スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズ (1759–96)[22] などもこの時代に活躍した文学者である。

経済学

エディンバラ大学やグラスゴー大学の教授を歴任したアダム・スミスが1776年に著した『国富論』は、スコットランド啓蒙の最大の成果であり、近代経済学の嚆矢であると同時に、グローバリゼーションや関税などに関する現代の研究に対しても重要な枠組みを依然として提供し続けている[23][24]。スミスは農業だけが生産手段であるという重農主義的思想に異論を唱え、土地、労働、資本を生産の3つの要因として定義した上で、地域経済圏及び国家間の労働生産性の向上や貿易からの利益からなる、分業による専門化の潜在的な利点についての議論を展開した[25]

社会学と人類学

ジョン・ジェームズ・ブルネットを始め[26]、アダム・ファーガソン、ジョン・ミラー、ウィリアム・ロバートソンなど思想家は古代、及び原始的な文明に対する科学的考察から、「現代」の特性に関する考察を行った、このような人類学のアプローチは、のちの時代のヒュー・ブレアらに影響を与えた[27]

数学、科学、医学

スコットランド啓蒙を生み出した要素の一つが科学および医学的知識の普及、発展であった。この時代の主要な思想家には、医師として訓練を受けたか、医学を大学などの研究機関で学んだ経験があるものが多い。同様に、大学の医学的訓練を受けた専門家、特に地方の環境に住んでいた医師、薬剤師、外科医、さらには牧師の存在は、この地域の知的生産に大きな影響を与えた[28]。イングランドやフランスやオーストリアのような他のヨーロッパ諸国とは異なり、スコットランドの知識人は保守的な貴族のパトロンの支配下になく、実用性と発展性を重視した研究や思索を行うことができた[29]コリン・マクローリン (1698–1746) は、19歳でマリシャルカレッジで数学の議長に任命され、同時代の英国の代表的な数学者であった[15]。数学者で物理学者のジョン・レスリー (1766–1832) は、熱に関する実験で主に注目されており、人工的に氷を作った最初の人物である[30]

科学のその他の主要人物には、医師で化学者のウィリアム・カレン (1710–90)、農学者のジェームス・アンダーソン (1739–1808) が挙げられる。また物理学者および化学者であるジョゼフ・ブラック (1728–99) は、二酸化炭素(固定空気)および潜熱を発見し[31]、化学式の原型を発明した [32]ジェームズ・ハットン (1726–97) は最初の現代地質学者であり、彼の『Theory of the Earth』(1795) は地質年代に関する当時としては革新的な理論を提示している[33][34][35][36]

この時代、エディンバラ大学は医学教育と研究の中心地となった[37]

意義

主な人物

参照資料

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