チャールズ1世の処刑
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チャールズ1世の処刑(チャールズ1せいのしょけい)は、1649年1月30日[注釈 2]にロンドンのホワイトホールのバンケティング・ハウスの外で公衆の面前で行われた、イングランド王、スコットランド王、アイルランド王であるチャールズ1世の死刑の執行である。処刑はチャールズが捕らえられ裁判にかけられることになるイングランド内戦期にイングランドの王党派と議会派の政治的衝突や軍事的衝突の結果であった。1649年1月27日に議会派の高等裁判所は「自身の意思により支配する無制限で専制君主の権力を自身に擁護し人民の権利と自由を廃止する」意図の故にチャールズに有罪を宣言し、斬首刑による死刑を宣告した[2]。

チャールズは最も忠誠を誓った臣民や家族の訪問を受けながらセント・ジェームズ宮殿で最後の数日を過ごした。1月30日にバンケティング・ハウスの前に作られた大きく黒い絞首台に連行され、そこには群衆が集まっていた。チャールズは絞首台に踏み込み議会が断罪した罪は無罪であると宣言し「人民の殉教者」と主張しながら最後の演説を行った。多くの議会派の衛兵が絞首台を塞いでいたために群衆は演説が聞こえなかったが、チャールズの友人ウィリアム・ジャクソン主教は速記に記録した。天国での自身にとっての「不滅の王冠」を主張しながら最後の数語をジャクソンに与え、断頭台に頭を置いた。少しの時間を待って準備ができた合図を送ると匿名の死刑執行人が一太刀でチャールズを打ち首にし、チャールズの頭部を群衆に向けて静かに持ち上げ、少しして兵士の集まる所に落とした。
処刑はイングランドの歴史で最も重大で論争を呼ぶ事件の一つとされてきた[注釈 3]。一部は無実の男の殉教と見、同時代の歴史家エドワード・ハイドは「過去を超える恥と醜聞の年でいかなる国もこれまで呪われている最悪の非道と最も血塗られた反逆の最高の偽善の年」と表現し[3]、後のトーリー党の作家アイザック・ディズレーリはチャールズについてイギリスに対する「市民と政治の」殉教者の死に方をして「同じ冷静な考えで斧を受け生きてきた君主として死んだ」[4]と書いた[5]。チャールズ1世の検察官ジョン・クックが「一専制君主のみならず圧制に対する刑を宣告した」と表明し[6][7]ホイッグの歴史家サミュエル・ローソン・ガーディナーが「チャールズの死と共に立憲制度の創設に対する主な障害が排除された。・・・チャールズが理解した通り君主制は永遠に姿を消した。」と書きながら更に他にはイギリスの民主主義に向けた極めて重要な一歩と見た[8]。
処刑

処刑は1649年1月30日に行うように準備された。1649年1月28日に国王はホワイトホール宮殿からセント・ジェームズ宮殿に移され、(ホワウィトホール通りの裏側の)バンケティング・ハウスの外に建造される断頭台の音を避けたようである。[10]チャールズはロンドン主教ウィリアム・ジャクソンと祈りの一日を過ごした。[10]
1月29日にチャールズは個人的な書類を焼却し書簡を暗号で記した[11]。15か月間子供と会っておらず、そのために議会派は最後の時に当たり子供のエリザベスとヘンリーに話すことを認めた[12]。13歳のエリザベスに「真のプロテスタント派」に忠実であり母親に「父の考えは決して母から離れたことはない」と告げるように指示した[13]。10歳のヘンリーに傀儡王として即位させる疑いの大きい議会派により「王にされることのない」ように指示した[14]。チャールズは自分の宝石を子供に分け、ゲオルギオスだけを(ガーター勲章の礼服の一部として着用した聖ゲオルギオスのエナメル製の肖像)残した[15][16]。チャールズは眠れずに最後の夜を過ごし、午前2時にやっと眠りについた[17]。
