スポーツ学校 (ソビエト)
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スポーツ学校(スポーツがっこう、sports school, ロシア:Детско-Юношеская Спортивная Школа, ДЮСШ)は、主にソビエト連邦で設置されていた児童子供向けの教育機関の一種。
ここでのスポーツ学校は、ソ連および東側諸国、特に東ドイツにおける強大な体育(フィットネス)およびスポーツ教育システムの基盤となっていったことが知られる[1][2]。そして、このシステムの主な特徴は、ロシアやその他の旧ソ連諸国のスポーツ教育システムに残っており、他の国々でも同様のシステムの基礎となっている。現在、最も強力なものの1つは中華人民共和国のシステムである[3]。ニコライ・アンドリアノフ、ネリー・キム、アレクサンドル・ポポフ、ヴィクトル・クロヴォプスコフ、ウラディスラフ・トレチャク、ヴァレリー・ハルラモフ、カタリーナ・ヴィット、アナトリー・アリャビエフ、セルゲイ・ブブカなど、多くの伝説的なアスリートがソ連のスポーツ学校からオリンピックでの成功への道を歩み始めた。
こうした学校はカナダ (National Sport School (Canada)) の他、シンガポールやマレーシア、インド (G._V._Raja_Sports_School) 、フィリピン (Philippine_Sports_Institute) 、オーストラリアなどのアジアやオセアニア諸国にもみられる。
スポーツ学校の制度は1930年代に創設された。これに先立ちヴォルゴグラードでは水泳選手の育成に1925年から体育技術専門学校を開校させる。現在のen:Spartak_Volgograd_(sports_school)である。
1934年には、ソ連初の専門的なスポーツ課外活動施設である青少年ピオネール競技場がモスクワに建設された。同年、ディナモスポーツ協会 (ynamo_Sports_Club) によって最初の児童団体が設立された。これはスポーツ協会 (Voluntary_Sports_Societies_of_the_Soviet_Union) によるスポーツ学校の原型となった[4]
最初のスポーツ学校は1934年にモスクワの他トビリシ、キーウに開校し、その後レニングラード、ロストフ・ナ・ドヌ、タシケント、さらにソ連の他の都市でも開校していき[5]、これらの学校は、ソ連スポーツ中央協会およびソビエトによって承認された規則に基づいて設立され、運営されていた。
1940年までにはソ連に262のスポーツ学校があり[5]、そのうち数十校はダイナモスポーツ協会(Dynamo sports society)、スパルタクスポーツ協会(Spartak sports society)、CDKA、労働組合のスポーツ協会、 en:OSOAVIAKHIM等、教育システムによってソ連で運営されていた。
1941年4月、ソ連全土の学校で体育の授業数を増やし、1942年にソ連の主要都市すべてにスポーツ学校を設立するという決定がなされた[6]が、この決定は、1941年6月22日に枢軸国軍がソ連への軍事侵攻を開始した(バルバロッサ作戦)ため実行されず、また大祖国戦争の軍事作戦中、ソ連西部地域の占領とソ連後方地域の空爆により、多くのスポーツ施設が破壊、損傷、または使用停止となったのであるが、終戦後は被害にあった学校の復旧が開始された。そして1950年代初頭には、ソ連が1951年からオリンピックに参加しはじめたこともあり、スポーツ学校のプログラムに変更が加えられ、1953年になるとソ連のスポーツ学校は721にもおよんだ[5]。
1969年にはモスクワの青少年スポーツ学校スポーツ協会がen:Youth_of_Moscow(Russian: Юность Москвы、旧名:モスクワ市政府体育スポーツ委員会第66児童青少年スポーツ学校)を設立。
以降、ロシアの児童・青少年スポーツ (Youth_sports) 制度は困難な時期を経験したが、スポーツ学校のネットワークは維持され、それに加えて体育クラブ(DYuKFP)が設立された。
2005年には、約4,951のスポーツ学校とDYuKFPが教育システムとロシア連邦体育文化・スポーツ・観光省(通称:Rossport)のシステムで機能していた。前者は、2,944の体育・スポーツ教育機関に属していた。内訳は、スポーツ学校1,917校、オリンピック選手育成校の専門スポーツ学校464校、DYuKFPが556校、体育センターが7校である。この時点で教育システムのスポーツ学校だけでも約200万人の子供と若者が通っており[7]、122のスポーツ種目に13,000以上の学科が存在した。Rossport系の機関には約100万人の若いアスリートが通っていた。
