ステニ川の戦い

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1103年4月4日
場所ステニ川(モロチナ川)河畔
結果 ルーシ諸公軍の勝利
ステニ川の戦い
1103年4月4日
場所ステニ川(モロチナ川)河畔
結果 ルーシ諸公軍の勝利
衝突した勢力
キエフ・ルーシ ポロヴェツ族
指揮官
スヴャトポルク・イジャスラヴィチ
ウラジーミル・モノマフ
ダヴィド・スヴャトスラヴィチ
ダヴィド・フセスラヴィチ
ヴャチェスラフ・ヤロポルコヴィチ[注 1]
ヤロポルク・ウラジミロヴィチ
ムスチスラフ・フセヴォロドヴィチ[注 2]
ウルソバ
コチー
ヤロスラノパ
キタノパ
クマン
アスプ
クリトィク
チェネグレパ
スリバリ
戦力
不明 不明
被害者数
10000人 12000人

ステニ川の戦いロシア語: Битва на реке Сутени)は、1103年にキエフ大公国(キエフ・ルーシ)軍とポロヴェツ族軍との間で行われた戦闘である。総指揮官はキエフ大公スヴャトポルクであり、ルーシ諸公軍の勝利に終わった。ルーシの年代記に記されるステニ川とは、現ウクライナザポリージャ州を流れるモロチナ川に相当する[1]

1101年9月15日に、キエフ大公国とポロヴェツ族都は和平条約を締結していた。しかし1103年のドロプスク諸公会議において、ルーシ諸公間でのポロヴェツ族への共闘が確認され、ルーシ諸公はポロヴェツ族の支配するステップへの遠征を決めた。ルーシの年代記(レートピシ)には、スヴャトポルクの従士(ドルジーナ)が、春の遠征は農民(スメルド)や農地を壊滅させるものであるという見解を述べたのに対し、ペレヤスラヴリ公ウラジーミルが、ポロヴェツ族の襲撃を座して待つことは死を意味すると述べ、これが遠征の挙行を決定したと記されている[1]。なお、この記述を根拠として、スメルドが騎兵として従事していたこと[2]、あるいは都市の連隊(ru)が自身の馬を所有していたことの証拠であると述べる説がある[3]

戦闘

その後

脚注

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