スタン・ミキタ
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| スタン・ミキタ | |
|---|---|
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シカゴ・ブラックホークスでの現役時代 | |
| 原語名 | Stanislav Guoth |
| 生誕 |
1940年5月20日 (現: ソコルセ |
| 死没 |
2018年8月7日(78歳没) イリノイ州シカゴ |
| 身長 | 5 ft 9 in (1.75 m) |
| 体重 | 169 lb (77 kg; 12 st 1 lb) |
| ポジション | センター |
| ショット | 右打ち |
| プロ選手期間 | 1958年 – 1980年 |
| 1983年殿堂入り | |
スタン・ミキタ(Stan "Stosh" Mikita, 1940年5月20日 - 2018年8月7日)は、チェコスロバキア生まれのカナダ人のプロアイスホッケー選手である。ポジションはセンター、ライト・ウイング。右打ち。
幼年期
当時のチェコスロバキア(後のスロバキア)のソコルセに生まれたが、1948年に両親と別れてカナダのオンタリオ州セントキャサリンズに移民し、叔父、叔母夫妻の養子となった。
英語に酷い訛りがあったことから友人達から嘲笑を受けたが、アイスホッケーと出会いこれに熱中することで心を癒したとされる。
現役時代
NHLには1958-1959シーズンから参戦し、ケン・ワーラム、ダグ・モーンズと共に「スクーター・ライン」を結成して活躍した。[1]現役時代のすべてをシカゴ・ブラックホークスで過ごし、1979-1980シーズンをもって引退した。スタンレー・カップにおいては1961年に優勝を経験している。
チームメートには、ミキタの高校時代、ジュニアホッケー時代を通じた同僚で、爆発的な得点力を誇ったボビー・ハルがいたため、ともすればハルの影に隠れがちであるが、その評価はハルに劣るものではない。NHL 史上において、賞の獲得総数でも屈指の成績を残している。1966-67と1967-68シーズンには、ハート記念賞、アート・ロス記念賞、レディ・ビング記念賞の3賞を連続で同時に受賞する快挙を成し遂げた。
卓越した得点能力、トリッキーなスティック捌きの他にも、自らを制御できるクレバーな選手として知られている。後掲の生涯成績の項をみても明らかなように、入団当初の数年間は、反則を犯してペナルティボックスに入れられる時間が長く怒りっぽい選手と見られていたが、後にこの愚行を極力減らすことを心がけ、フェアプレー賞であるレディ・ビング記念賞も2度獲得している。
このようにプレー態度を改めた背景には、結婚して父親となってから、娘に何故、自分の父親は試合に出てもプレーをしないでボックスにすわっているのかと、素朴に問われたことがあり、それ以来怒りを抑制してプレーを行うようになったと伝えられている。
また、当時はあまり着用することのなかった事故防止用のヘルメットを自分用に改良して着用した。
現役最後の1979-1980シーズンは、1979年11月に背中の手術を行ったため、わずか17試合の出場にとどまった。引退時点においては、NHL史上でゴーディ・ハウに次ぐ生涯ポイント数(1,467)を誇った。
引退後
引退後、ミキタは聴覚障害者のためのスタン・ミキタホッケースクールを立ち上げた。[2]
1983年にボビー・ハルとともにホッケーの殿堂入りを果たしている。
2015年にレヴィー小体型認知症を発症して療養していたが、2018年8月7日に死去したことが家族から発表された[3]。78歳没。
人物
映画『Wayne's World』において、ドーナツ店のティム・ホートンズをもじってミキタの名前がパロディ化されている。
ある日の練習中に、ミキタはボードにチェックされた際に、スティックの刃がベンチのドアの隙間に挟まってしまい、ようやくそれを引き抜いた時に、刃が少し曲がっていることに気づいた。そしてそのブレードの曲線により、パックはより速く異なる角度で打てることを発見し、最終的にはバーナーを使って人為的にカーブを作り出した。当然ながらゴーリー陣には不評であったため、1970年までには、スティックブレードはかかとからつま先まで半インチのカーブしか持てなくなった。この規則は現在も有効である。ヘルメットの着用も含めて、時代の先を行く先見性を持っていた。
1972年のサミットシリーズ終了後に、チェコスロバキアでエキシビションゲームが開催され、キャプテンを務めた。NHLでプレーした最初のヨーロッパ人の一人として、凱旋帰国を果たしたミキタに、惜しみない声援が贈られた。[4]