チャールズは処刑の日は早く目が覚めた。黒ずくめの洗練された衣服と青いガーター懸章に午前5時に着替えを始めた[18]。準備は夜明けまで続いた[19]。残した所持品数点の扱いについて寝室係のトーマス・ハーバートに指示した[20]。群衆が寒さから震える自分を見ず臆病なために失敗しないためにハーバートから予備のシャツを所望した[21]。出掛ける前にジャクソンはチャールズに聖餐を与えた[22]。午前10時にフランシス・ハッカー大佐はチャールズに処刑の準備のできたホワイトホールに行くよう指示した[23]。ジャクソンにこの効果に対して説得されたと伝えられていて昼にチャールズはボルドーワインを1杯飲みパンを一切れ食べた[24][22]。
群衆がチャールズの処刑用の壇が作られたバンケティング・ハウスの外に集まっていた[25]。壇は黒で覆われ、U字釘がチャールズを抑える必要があればロープを使えるように木に打ち込まれていた[26]。処刑台は国王が断頭台に頭を乗せるのに断頭台の前で跪くような服従的な姿勢である身を伏せなければならないほど低かった[27]。死刑執行人は誰か分からないように覆面とカツラで隠されていた[28]。
午後2時ちょっと前にハッカー大佐はチャールズを断頭台に呼んだ[30]。チャールズはハーバートが「イングランドがこれまでに見た中で最も悲しい光景」と表現する断頭台にバンケティング会館の窓を通って来た[注釈 4][32][33]。チャールズは群衆を見、衛兵の障壁が自分がやろうとする演説を群衆が聴けないようにしていることを理解し、そのためにジャクソンと国王殺害者のマシュー・トムリンソンに(前者は速記で演説を記録した)演説を行った。告発された罪では無実でありキリスト教に忠実であり議会が処刑につながる戦争の原因であったと宣言した。自らを「人民の殉教者」(人民の権利のために死ぬ人)と呼んだ[34][29]。
死刑執行人がチャールズの髪で困らないためにチャールズはジャクソンに自分のナイトキャップを被せてくれるよう頼んだ[35]。天国の自分の理解する正しい場所を求めながらジャクソンに向かい「堕落しやすい王冠から堕落しにくい王冠に行く」と宣言した[29][36]。謎の言葉「忘れないでくれ」と一言発しながらチャールズはゲオルギオスと懸章、マントをジャクソンに与えた[37]。チャールズは首を断頭台に乗せ死刑執行人に斬首する合図を待つよう頼んだ。一瞬が過ぎてチャールズは合図を送り、死刑執行人は鮮やかな一太刀で斬首した[38]。
死刑執行人は静かに観衆に向けてチャールズの頭部を持ち上げた。未熟なのか身元確認の恐怖なのか「反逆者の頭を見ろ」という慣習となった叫びを発しなかった[39]。群衆の発したうめき声は当時の他の処刑報告書には報告されていないが王党派のフィリップ・ヘンリーによると群衆は大きなうめき声を上げた(17歳のヘンリーは今までに聞いたことがなく二度と聞きたくないようなうめき声」と書いた)[40][41][42]。死刑執行人は国王の頭を群衆に落とし兵士はチャールズの血にハンカチを浸し髪の毛の房を切り取りながらその回りに群がった[43]。遺体は棺に収められ黒いビロードで覆われた。ホワイトホール内の国王の嘗ての「宿泊部屋」に一時的に安置された[44]。
死刑執行人

処刑に際して自分達を隠す粗末な覆面とカツラを着けたチャールズ1世の死刑執行人と補助者が誰であるかは公には明らかにならず[46]、恐らくオリバー・クロムウェルと同僚の数人にしか知られなかった[47]。「反逆者の首を良く見ろ」と叫ばなかった事実は反逆者の公開処刑の経験が薄いか単に自分の声で身元がばれることを恐れたことを示唆し得るが、チャールズの首を鮮やかに斬首したことと死刑執行人が処刑後にチャールズの首を持ち上げた事実は死刑執行人が斧の扱いに長けていたことを示唆している[48][39]。
