テルミドール9日のクーデター
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テルミドール9日のクーデター (テルミドールここのかのクーデター、Coup d'état du 9 Thermidor) は、1794年7月27日(フランス革命暦II年テルミドール9日)に起きた、マクシミリアン・ロベスピエールを中心としたロベスピエール派に対立する勢力によるクーデターである。「テルミドール9日のクーデタ」、「テルミドールのクーデター」「テルミドール反動」とも言い、フランス語版では「ロベスピエールの失脚」(La chute de Robespierre)」と呼ばれる。
| テルミドール9日のクーデター | |
|---|---|
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マクシミリアン・ロベスピエールの逮捕(ジャン=ジョゼフ=フランソワ・タサール作) | |
| 場所 |
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| 標的 | マクシミリアン・ロベスピエールらロベスピエール派 |
| 日付 | 1794年7月27日 |
| 概要 | ロベスピエール派に対するクーデター。 |
| 死亡者 |
マクシミリアン・ロベスピエール ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト他 |
| 犯人 |
ジョゼフ・フーシェ ポール・バラス ジャン=ランベール・タリアン他 |
このクーデターは後世の歴史において、フランス革命を象徴する事件として多くの人々に言及されてきた[1]。ロベスピエール派の独裁に反感を抱いた者たちによるクーデターとされていたが、近年、地方における過激な弾圧により立場を悪くしたフーシェ、バラス、タリアンといった派遣議員たちが恐怖政治の全責任をロベスピエール派になすりつけるため画策し、そこに自らの責任を逃れようとした国民公会の多数の構成員も参加したことによるものという見解に変わりつつある[2]。
テルミドール9日のクーデターは即興的性格の事件であった。恐怖政治期に発せられたフリメール14日法(フランス語版)によって国民公会と、その内部にある公安・保安委員会が革命政府体制における権力の中心と定められたため、これによって世論が方向づけられ、事件発生の際にセクションの各組織を国民公会の支持へと反射的に傾かせた[3]。
これによりロベスピエールとその同志であるオーギュスタン・ロベスピエール、ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト、ジョルジュ・クートン、フィリップ=フランソワ=ジョゼフ・ル・バらが失脚し、処刑者や自殺者が出た。
テルミドールとは、革命時制定されたフランス革命暦で「熱月」を意味する。また、革命暦は後にナポレオン・ボナパルトにより廃止された。
背景
フランス革命戦争の開始以来、海外からの食糧輸入は途絶えていた。連邦主義の反乱(フランス語版)やヴァンデの反乱といった内乱もありパンが十分に運ばれてこない中、軍には優先的に食糧を回さなくてはならず、一方でアシニア紙幣の価値も下がり続けた。国民衛兵と民衆は2日間にわたり国民公会を包囲し、いっそうの統制経済と食糧確保を迫り、山岳派はこれに譲歩する。こうして恐怖政治が始まった[4]。
その後フリメール14日法(フランス語版)によって国民公会とその内部にある公安委員会・保安委員会は、革命政府体制の中心と明確に定められた。これによって革命軍の兵士や人民協会の活動家といった人々の間には、国民公会らのもとに結集しなければならないという意識が芽生える[5]。そして民衆運動のリーダーであったエベール派処刑によって彼らに裏切られたと感じた民衆は極度の人間不信に陥り、これを契機として彼らの信頼はエベールやエベール派といった個人・徒党から国民公会や公安・保安委員会へと大きく移行する[6]。こうして生まれた革命政府とサン=キュロット民衆のより強固な精神的結合は、テルミドール9日のクーデターにおいても大きな役割を果たす[5]。
