ジャック・ルネ・エベール

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ジャック=ルネ・エベールフランス語: Jacques René Hébert, 1757年11月15日 - 1794年3月24日)は、フランス革命時のジャーナリストで政治活動家。

ヴァンサン(フランス語版)、ショメットフランス語版)らと共にエベール派を結成し、コルドリエ・クラブを背景としながら過激派(アンラジェ)の経済・社会政策を受け入れ、下層民の食糧確保を訴えた。無神論の立場からロベスピエール理神論を旨とする宗教政策を批判し、山岳派からは「ユルトラ左派」「極端派(跳ね上がりとも称される)と呼ばれた[1]

革命前

アランソンの金銀細工師の子として生まれる。10歳の時に父親が死去したため、危機的状況に陥った母親によってコレージュ(教育施設・学寮)に入れられ教育を受ける[2][注釈 1]。法律を学んだエベールは1776年、ペイ・ドージュ県(現在のカルヴァドス県)のボワッセフランス語版)にある弁護士事務所に就職し、そこで法務書記となった[3]

1776年、地元の紛争によりエベールは故郷を去らざるを得なくなった。友人で薬剤師見習いのラトゥールが、雇い主の妻との不倫をめぐって医師のクルーエと対立していたため、エベールはラトゥールを弁護するため、裁判所の判決文の形式と文面を模倣した匿名のパンフレットを制作してアランソンの数か所に掲示した。パンフレットの著者として特定されたエベールは1000リーブルの賠償金の支払いを命じられた。しかし、この金額を支払うことができず、借金による投獄を逃れるため亡命した。

エベールはルーアンに滞在し、法的支援を求めた後、1780年パリへ向かった。そこで医学を学んでいた友人のデジュネットが彼を助けた。デジュネットによれば、当時のエベールはしばしば「かろうじて暮らし」、そして「飢え、渇き、寒さに苦しむ」ボヘミアンな生活を送っていた。一方、この頃のエベールは上品な服装と礼儀作法に気を配り、詩や戯曲を執筆していた。1786年、ヴァリエテ劇場フランス語版)の会計員となるが1788年11月に職を辞し、1789年、カルム地区の民兵に入隊。ブルジョワ階級の財産を守る任務を負った。その年の暮れにエベールは同郷の医師ボワセのもとに身を寄せボワセから近時の出来事をまとめたパンフレット『魔法のランタンか貴族の天罰か』の執筆を依頼された。この本が彼のパンフレット作家としてのデビュー作となった。

新聞『デュシェーヌ親父』の編集者

18世紀に生まれたデュシェーヌ親父、虐待や不正を非難することに熱心な庶民を代表する典型的人物とされた

1790年に新聞『デュシェーヌ親父』を創刊。「脳なし」「野郎」などの[4]意図的に俗な筆致[5]が受け、こういった新聞・パンフレットが流行するきっかけを作った[4]。この俗気が強いスタイルは「重要な真理を、自分たち特有の表現で表現しなければ理解できないような、教育水準の低い層の人々にも親しみやすい存在になりたい」と考えたためのものだったが、デジュネットによれば「彼の趣味にも習慣にも合わなかった」という。

当初、『デュシェーヌ親父』はルイ16世を支持していたが、ヴァレンヌ事件をきっかけとして国王やマリー・アントワネットを批判するようになった[5]。1792年に起きた8月10日事件の蜂起コミューンではボンヌ=ヌーヴェル・セクション(現在のパリ第二区北東部)に参加し、後にレ・アルの代表委員、コミューン総代代理となる[4]。1793年のジロンド派追放に至る事件においては、ライバルを攻撃することで不利な立場からの回復を図ったジロンド派[6]によってヴァルレフランス語版)とともに5月24日逮捕されるも[注釈 2]、翌日パリコミューン国民公会に彼らの釈放を要求している。しかしジロンド派だった議長が拒否し、ブリソによるパリのコミューン廃止・ジャコバン・クラブの閉鎖を訴えるパンフレットの発表を経て、26日マラーはジャコバン・クラブにてジロンド派への蜂起を訴え、これにロベスピエールも同調した。27日、国民公会の議場にサン=キュロットが押しかけた際、ジロンド派が退席した隙に山岳派はエベールらの釈放などを決定している[7]。その後、エベールは仲間たちと共にエベール派を結成した[4]。また、同じ年には元修道女のマリー・グピルという女性と結婚している[3]

7月13日、議員であり過激な政治的主張でサン=キュロットの支持を得ていたマラーが暗殺されると、議会と民衆の接点が失われ、人々は危機感を煽られた[8]。民衆運動の指導者たちはマラーを継ぐ立場を目指し、これに成功したのがコミューンを足場に活動していたエベールであった[9]。マラー暗殺後、エベールは『デュシェーヌ親父』の中で暴力的な革命のレトリックを強く擁護し、聖職者・貴族・金持ちに対する攻撃を激化させていく[3]。この1793年夏頃までがエベール派の絶頂期となった[10]

革命の激化

カルナヴァレ美術館に所蔵されているエベールのスケッチ、画家ガブリエル(フランス語版)作

食糧不足が生じ対外戦争と内戦が激化する中[11]、9月4日、エベール派は食糧を要求するため国民公会に侵入するようパリの民衆に呼びかけた[4]。翌日、エベール派の指導者が率いるサン=キュロットが国民公会に押し寄せ、この時の要求を受け入れるかたちで国民公会は革命軍の設置や反革命容疑者法の制定といった措置をとっている[12]。9月はエベール派が政治的な力を強くした時期でもあり、パッシュは市長に、ショメットは主任検事に、エベールがその副官に、ヴァンサンは陸軍省で総書記に就いた[13]。10日10日、主導権を握るようになっていった議会は対外戦争や内乱、人民主権と直接民主制に関する民衆運動といった問題に対応するため、サン=ジュストの提案に基づきフランス政府は平和の到来まで革命的であることが宣言された[14]。これによって国民公会は中央集権体制をしき、非常事態が続く限り公安委員会保安委員会が国民公会を代行することになった[15]