大衆紙に見られる数件の矛盾した身元確認のある中で誰が死刑執行人かという大衆の中の憶測が多くある[49]。この中にリチャード・ブランドンやウィリアム・ヒューレット、ウィリアム・ウォーカー、ヒュー・ピーター、ジョージ・ジョイス、ジョン・ビッグ、グレゴリー・ブランドン、(あるフランスの報告が主張するように)クロムウェル、トーマス・フェアファックスがいた[50]。この人々の多くは事実無根の噂であると分かっているが(当時鬼籍に入っていたグレゴリー・ブランドンとクロムウェルやフェアファックスに向けられた非難は歴史学者により真面目には取り上げられていない)、何人かは間違いない可能性がある[51]。
誰もすぐには名乗り出なかったが、ジョン・ヒューゾン大佐は死刑執行人を見付ける任務を与えられ、100ポンドと速やかな協力要請を交換条件に死刑執行人や補助人の地位を兵士40人に提供した[52]。この中の一人の兵士が後にこの仕事を受け入れ最も確実な候補がヒューレットであることが示唆されている。処刑から程なくしてヒューレットは重要で速やかな昇進をし、チャールズの処刑の日は姿が見えなかった。このことは暫くして昇進することと矛盾するがそのアリバイは死刑執行人を拒否したためにこの日は収監されていたという主張からなっていた[53]。ウィリアム・ヒューレットは王政復古に際して1660年10月に死刑執行人として審理され、処刑に関わったとされて死刑判決を受けた。この判決は暫くして覆され、ヒューレットは弁明証拠が幾つか判事に提出されると恩赦を受けた[54]。
全般的に言えば最も可能性のある死刑執行人の候補はチャールズの処刑の時にごく普通の絞首刑執行人のリチャード・ブランドンであった[55]。経験者となり、鮮やかな一太刀の説明になり、処刑の頃に30ポンドを受け取ったと報告されている[56]。チャールズの処刑の前後にウィリアム・ロードやカペル卿の処刑などの王党派の死刑執行人であった[57]。このことにもかかわらずブランドンは生涯を通じて死刑執行人であることを否定し、当時の手紙で処刑を行うために議会派の200ポンドの申し入れを拒否したと主張している[58]。ブランドンの死後間もなく発行された小冊子リチャード・ブランドンの告白はその時は殆ど関心を集めず現在は偽造と看做されているがチャールズの処刑に対するブランドンの臨終の告白を含んでいると主張している[59][60]。
その他の候補と考えられる人で言うと、ピーターが病気で家に留まっていたと伝えられるが、明確にチャールズの死を擁護しているが、処刑は欠席した[61]。ジョイスはクロムウェルの忠実な狂信者で戦争の初期にホールデンビ会館から国王を捕らえていた[62]。ウィリアム・ウォーカーは地元の言い伝えによると数回国王を殺したと認めている議会派の兵士であった[63]。ビッグは地元の言い伝えによると死刑執行人として裁かれることへの恐怖から王政復古後すぐに隠遁者になったサイモン・メインの事務員であり後の隠遁者であった[64]。
反応
イギリスでの反応
そこから運ばれてきた王たる役者は、
その悲劇の断頭台をさえ飾るかのようであった。
その周囲では武装した兵たちが、
血に染まった手を打ち鳴らしていた。
彼はあの忘れがたい場面において、
少しも凡庸な振る舞いや言葉を見せなかった。
むしろ鋭く澄んだ眼差しで、
斧の刃先を静かに見定めていた。
処刑の日にチャールズの最後の行動の報告が伝記作家ジョフリー・ロバートソンが「ほぼ申し分なく殉教者のパートを演じた」と表現したように殉教者としての後世の描写に適するようにしていた[66][67]。このことは疑いなく偶然ではなく、大量の王党派の報告は処刑における群衆の恐怖とチャールズの「聖書関係の無実」を強調しすぎた[68]。チャールズでさえ将来の殉教のために計画していたことを示していた。処刑の日に読み上げられる聖書の一節が磔刑のマタイの記述であったことを明らかに喜んでいて、1642年に従兄弟のハミルトン公爵に仄めかしていた。