やがて命令不服従や敵前逃亡などを厳しく取り締まる軍への恐怖政治が成果を挙げ[7]、フリュールスでの勝利(フランス語版)などを重ねた結果、ジャコバン派が1793年から1794年にかけてフランス内外の戦乱を収拾する[8]。一方、恐怖政治の中心だった公安委員会は、ロベスピエール派(ロベスピエール、サン=ジュスト、クートン)・戦乱収拾により勢力を拡大した穏健派(ラザール・カルノーなど)と、恐怖政治のさらなる強化を主張する強硬派(ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ、ジャン=マリー・コロー・デルボワなど)に分裂していた。強硬派が公安委員会でロベスピエールとサン=ジュストを独裁者となじったのはこの頃になる。ロベスピエールはサン=ジュストを連れて退出し、これきり公安委員会や国民公会に顔を出さなくなった[9]。
恐怖政治の先鋒としてパリ以上に行き過ぎた弾圧を行っていた地方派遣議員(ジョゼフ・フーシェ、ポール・バラス、ジャン=ランベール・タリアンら)は、ロベスピエールの追及を恐れて先制攻撃を画策する。革命が始まって以来続いてきた心労もあり、この時期のロベスピエールの健康状態は悪化の一途を辿っていた。こうして出来た隙が、彼を倒されるべき存在に仕立てあげる計画を進行させてゆく[10]。
なお、国民は恐怖政治に嫌気が差すようになりそれがロベスピエール派の失脚に繋がったという見解は一面的なものになる。ロベスピエールの暗殺未遂事件も起きており、反感を抱く者が出ていたのは事実だが[11]、彼が療養していた頃、警察の日誌には「植物園のそばで、かなりの人が集まって、ロベスピエールの病状について話していた。人々は悲嘆に暮れており、もしロベスピエールが亡くなるようなことがあれば、すべてが失われてしまうと語っていた」と書かれており、この時まだ支持を失ってはいなかったことがわかっている[12]。
サン=ジュストやバレール(フランス語版)は公安委員会と保安委員会の間を取り持とうとし、ロベスピエール自身も7月23日、両委員会の合同会議の第二部に出席したが、彼はあくまで意見の違いを解消しようとする試みを拒否していた[13]。
テルミドールの演説
今日知られている7月26日の演説は再構成されたものと判明しており、実際ロベスピエールが何を語ったのかは不明のままである。また、この日から7月28日の公式議事録が作成されたのは1795年10月23日以降のことであり、クーデター以来の国民公会における会期の議事録の2分の1が、1796年にいたるまで、総裁政府(1795年10月27日成立)期の議会(元老会と500人会)の命令に基づき編集者によって書き直されている[14]。
7月26日(テルミドール8日)、久しぶりに国民公会へと姿を現したロベスピエールは「少なくともここ六週間の間、私のいわゆる独裁は、存在するのをやめていたわけだ。政府に対しいかなる種類の影響も及ぼしてはいなかった。…それで、この国は何らか、より幸福になっただろうか」と述べ、自分を敵対視する者たちのスローガンが『これはみな、ロベスピエールの仕業だ』であることに言及しつつ、自分は恐怖政治における処刑の責任者ではないと繰り返し、「私は、自分でそのイメージを描いたこの有徳の共和国を疑ったことがある」と告白した[15]。
更に、サン=ジュストらに諮らないまま「粛清されなければならない議員がいる」と演説する。議員達はその名前を言うように要求したが、ロベスピエールは拒否。攻撃の対象が誰なのかわからない以上、全ての議員が震えあがった。パリのジャコバン派であり保安委員会に所属していたこともあるエティエンヌ=ジャン・パニは「私はロベスピエールを批判する。彼は自分の好きなようにジャコバン派の人間を排除してきた。彼が他の人以上の影響力を行使しないことを望む。そして、彼がわれわれを処刑リストに載せているのかどうか、私の首は彼の作ったリストに載っているのかどうか、彼が述べることを望む」と言った。ロベスピエールの友人アンドレ・デュモンは「君を殺したいと思っている者などいない」「世論を殺そうとしているのは君だ!」と叫んだ[15]。反対派たちの結束はこれで決定的なものとなった。議会が終わるとジャコバン・クラブでも同じ演説を行い、これでバレールが和解を諦め、反ロベスピエール側に立ったことで破局が決まった[16]。ジャコバン・クラブでの演説では、「諸君がいま聞いた演説は私の最後の遺言である」と付け加えられた。
ロベスピエールをスケープゴートとして利用する他、この状況に終止符を打つ方法を誰も思いつかなかったため、こうしてロベスピエールと対立する者は力を合わせざるを得なくなった。ジャコバン派議員のマルク=アントワーヌ・ボドはのちに、「テルミドール9日は、諸原理をめぐる問題で争ったわけではない。生きるか死ぬかの問題だった。ロベスピエールの死が、必要だったのである」と述べた[17]。