なおこれとは別に、政府運営の国立スポーツ大学が2校あった。モスクワ・スポーツ大学(現・ロシア国立体育・スポーツ・青年・観光大学)と、P. F. レスガフト国立体育研究所(後のP・F・レスガフト国立体育・スポーツ・健康大学, ru:Университет_имени_Лесгафта)であり、さらにサンクトペテルブルク軍事体育スポーツ大学(en:Military_Institute_of_Physical_Culture)などもあり、これらは成人レベルのナショナルアスリートにとって主要なスポーツ育成機関であった。
- オリンピック選手育成校の専門(複合)学校
1951年にソ連が国際オリンピック委員会の正式メンバーになった後、オリンピック選手予備軍を専門に育成する児童青少年(スポーツ)学校( Специализированная Детско-Юношеская (Спортивная) Школа Олимпийского Резерва, СДЮ(С)ШОР)が、世界最高レベルのスポーツで活躍できる若いアスリートを育成するため開設され始めた。こうしたスポーツ学校の数は増加し、スポーツ学校内で教えられるスポーツ種目も増えていった。つまりオリンピック競技だけでなく、国内のスポーツ種目、観光、オリエンテーリング、その他のスポーツも含まれるようになると、オリンピック選手予備軍複合専門児童・青少年学校(Комплексна Спеціалізована Дитячо-Юнацька Школа Олімпійського Резерву, КСДЮШОР)も開設された。
- 高度なスポーツ技術を習得するための学校
スポーツ学校やオリンピック選手育成校に加え、高度なスポーツ技術を習得するための学校として、高等スポーツ技能学校(Школа вищої спортивної майстерності、ШВСМ)も開設。
- 地域寄宿学校(オリンピック選手育成校)
また、1989年以前のソビエト連邦には、地域ごとのスポーツ専門寄宿学校(ОШИСП、Областная школа-интернат спортивного профиля)のネットワークが存在しており[8]、これらには学科に国技から観光分野も含まれていた。子供たちはそこで生活し、学び、高度なスポーツトレーニングを受ける。スポーツ寄宿学校には、単一競技に特化したものと、複合競技を扱うものがあったが、これらの学校では、子供たちは学習以外の時間のほとんどを、スポーツの練習や特定の技能の習得に費やした。
1989年、すべてのスポーツ寄宿学校はオリンピック選手育成校(UOR、училище олимпийского резерва, УОР)となる[8]。
組織構造
スポーツ学校は国の行政区分と整合しており、ソ連の地区、市、州、中央と各共和国ごとにスポーツ学校があった。スポーツ学校に入学するには、中等学校からの推薦状が必要でありまた、普通の学校の授業中に特定のスポーツ学校に選抜のために招待される、または自発的に選抜されるために行くことも可能であった。さまざまなスポーツ種目の特性に応じて、スポーツ学校に入学する子供と若者の年齢は8歳から14歳で、グループはアスリートのランクに応じて編成され、2級ジュニアスポーツ選手、1級ジュニアスポーツ選手、2級スポーツ選手、1級スポーツ選手、ソ連スポーツマスター候補者、ソ連スポーツマスターなどとグループに区分された。各グループの学習期間は1年ないし2年で、各年に異なるスポーツ規範が適用されていた[9]。
1971年までに、ソ連には3,813校のスポーツ学校があり、約130万人の子供と若者がそこで訓練を受けていたが、これには、教育制度の管轄下にある生徒数100万人の2,434校と、スポーツ協会の制度で運営されている生徒数34万人の1,245校も内訳に含まれる[9]。そして1991年までに、ソ連では約6,000校のスポーツ学校が運営されていた。
批判
こうしたスポーツ学校、特にオリンピック選手育成校は、児童虐待に関連する数々のスキャンダルで注目を集めてきた。子どもたちの能力を最大限に引き出そうとするあまり、多くのコーチが言葉による虐待や、時には残酷な体罰に訴えることがある。親の統制がほとんど及ばず、子どもたちが完全にコーチの支配下にあるスポーツ寄宿学校では、状況はさらに深刻であったという。
この制度のもう一つの欠点は、学校教育で勉学よりも体育スポーツに多くの注意関心が向けられていたことである。オリンピック選手育成校のスポーツ寄宿学校は「ヒット・アンド・ラン」(бей-беги、交通事故や野球のプレーと混同しないように)という皮肉なあだ名が付けられていた。これは、子供たちが勉強する代わりに、主にサッカーボールを蹴ったり、運動場を走り回ったりしていることを意味するという。
旧ソ連諸国のスポーツ学校