・・・更に言わざるを得ない。我が大義の正義を拠り所として定め、いかなる窮地や不運に遭おうとも、決して屈しないと決意している。栄光ある国王か忍耐強い殉教者であるために、そして私はいまだ前者に陥ったわけでもなく、また現時点で後者を恐れているわけでもないので、今こそこの決意を表明するのに、ふさわしくない時ではないと考える。・・・[69]
ダニエル・P・クラインの意見では「チャールズは1649年の敗北し恥をかいた国王であった。更にこの審理をチャールズの事件に関連付けることで敗れた政治的な動機と宗教上の真理を結びつけながら国王は殉教に対する権利を主張できた。」[70]
チャールズが処刑されてほぼすぐに[注釈 5]チャールズの瞑想録と自叙伝と思われるアイコン・バシリケがイングランドで読まれ始めた[71]。出版された最初の月までに20版を数えながら本は短期間に大衆に広まり[73]、フィリップ・A・ナチェルにより「イングランド内戦から行われた王党派の宣伝の最も広く読まれ読本で広く議論された著作」に選ばれている[71]。チャールズが自ら表明した敬虔な「人民の殉教者」としてチャールズの視点を広く広めながら本は過去の行動のための王権と正当な根拠に関するチャールズの瞑想録と思われるものを提示した。チャールズの処刑の結果として王党派の熱情を深化させ、強い賞賛の言葉は本が広く流布することにつながり、一部は無学文盲の人々にとっての韻文や音楽にさえなった[74]。ジョン・ミルトンは「王党派の主義の最も重要な強みであり務め」と表現した[75]。
一方で議会派はこの王党派の報告に対する宣伝戦を展開した。このような本の印刷者を逮捕し抑圧することで亡き国王に対するアイコン・バシリケなどの様々な挽歌を含む王党派の著作を抑圧した[76]。同時にチャールズの処刑に続いて2月には反対派を上回る勢いを付けながら国王殺害者を支持する著作を押し付ける急進的な書店主や出版者と作業した[77]。個別攻撃する手法で王党派の論調を攻撃しながらチャールズの描写に執着するアイコン・バシリケや「象徴を溺愛する大衆」の信心を鋭く嘲りながらジョン・ミルトンはアイコン・バシリケに対する議会派の返答としてアイコノクラステスを書くよう依頼された[78]。「高等法院の審理に関わった全ての理性のある人への訴え」をしながらチャールズの検察官ジョン・クックはチャールズの処刑を擁護する小冊子を出版し、処刑は「一人の暴君のみならず暴政そのものに対する判決を行った」と主張した[6][7]。一連の出版物はこの時代のほぼ全ての社会秩序の考えに対して行った国王殺害者にもかかわらずチャールズの国王殺害者は程なくして身の安全を感じる社会通念に対するこのような効果があった[79]。当時の出典はクロムウェルとヘンリー・アイアトンを2月24日までの事件について「非常に機嫌良くよく喜んでいる」と描写した[80]。
ヨーロッパでの反応

ヨーロッパの政治家の間の反応は国王殺害者に対する恐怖を素早く声にしたヨーロッパの王子や支配者と共に概ね例外なく否定的であった[83]。これにもかかわらず外国政府が注意深く処刑を非難することについてイングランドとの関係を断絶するのを避けたためにイングランドの新政府に対する行動は殆どなかった。バチカンやフランス、オランダの王党派の同盟でさえイングランドの議会派との関係を緊張させることを避け、オランダからのチャールズ2世に対する公式の同情は「陛下」と呼ぶのを避けるのがあり得るところまで行った[84]。ヨーロッパの殆どの国は最近署名したヴェストファーレン条約の条項を交渉するような自分の関心を捕らえる自身の問題があり、国王殺害者はリチャード・ボニーが「気乗りのしない無関係」と表現したことにより扱われた[85]。C.V.ウェッジウッドが表現したようにヨーロッパの政治家の一般的な行為は「(処刑の)非道の復讐をする考えに一人口先だけの支持をし純粋に実践的な思考により実行者に向けた行為を左右する」ことにあった[86]。