一方、サン=ジュストはこの日、委員会の部屋で翌日の演説草案を書いている。ビョー=ヴァレンヌとコロー・デルボワから、その原稿を見る権利があると言われるも、サン=ジュストは拒否した[18]。
テルミドール9日の始まり

国民公会にて
翌7月27日(テルミドール9日)午前11時、国民公会の会議が始まった。正午ごろ、サン=ジュストがロベスピエールを擁護するため演壇に上がる。「自分は特定の党派など関係ないし、党派争いを望まない。」「彼は十分に明快に、自身について説明をしている。ただ、彼が表舞台からしばらくいなくなっていた事実、そして彼の苦悩に対して、多少の心遣いがあってもよいかもしれない」すると、議事進行上の問題を理由にタリアンから「昨日同じように孤高を気取っていた奴がいたはずだ。暗幕を切り裂け。(暗幕に隠されたロベスピエール派の結託を明らかにせよ。)」と発言を妨害され、サン=ジュストの演説は打ち切られた[19]。妨害を受け、サン=ジュストの草稿は彼自身が議長に何も言わずに手渡しており、その後、処刑されるまでほとんど口を開かなかった[20]。
テュリオが議長席につくと、ビョー・ヴァレンヌが告訴状を読み始め、「今この時、あらゆることが示しているのは、国民公会が虐殺の脅威にさらされているということだ」「自分の思い通りにならなくなったからと言って、ロベスピエールは公安委員会から遠ざかった」「常に特について語りながら、その実、彼は、犯罪を擁護していたのだ。…1人の暴君のもとで生きたいと望む人民の代表者など1人もいない」と述べ、フランソワ・アンリオ(フランス語wiki)と国民衛兵のロベスピエール派の将校たちの逮捕を提案した。国民公会の議員たちは「そうだ!そうだ!」と声を上げ、この時、ルバが演壇に登ろうと試み失敗した[19]。
ロベスピエールも演壇に登ろうとするも、何度も野次に声をかき消される内に閉口した。タリアンが「もし国民公会が、悪党にふさわしい正義の裁きを彼に対して下すつもりがないというなら、この暴君を突き刺すための短剣を私は持っている」と宣言し、続いてバレールは「革命政府のかたちが、少し前から、大きく変質させられてしまった」「わざとらしく煽られる不安と真の危険とは、同時に存在しえない。並外れた名望と平等な人間とが、長い間にわたって共存することもできない」と述べた。マルク=ギヨーム・アレクシス・ヴァディエ(フランス語wiki)は「私はこの臆病な暴君に対する告発の政令を要求した最初の人間だ。ロベスピエールを暴君だと信じるのは簡単じゃない。けれど、私はそうだと信じる。彼に対する告発の政令を要求する」とし、ロベスピエールには6人のスパイがいて、彼らは毎日のように国民公会議員たちをつけ回していたと主張し、ロベスピエールが作った報告書を告発のための証拠とした。また、ロベスピエールはあまりに穏健すぎて、陰謀家たちをギロチンから救おうとしていたとも非難している[19]。
ロベスピエールが発言を試みていると、「ダントンの血が喉につかえているんだろう」と野次が飛んだ。最後に彼は「私は死を要求する」と叫んだ。弟のオーギュスタンは「私も死を要求する。私は自由のために死にたいのだ。私の兄が有罪なら、私も有罪だ。我が国のために役立つことをしたかったが、私も罪人どもの手にかかって死ぬことを望む」と言い、こうしてアンリオ、ルネ=フランソワ・デュマ(フランス語wiki)、ロベスピエール寄りの役人に加え、ロベスピエール兄弟、サン=ジュスト、クートン、ルバの逮捕命令へと進む[19]。

市庁舎での5人
午後4時頃、ロベスピエールたちは議会決定による処分を受け、憲兵たちによって公会の外に連れ出され、面談文通禁止の下に置かれる。サン=ジュストはエコセ牢獄に送られ、ルバはコンシェルジュリーに行く予定だったが、結局ラ・フォルス牢獄に連行された。オーギュスタンは最初、サン・ラザール牢獄に連れて行かれるも、彼も結局ラ・フォルス牢獄に収監された。ロベスピエールはリュクサンブール牢獄まで護送された際、そこの牢獄管理人は驚き、彼の収容を拒否している[21][22]。
この間、パリのコミューンはロベスピエールたちを救うために動員をかけていた。彼らは拘束されることなく夜の間に次々と解放され、最終的に市庁舎に集まった[22]。
