ダヌビュー事件
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背景
スーチーは1990年に予定されていた総選挙において、地方の支持を得るべく、5人以上の集会、扇動、演説、スローガンの斉唱、行進を禁じる戒厳令[1]を無視して、地方遊説を開始した。スーチーは花を髪に飾り、ミャンマーの伝統服・ロンジーに身を包むスタイルで全国各地を回り[2]、花束や香水、スタンディングオベーションなど各地で熱狂的な歓迎を受けた[3]
スーチー一行は1989年1月と3月の2回、既にエーヤワディ地方域を訪れていたが、そこにある国軍南西司令部(ビルマ語: အနောက်တောင်တိုင်းစစ်ဌာနချုပ်)の司令官・ミンアウン准将は、スーチーを毛嫌いしていた。1月の訪問の際には、ミンアウン准将は地元の人々をスーチーに会わせないように取り計らい、逆に3月の訪問の際には、スーチー一行は首尾よくデダイェに上陸して(一行はボートで移動していた)、数百人の人々の前で演説することに成功した[4][5]。
事件
1989年4月5日、スーチー一行約40人がダヌビューを訪問。ダヌビューは第一次英緬戦争で、ビルマ軍がイギリス軍に決定的な敗北を喫した場所だった。一行が地元のNLD事務所に到着すると、ミンアウン准将の命を受けた部隊の指揮官・ミンウー(Myint Oo)大尉が、「町は戒厳令下にあり、公衆の前での演説は禁止されている」と告げた。仕方なく、スーチーはNLD事務所内で演説した後、周囲の村々を訪れるため、一行を引き連れ船着き場へ赴いた。地元の支持者たちも後を付いてきて、その数約80人。しかし、一行の後を国軍の車が着いてきて、解散を要求。「三度警告して解散しなければ、撃ち殺す」と警告したが、兵士が銃を構えたときには、既にスーチーを乗せたボートは船着き場を後にしていた[5]。
村々を回っている間もずっと国軍のボートがずっと尾行していた。すべてが終わり夕方になった頃、スーチーはダヌビューに一泊することを提案。一行の他のメンバーは反対したが、スーチーは自分の意見を通した。ダヌビューの船着き場に戻ると、1人の兵士が上陸を阻止しようとしたが、一行は構わず上陸。徒歩でNLD事務所に向かっている途中、他の兵士が「市場の前の道を通るのは許可されていない」と警告したが、一行はこれも無視した。そこにミンウー大尉と6~7人の兵士を乗せたジープがやって来て、一行の行先に停車。兵士たちがジープから飛び降り、3~4人が膝撃ち、3人が立ち撃ちでライフルを一行に向けた[5]。
ミンウー大尉は一行に「列を作って歩くな」と警告。スーチーは、一行の先頭でNLDの「戦う孔雀」の旗を掲げていた青年が標的にならないように、列から離れるよう言った後、「いいでしょう、わかりました。道の端を歩きましょう」と妥協案を示した。しかし、ミンウー大尉は「道の端を歩いても撃つ」と再度警告。「私を撃ちたいんだな」と判断したスーチーは、道の真ん中に進み出、ミンウー大尉と兵士たちのほうに歩いていき、一行はその後に続いた。スーチーが兵士たちの目の前を通りすぎた時、兵士たちは石のように固まり、ライフルを胸の前で抱えたまま、青ざめていたのだという[6][5]。
と、そこにミンウー大尉の上司であるマウントゥン少佐が、「やめろ、ミンウー!」と叫びながら駆けつけてきて、「ここは前線ではない…政治だ」と言って、ミンウー大尉との兵士たちに発砲を止めるように命じた。ミンウー大尉は、肩章を引きちぎって地面に投げ捨て、「これはなんのためにあるんだ!」怒鳴ったのだという[6][5][7]。
影響
スーチーはヤンゴンに戻った後、すぐにイギリス大使館へ赴き、BBCがこのニュースを世界に報じたことにより、スーチーは生きる伝説と化し、聖人イメージで捉えられるようになった[4]。
数年後、ミンウー大尉は、上層部から書面による命令を受け取っていたため、マウントゥン少佐による妨害がなければ、間違いなくスーチー一行に発砲していただろうと証言した。「私はただ命令に従う忠実な兵士になりたかっただけだ」と彼は語り、命令が土壇場で変更されたことに腹を立てて肩章を引きちぎったと述べた。「彼らは命令に従わなかった」[7]