著名な一人の例外はロシアのツァーリアレクセイで、イングランドとの外交関係を断絶しモスクワに王党派の難民を受け入れた。イングランドの商人は全員ロシアに行くことを禁じ(とりわけモスクワ会社の社員)、「栄光ある殉教者チャールズ1世の不幸な未亡人」ヘンリエッタ・マリアに弔辞を送りながらチャールズ2世に金融支援を行った[87]。
アメリカの植民地での反応
チャールズ1世が処刑されたとの報道はゆっくりとイングランドの北米植民地に渡り、5月26日にロードアイランドのロジャー・ウィリアムズは「国王と多くの貴族や議員が斬首された」と報告し、6月3日にアダム・ウィンスロップはボストンから「こちらにロンドンからの船が入港し国王が斬首されたとの報道をもたらした」と報告した。しかし手紙や日記からの最初の議論の中身は明らかではない。
神がコモンウェルス軍に勝利を与えることで国王殺害者への承認を示したかのように見えるまでは植民地側の見解を公に表明する声明は現れ始めなかった。1650年9月クロムウェルがダンバーの戦いでチャールズ2世とそのスコットランド支持者たちに対してイングランド軍を勝利へ導くと、ニューイングランドの教会は感謝の日を設けてこれを祝った。—フラシス・J・ブレマー[88]
名残り

チャールズの処刑の絵はこの時代のイングランドの王党主義における主要な主題であるチャールズ殉教王の礼賛者にとって中心となる者であった。チャールズが死んで程なくチャールズの処刑の遺品は恐らく農民の間の瘰癧を直したチャールズの血の付いたハンカチで奇跡を起こしたと伝えられた[90]。信仰の多くの挽歌と著作は死んだチャールズとその主義を神聖なものにするために作られた[91]。1660年のイングランド君主の王政復古後にこの個人的な信仰は公式の崇拝に転化し、1661年にイングランド国教会は1月30日をチャールズの殉教のための神聖な断食日と宣言した。チャールズはこのたびの祈祷書で聖人のような状態を占めた[92]。チャールズ2世の治世に(フランシス・ターナーの推計するように)約3000の説教が毎年チャールズの殉教を追悼するために行われた[93]。内戦の多くの王政復古史学史が聖人伝風にチャールズの人生の最後の日々を描写しながら国王殺害者を大きな芝居じみた惨劇として強調した。処刑された国王の人間性は誤りに陥りがちなものとは殆ど見られなかった[94]。王政復古後のイギリスの大法官エドワード・ハイドは自身の回想録反乱史(1702年-1704年)でチャールズの行動の幾つかの批判の一つであり国王としての欠点を理解するためのものであるが[94]、チャールズが処刑された年の報告書は次の激しい非難で終わった。
・・・それはそれ以前のいかなる年にもまして非難と汚名に満ちた一年であった。すなわち、最高度の偽装と偽善、最も深い悪徳と、いかなる国家もかつて蒙ったことのないほど血なまぐさい反逆に満ちた一年であった。その成功によって無神論、不信仰、そして反乱が世界に広まることのないよう、その年に関するあらゆる出来事の記憶は、すべての記録から抹消されるべきである。その年について、われわれは歴史家(タキトゥス)がドミティアヌスの時代について述べたのと同じように、et sicut vetus aetas vidit quid ultimum in libertate esset, ita nos quid in servitute(前の時代が自由の行き着く果てを示したとすれば、われわれは奴隷状態がどこまで進みうるかを目撃した)と言うことができる。[3]