アンリオとパリ市長レスコ=フルリオは「共和国を勝利に導いた」者たちを新たな陰謀家たちから守るようパリの人民に呼びかけたが、多くのセクションが対応に戸惑った結果[23]、48あるセクションのうち、市庁舎を国民公会から守るために部隊を送ってきたのは13だけだった。しかしこれは、ロベスピエールたちはその気になれば大きな軍事力を操れたことを意味する。それでも彼らは国民公会に向けて進軍するべきか否か決断できず、動けないでいた。一方、国民公会は議論の続行を宣言し、休憩を挟んだ後、夜7時に会議が再開される。この時、国民公会にロベスピエールらがセクションに対し、軍事的な支援を呼びかけているという情報が飛び込んでくる。国民公会は、彼らを法の外に置くと決定し、十分な軍隊を召集した。午前2時頃、軍が市庁舎に踏み込む。この時には既に、グレーヴ広場にいたセクションからの部隊は解散してしまっていた[22]。

フリメール14日法発令の後、国民公会といった組織に対する強い信頼が形成され、国民公会こそが「権力の中心」「唯一の正当な権力」であるという観念が生まれた。これは、国民公会に対する反乱は正当性を持たないものであり、反革命だという考え方を生み出し、ロベスピエール派の側に立ったコミューンにセクションが従わないという結果となった[24]。クーデター発生前から存在した革命政府とサン=キュロットの精神的結合によって、ロベスピエール派が勝利する可能性は最初から限りなく低かったと言える[25]。
ルバは二丁のピストルを持っており、その内の一丁を使って自分の頭を撃ち抜き自殺した[26]。午前2時30分、ロベスピエールの顎が打ち砕かれた[27]。オーギュスタンは窓から身を投げ、クートンも傷を負っており、何の動作もした形跡がないのはサン=ジュストだけだった[28]。
議会の決定を重要視してきたロベスピエールは、この時、反抗を民衆に呼びかけるような動きをしたくなかった[29]。自身の住むセクションに向けて蜂起を促す声明に署名しようとして、結局未了のまま終わった署名が今も残されており、そこにはロベスピエールのものと思われる血痕が飛び散っているが、自殺未遂によるものか他者から撃たれたものなのかははっきりしない[26]。のちに准将に昇進したシャルル・アンドレ・メルダは自らが顎を撃ち砕いたと主張している。後に彼は公会でブルトンによって紹介され、彼がひとりで法益を剥奪された2人(誰を指しているのかは不明)を倒しただけでなく、刀剣をもって抵抗しようとしていたロベスピエールとクートンを逮捕したと語ったが、これは同じく公会でバレールが言った「ルバはピストルの一撃で自殺した。クートンは転落して負傷した。ロベスピエール弟は窓から身を投げた。ロベスピエール兄は自ら傷を負った。サン=ジュストは捕らえられた」という発言と矛盾する[28]。
また、バラスは自身の回想録で「ロベスピエールは、ルバが持っていた二丁のピストルの内の一丁で自分の顎を撃ち抜いていた。ルバはもう一丁のピストルで頭をぶち抜いた状態だった。クートンはテーブルの下に身を隠していた」と述べているが、身体が不自由であったため車椅子で生活していたクートンが自力でテーブルの下に潜り込んだというのは考えにくく、クートンを笑いものにする意図がある記述と思われる[30]。

なお、ルバの死体に関する報告書は19世紀の歴史家たちによって確認されているが、現在はどの史料からも失われており、オーギュスタンの怪我についての報告書はまったく見当たらない[30]。
3時30分、ロベスピエールは公安委員会の応接室に移され、5時に保健担当官が保安委員会によって派遣されてきた。この時、場には野次馬が集まってきており、ロベスピエールの右手を持ち上げ顔をのぞきこんだ。ある者は「死んでないぞ、まだ温かいもの」と言い、ある者は「立派な顔の王様じゃないか」、またある者は「仮にこれがカエサルの身体でも、なぜゴミ捨て場に投げ込まれないんだ」と言った[27]。目立つ立ち位置にいたロベスピエールは公安委員会に入った1793年9月頃からそれまで以上に妬みや中傷の対象になっており、彼が独裁者もしくは国王をめざしているという噂が出始め翌年春には一般的なものとなっていたため[31]、野次馬の発言はそれに関係したものと推測される。
ロベスピエール派の最後

翌7月28日の午前11時、ロベスピエールらはコンシェルジュリー牢獄に連行され、死刑宣告を受けた。午後6時、後述する22人を乗せた三台の荷台は、オノレ通りに沿ってデュプレ家の前も通り「なかなか愛くるしい王様じゃないか」「陛下、お苦しいですか」等の言葉を浴びながらギロチンのある革命広場に向かった。デュプレ家の家の壁には牛の血がかけられており、荷台はこの家の前で一時停止している[32]。ロベスピエールの担架の近くを行く死刑囚運搬車の中には、死んだル・バ、重症のオーギュスタンとクートン、半裸の血濡れで片方の眼球は破裂したアンリオが乗っており、無傷なのはサン=ジュストのみだった[33][33]。午後7時30分から処刑が開始され、ロベスピエールが処刑される際、処刑人サンソンが彼に巻かれていた包帯を毟り取ったため、下顎が剥がれ落ち、彼は痛みで唸り声をあげた[34]。また、処刑人は麻痺のあるクートンを台に横たわらせるのに苦労し、その助手はアンリオの傷ついたほうの眼球を抜き取ったといわれている[33]。
