スライマーン・ブン・スラド
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- 第一次内乱
- ラクダの戦い(656年)
- スィッフィーンの戦い(657年)
- 第二次内乱
- タッワーブーンの蜂起(684年 - 685年)
- アイン・アル=ワルダの戦い(685年) †
スライマーン・ブン・スラド | |
|---|---|
| 死没 | 685年1月6日 アイン・アル=ワルダ |
| 所属組織 | 正統カリフ政権(アリー・ブン・アビー・ターリブ) |
| 軍歴 | 656年 - 685年 |
| 戦闘 |
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スライマーン・ブン・スラド・アル=フザーイー(アラビア語: سُلَيْمَان بْن صُرَد ٱلْخُزَاعِيّ, ラテン文字転写: Sulaymān b. Ṣurad al-Khuzāʿī, 685年1月6日没)は、クーファを拠点として活動したアリー家[注 1]支持派の指導者であり、680年10月に起こったカルバラーの戦いで戦死したフサイン・ブン・アリー(イスラームの預言者ムハンマドの孫にあたる)の死への復讐を目的としたタッワーブーン(悔悟者たち)と呼ばれる運動を率いた人物である。
大半の史料はスライマーンがイスラームの預言者ムハンマドの教友(サハーバ)であったと主張しているが、一部の史料はスライマーンが第二世代のイスラーム教徒(タービウーン)の一人であったと説明している[1][2]。また、スライマーンの元々の名前はヤサールであったが、ムハンマドからスライマーンの名前を与えられたと伝えられている。スライマーンはクーファにおける最初期のアリー家[注 1]支持派の一人であった。イスラーム世界の最初の内乱である第一次内乱でラクダの戦い(656年12月)に参戦していたのかどうかについては議論があるものの、スィッフィーンの戦い(657年7月)ではカリフのアリー・ブン・アビー・ターリブとともに戦い、アリーの歩兵部隊の右翼軍を指揮した[1][4]。このスィッフィーンの戦いでアリーの対抗者であったムアーウィヤの軍から仲裁の提案を受け、支持者からの圧力によってアリーが交渉に応じることに同意した際にスライマーンはこの決定に強く反対した。その後、661年1月にアリーが暗殺されると、長男のハサンがカリフに選出されたが、ハサンは程なくしてムアーウィヤにカリフの地位を譲った。スライマーンはこのハサンの決定に対しても批判的であった。9世紀の歴史家のバラーズリーによれば、ハサンの退位から2年後にスライマーンの率いるクーファのアリー家支持派の人々がハサンに4万人に及ぶ軍隊による支援を申し出、ムアーウィヤに対する戦争の再開を促したが、ハサンはこの申し出を拒否した[5]。ハサンが670年に死去すると、スライマーンはハサンの弟であるフサインを説得し、ムアーウィヤに対する反乱を起こさせようとしたものの、この説得の試みは失敗に終わった[1]。
タッワーブーンの蜂起

680年4月にムアーウィヤが死去すると、その息子で後継者に指名されていたヤズィードがカリフとなった。ハサンはすでに死去していたため、スライマーンを含むクーファの著名なアリー家支持派の人々はハサンの弟のフサインにヤズィードに対する反乱を率いるように要請したが、その後のフサインへの支援を十分に行わなかった。その結果、フサインは680年10月10日に起こったカルバラーの戦いで少数の従者(そのうちの何人かはクーファ出身者であった)とともにウマイヤ朝軍によって殺害された[1]。
フサインの死はクーファのアリー家支持派の重鎮たちに深い罪悪感を呼び起こし、重鎮たちは自らの責任でフサインの死を招いたと考えた。そして重鎮たちの中の5名がスライマーンの家で会合し、罪を償うためにウマイヤ朝と戦うことを決意した。この運動はタッワーブーン(悔悟者たち)の呼び名で知られ、スライマーンが運動の指導者に選ばれた[6]。しかし、クーファはウマイヤ朝の総督のウバイドゥッラー・ブン・ズィヤードによる強力な支配下にあったため、しばらく間タッワーブーンの運動は秘密裏に行われた[1]。それでもなお、この運動はすぐに百名の支持者を集めることに成功した。毎週金曜日に運動の支持者たちはスライマーンの家に集まり、スライマーンは以下のように演説した[2]。
カリフのヤズィードは683年11月に死去し、その後ウマイヤ朝による支配は各地で崩壊した。イラクの人々はウバイドゥッラー・ブン・ズィヤードを追放し、メッカを拠点としていた対抗のカリフであるアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルをカリフとして承認した。そのアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルはアブドゥッラー・ブン・ヤズィードをクーファの総督に任命した。アブドゥッラー・ブン・ヤズィードはタッワーブーンに対して同情的な姿勢を示し、タッワーブーンに公然と行動する機会を与えた[2]。同じ頃に、別のアリー家支持派の人物であるムフタール・アッ=サカフィーもフサインの死への復讐とフサインの異母弟であるムハンマド・ブン・アル=ハナフィーヤの名の下でアリー家のカリフによる政権の樹立を主張していた。その結果、スライマーンとムフタールの間で支持者の獲得をめぐる争いが起きた。ムフタールはスライマーンの支持者に対し、スライマーンは老齢で衰えており、指導力や軍事経験にも欠けていると警告した。しかし、ムフタールの努力にもかかわらず、スライマーンは支持者の大半を維持することができた[7]。一部のスライマーンの支持者たちはフサインの殺害に関与したクーファの部族の有力者たちを処罰すべきだと主張したが、スライマーンは真の犯人はウマイヤ朝であり、有力な部族の指導者たちを敵に回すのは賢明ではないとしてこの提案を拒否した[2]。結局、およそ1万6千人に及ぶクーファの男性がスライマーンの支持者の名簿に名を連ねた。さらに、スライマーンはマダーインとバスラのアリー家支持派からの支援も取り付けた[2]。
アイン・アル=ワルダの戦い
スライマーンとその追随者たちは684年11月15日にクーファを発って都市の城外で野営した。しかしながら、最終的にこの軍事行動に参加した人数はわずか4千人に過ぎず、マダーインやバスラからの参加者は一人もいなかった。3日間待機した後、タッワーブーンはカルバラーに向けて進軍を開始した。兵士たちはマダーインやバスラからの仲間を待ちたいと望んだが、スライマーンはさらなる遅延を拒んだ[8]。その後、軍隊はフサインの墓前で1日喪に服した[6]。しかし、この時点までにさらに千人の兵士が離脱していた。スライマーンは兵士の減少にも動じず、このような者たちが去るのはむしろ良いことだと宣言し、仲間たちに行軍を命じた[8]。軍隊はユーフラテス川沿いの道を進み、現代のシリアの国境に位置するアイン・アル=ワルダでウバイドゥッラー・ブン・ズィヤードが率いるウマイヤ朝軍と遭遇した。戦いは685年1月4日に始まった。初日の戦闘では敵軍を押し返すことに成功したものの、その後は数的に優位であったウマイヤ朝軍を前に劣勢となり始めた。そして勝敗が決した3日目の戦闘でスライマーンは矢に射られて戦死した。結局、戦いは5人の最高指揮官のうちの4人を含むタッワーブーンの大半が戦死するという結果に終わった。生き残った兵士たちは撤退し、その後ムフタールの反乱に加わった[1][2]。