1991年のソビエト連邦の崩壊後、エストニア・タリンで1967年設立のアウデンテス・スポーツ・ギムナジウム(en:Audentes_Sports_Gymnasium、エストニア語: Audentese Spordigümnaasium ) はその前年に3つの学校と統合し、2000年にはエストニアスポーツギムナジウムはAS Audentesに買収された。学校はAudentesスポーツギムナジウムに再編成されている。
一方でウクライナは、1966年にウクライナ内閣による共和国体育大学(現ピドゥブニー・オリンピック・カレッジ:en:Piddubny_Olympic_College)の他、 1971年にはリヴィウにスポーツ専門の寄宿学校(現リヴィウ国立体育学校:en:Lviv_State_School_of_Physical_Culture)、 1986年にハルキウ市の冬季スポーツ寄宿学校(現ハルキウ地域体育スポーツ大学:en:Kharkiv_Regional_College_of_Physical_Culture_and_Sports)、 1989年にはドネツク体育技術大学を基盤に、セルヒイ・ブブカ・カレッジ・オブ・オリンピック・リザーブ(en:Serhiy_Bubka_College_of_Olympic_Reserves)、 が設立されている。
参考・その他の国の例
アジア諸国のスポーツ学校
ソ連の児童・青少年スポーツ教育の経験は、東ヨーロッパ諸国、特に東ドイツで応用され、そこではキンダー・ウント・ユーゲントスポーツシューレ(KJS、Kinder- und Jugendsportschule)[10]と呼ばれ、例えばカタリナ・ヴィット、スヴェン・フィッシャー、アンドレアス・トームなどがこうした学校に通った。同様のスポーツ学校は中華人民共和国、北朝鮮、キューバ(それらはSchools for Sports Initiation there<スポーツ入門学校>と呼ばれている)にも設立され[11]、これらの国々がスポーツ選手のレベルを上げ、世界選手権やオリンピックで最高の成績を収めることを可能にした。
現在、中華人民共和国には全日制の学校を含めて約3,000校のスポーツ学校が存在し、このシステムは基本的にソ連の強力なスポーツ学校システムに基づいている[3]。
共産圏でないアジア諸国には数多くのスポーツ学校が存在する。例えば、シンガポールのシンガポールスポーツスクール(en:Singapore Sports School)、マレーシアのクアラルンプールにあるブキット・ジャリルスポーツスクール(en:Bukit Jalil Sports School)、香港の香港スポーツインスティテュート(en:Hong Kong Sports Institute)などが挙げられる。
オーストラリアの例
ニューサウスウェールズ州では、州の教育制度が7つの選抜制スポーツ高校を管理しており、資格を持つ生徒は通常の地元生徒の学区よりもはるかに遠方から入学してくる。その7つはエンデバー・スポーツ高校、ヒルズ・スポーツ高校 (Hills_Sports_High_School) 、ハンター・スポーツ高校 (Illawarra_Sports_High_School) 、イラワラ・スポーツ高校、ナラビーン・スポーツ高校 (Narrabeen_Sports_High_School) 、マトラビル・スポーツ高校 (Matraville_Sports_High_School) 、ウェストフィールズ・スポーツ高校 (Westfields Sports High School) である。ビクトリア州メルボルンでは、マリビルノン・カレッジ (Maribyrnong College) が公立スポーツ高校である。西オーストラリア州フォレストフィールドのダーリング・レンジ・スポーツ・カレッジ (Darling Range Sports College) は、一般高校からスポーツ高校に転換した。
これらの学校は完全な選抜制ではないことが一般的で、入学定員の最大半分は、スポーツプログラムに参加していない地元生徒のために確保されている。
オーストラリア国立スポーツ研究所(英語表記:Australian Institute of Sport、略称:AIS)の特定のプログラムや、各州の同等のプログラムはスポーツスクールとみなすことができる。サッカーとバスケットボールの寮制プログラムでは、スポーツと教育の両方の要件を満たす年間奨学金で10代の学生を受け入れていた。この制度を経てきた選手には、マーク・ヴィドゥカやローレン・ジャクソンらがおり、二人とも17歳で入学し、その後、それぞれの競技で国際レベルでオーストラリア代表となった。体操プログラムではさらに若い学生を受け入れており、フィリップ・リッツォもその一人である。彼は1995年に14歳でAISに入学し、その後、 2000年シドニーオリンピックと2004年アテネオリンピックでオーストラリア代表となった後、2002年コモンウェルスゲームズで複数の種目で優勝している。