名誉革命後に丁度王党主義が衰えた時に礼賛者は支援を享受し続け、チャールズの処刑記念日は18世紀まで(ホイッグ党のエドマンド・ラドローが表現するように)毎年の王室が支援する「いつもの腹立たしい日」を生み出した[95]。ジェームズ・ウェルウッドやロジャー・コークのようなホイッグ党の歴史家は丁度スチュアート朝を批判しからかった時にチャールズを批判するのを躊躇い素早く嫌悪感を起こすものとして処刑を非難した[96]。チャールズが処刑された記憶はイギリスで多くのホイッグ党員にとって不快なままであった[97]。この礼賛者が不当であることを示すために後のホイッグ党はチャールズを専制君主とし処刑をイギリスで立憲政治への足掛かりとする視点を広めた。逆にアイザック・ディズレーリやウォルター・スコットなどのイギリスのトーリー党の文学者や政治家は王党派が行った同じ殉教の比喩を強調しながら美化されたチャールズの処刑話で礼賛者を元気づけようとした[98]。ディズレーリは自分のCommentaries on the Life and Reign of Charles the First(1828年)でチャールズ1世の処刑を語り、チャールズは「同じ思想の冷静さで斧を受けながら」死亡し「生きてきた威厳と共に死亡した」と述べた[4]。ディズレーリにとって「チャールズの殉教は市民と政治における殉教であり」、「治世の初期の誤謬と虚弱の罪滅ぼしのようなものである」[5]。しかしヴィクトリア朝までにホイッグ党の歴史家の視点はイギリスの歴史学と大衆の意識に蔓延していた[99]。チャールズの「殉教」としての1月30日の儀式は正式に1859年記念日儀式法と共にイングランド国教会の礼拝から除去され、チャールズの死に与えられた説教の数々は次第に少なくなった[100]。このホイッグ党の視点は1886年-1891年の大内戦史を締め括ったようにヴィクトリア朝の歴史家サミュエル・ローソン・ガーディナーにより例証された。
その必要性が本当に存在していたのか、それとも単なる暴君の口実にすぎなかったのか――この問題については、人々は長い間意見を異にしてきたし、おそらく今後も異にし続けるであろう。だがチャールズの死によって立憲的な体制の確立に対する最大の障害が取り除かれたことは誰の目にも明らかである。もちろん個人的支配者が再び現れる可能性はあったし、また議会も統治権力としての優位性をまだ十分に示してはいなかったため、イングランド人が何らかの形の君主制を不要と考えるには至っていなかった。しかしチャールズが理解していた意味での君主制は永久に消滅したのである。統治の地位が不安定なものとなったため、将来の支配者たちはチャールズが行ったように長期間にわたって世論を無視し続けることは不可能となった。ホワイトホールの処刑台はエリオットやピムの雄弁も、また長期議会の制定した法令や条例も成し遂げることのできなかったことをついに成し遂げたのである。[101]
チャールズ1世の人生と処刑はしばしば現代の大衆的表現の主題となってきた。サミュエル・ローソン・ガーディナーやC.V.ウェッジウッド、J.G.マディマンのような大衆歴史家は物語に関する歴史において審理や処刑についてチャールズ1世の没落の物語を形を変えて語ってきた。映画やテレビはBlackadder:王党員の時代のようなコメディーからクロムウェル〜英国王への挑戦〜のような歴史劇まで多くの目的で処刑の劇的な恐怖感と衝撃を最大限に利用してきた[102]。しかし処刑の主題は現代を通じて顕著な本格的学術調査が行われていないことから困ったことになっていて、恐らく部分的にはチャールズ1世の処刑に関する主導的学者であるジェーソン・ピーシーが「君主の首を除去するような完全に「非イングランド的な」研究課題」に対する当惑を述べている。チャールズ1世の審理と処刑の350周年にあたり1999年にこのような関心を引き出しながら学術的な関心が20世紀後半に増大したのでこの汚名は徐々に晴らされてきた[103]。