夕方、彼らの死体はエランシス共同墓地に捨てられ、石灰の層で覆われた[35]。後の道路拡張による墓地の閉鎖に伴って、遺骨はカタコンブ・ド・パリに移送された。
7月28日、ロベスピエール派と共に処刑された人物
- アドリアン=ニコラ・ゴボー:26歳。元代理検事。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- アントワーヌ・ジャンシ:23歳。桶屋。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- アントワーヌ・シモン:58歳。ドーファン看守。パリ自治委員。
- エティエンヌ=ニコラ・ゲラン:52歳。年金生活者(ランテイエ)。在野活動家(モン=ブラン・セクション委員)。
- オーギュスタン・ロベスピエール(小ロベスピエール)
- クリストフ・コシュフェ:60歳。室内装飾商人。パリ自治委員。
- クロード=フランソワ・ド・パイヤン(en):28歳。パリ市第一助役。
- ジャック=ルイ・フレデリク・ウアルメ:29歳。元ワイン商人。パリ自治委員。
- シャルル=ジャック・ブーゴン:57歳。元切手販売店給士。パリ自治委員。
- ジャン=エティエンヌ・フォレスティエ:47歳。製錬業者。パリ自治委員。
- ジャン=クロード・ベルナール:34歳。元司祭。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- ジャン=バティスト・ド・ラヴァレット(en):40歳。元北方軍准将。国民衛兵隊副司令官(大隊長)。
- ジャン=バティスト・フルーリオ=レスコー(en):33歳。ブリュッセル出身。パリ市長。
- ジャン=ベルナール・ダザール:36歳。理髪屋。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- ジャン=マリ・ケネ:木材商、パリ自治委員。
- ジョルジュ・クートン
- ドニ=エティエンヌ・ローラン:32歳。パリ市庁職員。在野活動家(マラー・セクション委員)。
- ニコラ=ジョゼフ・ヴィヴィエ:50歳。弁護士。パリ県刑事裁判所判事。ジャコバン・クラブ代表。
- フランソワ・アンリオ(en):32歳。国民衛兵隊司令官。
- マクシミリアン・ロベスピエール
- ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト
- ルネ=フランソワ・デュマ(fr):40歳。革命裁判所所長。
その後
ロベスピエール派が処刑された翌日、国民公会の議長は「新たな暴君とは、ロベスピエールのことだった」と説明した。一方ジャコバン・クラブでは、ロベスピエールは偽善的な専制君主であり、公共善への愛情というもっともらしい口実を使って人々を欺いてきた新しいカティリナであると非難されている。なお、最初に「恐怖政治のシステム」という言葉を使ったのはバレールだった[36]。
これらを聞く他の議員たちもまた、自らは恐怖政治を行っていなくてもそれを黙認していたことで消極的に協力していた。そのため、恐怖政治の責任はロベスピエールにあるとする主張は彼らにとっても都合のよいものだった[37]
クーデターの翌日である7月29日、パリ市の71人が陰謀を共有したとして処刑され、その次の日も含めるとおよそ100名が処刑された。その後数か月間は5月7日にフーキエ=タンヴィル、12月16日にジャン=バティスト・カリエといった具合に関係者の処刑が続いている[38][39][40]。
その後、元ジロンド派が国民公会に復帰すると恐怖政治の責任者たちに対し逮捕と処罰を要求したため、バレール、コロー・デルボワ、ビヨー=ヴァレンヌ、ヴァティエが告発される。バレールは亡命に成功し、ヴァティエは姿をくらませたため、コロー・デルボワとビヨー=ヴァレンヌの2人のみ、ギュイヤンヌに流刑となった[41]。ビヨー・ヴァレンヌが『酷熱地帯のシベリア』と名付けたこの地で[42]コロー・デルボワは激しい高熱に見舞われ、この地に到着してから11ヶ月後の1796年6月8日に亡くなった[43]。ビヨー・ヴァレンヌは生き延びたが、ナポレオンが統治するフランスに戻ることを拒否し、後にハイチに移住した。