1793年秋から翌年春にかけて、知識人の反宗教感情と国民一般の反教権主義が結びついた結果、聖職者を国に仕える公務員と見做す聖職者民事基本法に反発した聖職者(宣誓拒否聖職者)を攻撃対象とした非キリスト教化運動が活発になった[16]。エベール派が開始し、詩人ファーブル・デグランディーヌ英語版)が考案した共和暦[17]キリスト教の影響を排除する目的があった[18]。非キリスト教化運動を主導したのはエベール派であり、11月10日にはノートルダム寺院にて非宗教的・合理主義的な理性の祭典が行われ、これはパリのサン=キュロットといった下からの運動における頂点となった[注釈 3][注釈 4][19]。またエベールは、元王妃の裁判にて彼女が息子と近親相姦したという噂に基づく非難を行った[20]。 

汚職事件


1793年10月、フランス東インド会社清算をめぐる大規模な汚職事件(東インド会社事件)が発覚すると、これに関与していたエベール派やダントン派の議員たちが次々と告発され、その中にエベールの姿もあった[注釈 5][21]。12月5日、デムーランは編集した新聞『ヴィユー・コルドリエ』においてエベール派を非難したが、翌年1月4日ではエベールが陸軍大臣から12万リーヴルの俸給を受け取った、エベールがマラーを迫害した、囚人を解放するかわりに金を受け取った等の批判を掲載した。他方、12月6日、フィリポーフランス語版)によって『公安委員会への手紙』が書かれ、その中にはヴァンデの戦争に関する批判、つまるところ陸軍省の総書記だったヴァンサンやヴァンデで将軍として指揮していたロンサンといったエベール派への批判が含まれた[注釈 6][10]

1793年頃のコルドリエ・クラブ

こういったエベールと金銭に関する話は、エベール派の人気を大きく下げ、彼らをダントン側に傾けた。エベールが成り上がりのような言動をとっている、という話はさまざまな陰謀と結び付けられ、1794年1月15日、元王妃を監獄から救出しようとしたという陰謀にエベールやショメットらが関わっていたという噂が流れた。これに加担したとしてダントン派の名前もあがっており、彼らもまた汚職事件で逮捕されていた人びとだった。陰謀に関する非難は議会からも飛んだ[10]。12月25日、ロベスピエールが公安委員会を代表して演説を行いエベール派とダントン派を批判した[22]

1794年3月2日、エベール派のロンサンフランス語版)がコルドリエ・クラブで蜂起を呼びかけ、4日にはモモロフランス語版)とヴァンサンがエベールの弱腰を批判した。これを受けてエベールはダントン派やロベスピエール派の共謀関係を批判し蜂起を唱えたが、結局民衆は動かなかった。5日、パリのコミューンはコルドリエ・クラブに従うことを拒否し、国民司令官アンリオ(フランス語版)も蜂起に反対する[23]。3月7日の会合で、エベールは蜂起という言葉は団結という意味で使用したと口にしたが、これを民衆はエベールが蜂起を訴えておきながら世論の賛同を得られなかったため言い逃れをしていると受け止めた[10]。13日にはサン=ジュストが「マラーは一人しかいない。彼の後継者たちは、彼を赤面させる偽善者だ」と述べ、エベールを主な対象として攻撃した[23]

処刑台へと向かう荷車に載せられているエベール。ドゥノン

エベール派の最期

同日の晩、エベール、ヴァンサン、モモロ、ロンサンといったエベール派の指導者たちが逮捕される[23]。逮捕直後はエベール派を擁護する声も聞こえたものの、多くの人々は彼らが逮捕されたのは罪を犯して自分たちを裏切ったからであると考え、逮捕に異議を唱えずむしろ怒りを表明した。さらにエベールを信頼していた民衆は多かったことから、その感情は反転し彼は特に非難される人物となった[注釈 7][10]。21日に裁判にかけられた際、被告の中には外国人の銀行家・実業家なども含まれていた。彼らはエベール派というひとつの政党としてではなく、汚職事件に関与したとして裁かれたのだった。24日、ほぼ全員が有罪判決を受けた[23]

快晴だった24日の午後4時半から革命広場にて処刑が行われ、同志とともにギロチンにより、当日処刑された19人中、午後5時15分、一番最後に首を刎ねられた。首が刎ねられた際は広場の群衆が一斉に「共和国万歳」と叫んで手を叩き、熱狂のあまり帽子を放り投げる者もいた。処刑時の住所はクール・デ・ミラクル在住だった。エベールの妻グピルも、エベールの処刑から約1か月後の4月13日午後7時に同広場にて処刑されている[24]

エベール派の処刑によって様々な措置が取られ、4月16日から3週間の間でパリにある37の民衆協会(全体の4分の3)が、革命政府の一体性を脅かすとして閉鎖された[25]。エベールの支持者であり女性市民協会のメンバーだった人々からも2名の逮捕者が出た[26]。エベール派逮捕によってパリの民衆は人間不信に陥り、その信頼はエベールといった個人から国民公会といった制度に移行していった。こうして出来た革命政府とサン=キュロットの精神的結合は、後のテルミドール9日のクーデターにおける民衆の反応に続いてゆく[10]

遺体はマドレーヌ墓地フランス語版に埋葬されたが、後に墓地の閉鎖に伴って、遺骨はカタコンブ・ド・パリに移送されている。

脚注

参考文献

関連項目

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