ダウマンタス (プスコフ公)
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1265年までダウマンタス[3]は、リトアニア大公とリトアニア大公国北部のナルシェの公を兼任するミンダウガスの同盟者であり、ミンダウガスの妻とダウマンタスの妻は姉妹であった。このような義兄弟の関係にもかかわらず、ダウマンタスはミンダウガスの甥でジェマイティヤの公であったトレニオタとの関係を深める。トレニオタは、ドイツ騎士団やリヴォニア騎士団に対する全バルト人の反乱の扇動を試みつつ、王国内で堅実に自身の力を伸ばしていった。
1263年にトレニオタはミンダウガスをその2人の息子とともに暗殺した。この事件はトレニオタとダウマンタスの共謀であると考えられている。結果、リトアニアはその後120年に及ぶ異教信仰に戻ることになった。いくつかのルーシの年代記は、2人のミンダウガス暗殺の動機について、トレニオタの権力欲と、1262年に王妃のモルタが死去した後にミンダウガスがダウマンタスの妻であったモルタの姉妹を強奪したことに対するダウマンタスの復讐心と伝える。ミンダウガスが大軍をブリャンスクに向けて派遣した時にダウマンタスは遠征軍に参加したが、すぐに帰国してミンダウガスをその2人の息子とともに殺した。
『ブィホヴィエツ年代記』(後年に書かれ、信憑性に疑問がある資料)によるとダウマンタスは暗殺の報酬としてウテナ公の称号を得たとある。
ミンダウガスの長男であるヴァイシュヴィルガスはハールィチ・ヴォルィーニ大公国のシュヴァルナスと同盟したことにより、1264年にトレニオタを殺すことで父の仇討ちを果たし、ダウマンタスとその仲間はプスコフに逃れた。
プスコフの統治者として
ダウマンタスはプスコフ到着後に東方正教会の洗礼を受けて(キリスト教名はティモセウス、ルーシ語でティモフェイ)、アレクサンドル・ネフスキーの息子ドミトリーの娘と結婚した。リトアニアに対してプスコフ軍を率いてダウガヴァ川の土手で敵軍を撃破し、ゲルデニス公の地に侵入して破壊を行い、その2人の息子と妻を捕える。ダウマンタスの勇敢な精神、友好的な手段、軍事的事業の成功は、ダウマンタスを自分達の「公」(クニャージ)として、軍事指導者に選出することをプスコフ人に納得させるに至った。
ダウマンタスの選出は、伝統的にプスコフの内政を管轄下に置くノヴゴロド共和国に是認されなかった。ノヴゴロド公ヤロスラフはプスコフ市民の反抗に対する懲罰とダウマンタスの放逐を企てたが、ノヴゴロド市民はヤロスラフの遠征に参加することを拒絶し、翌年のダウマンタスによるリトアニア侵攻に参加さえもした。ダウマンタスは再びプスコフ軍の指揮を執り、勝利の凱歌をもたらした。
翌年、プスコフ=ノヴゴロド同盟はリヴォニア騎士団の侵攻でより強固なものとなった。ダウマンタス指揮下のプスコフ軍はヤロスラフと義父ドミトリー率いるノヴゴロド軍に加わって1268年のヴェセンベルグの戦い(現在のラクヴェレ付近)でリヴォニア騎士団に大打撃を与えた。次の年にリヴォニア騎士団総長オットー・フォン・ルーテンベルグはプスコフ包囲の指揮を執ったが、ノヴゴロドの支援を受けたダウマンタスは反撃してルーテンベルグに負傷を負わせることで撃退に成功した。リヴォニア騎士団は幾つかの犠牲により和平を求め、プスコフとノヴゴロドへの攻撃は30年の間止んだ。


