ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ
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ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ (Jacques Nicolas Billaud-Varenne, 1756年4月23日 - 1819年6月3日) はフランス革命の指導者。
ジャーナリストのデムーランは彼を「清廉なる愛国者」と呼んだ[1]。共和暦2年(1793年から94年)は立法権中心性の名において国民公会の権力が強化された時期だが、ビヨー=ヴァレンヌはその方向性を明示した人物である[2]。
パンフレットを制作するなどして革命に携わっていた彼は、議員となった後は山岳派に所属し、公安委員会の一員として活躍した。ロベスピエールおよびサン=ジュストを補佐していたが、テルミドール9日のクーデターでは反ロベスピエール派の勝利を側面から援助した。クーデター後、友人であるコロー・デルボワらと共に断罪され、ギアナのカイエンヌへと流刑になった[3]。その後は彼が簒奪者と認識したナポレオンによる恩赦を拒否し、ハイチのポルトープランスで没した[1]。
山岳派の議員として優れた功績を残したが[1]、歴史家ミシェル・ヴォヴェルはビヨー=ヴァレンヌを「革命期の中心的段階における最も有名でありながら最も知られていない人物の一人」と評した[4]。なお、本人はギアナへの追放後、自身について「後世の人々が私を正当に評価するはずがない。私には、もっと多くの功績と栄光がある」と述べた[1]。
革命前
西部フランスにある港湾都市ラ・ロシェル出身。祖父と父は弁護士であり、長男であるビヨー=ヴァレンヌはしかるべき教育を受け同じ職業に就くことが望まれた。学業に関し非常に優秀だった彼は[5]、ニオールの学校で教育を受け、1782年にオラトリオに入学し、翌年9月5日次にはジュイイ学院(フランス語版)に進んだ。そこで寄宿学校の監督生を務め、一教室を監督した。その後、パリで弁護士となり、1786年9月12日には徴税請負人の娘と結婚している。
革命没発
アンシャン・レジーム末期から、ビヨー=ヴァレンヌは聖職者、貴族、憲法制定国民議会に反対する愛国的なパンフレットを出版して頭角を現していた[1]。1790年にジャコバン・クラブに加入。
ヴァレンヌ事件は、ビヨー=ヴァレンヌにも根底からの路線変更を強いた。事件が起きた直後、『無頭政』と題された王権批判のパンフレットを出版し、首領なき権力に立脚した「連邦政府」の構想を提示している[6]。

1791年、ジロンド派によって開戦が提示された際には、ビヨー=ヴァレンヌは「戦争は武器製造業者にしか利益をもたらさない。戦争は国内産業の振興にしか役立たない。政治的には、戦争は行政府、つまり国王の大臣にしか利益をもたらさない。いざ戦闘になった場合、軍の指揮権を行政府に委ねるなど、我々は正気を失っているのではないか」等と述べて戦争に反対した[1]。
やがてブラウンツヴァイクの宣言によってルイ16世が外国軍と通じていることが明るみに出ると[7]、1792年8月10日テュイルリー宮殿襲撃事件が起こる。ビヨー=ヴァレンヌは国王の廃位を推進する立場として人々の先頭に立った。九月虐殺についてはこの一件を正当化したためしばしば批判を受けた[1]。また、テュイルリー宮殿襲撃事件後はパリコミューンの一因となり助役に任じられ、国王死刑に賛成した。
9月21日、新たに国民公会が召集されると、その最初の会合で「王政はフランスにおいて廃止される」と宣言され、翌日、ビヨー=ヴァレンヌは以降の公文書にはフランス共和国元年として日付が記載されることを提案し、これが決定された[8]。その後、不利な立場に陥ったジロンド派はライバルの攻撃に活路を見い出そうとし[9]、パリコミューンを監視するための十二人委員会を設置しようとした[10]。ビヨー=ヴァレンヌは十二人委員会設置に反対し、ジロンド派を非難して起訴状を制作してジロンド派逮捕に荷担した。
ジロンド派逮捕後、ビヨー=ヴァレンヌはジロンド派を滅ぼす措置を国民公会に強く促す提案をしたが、この時は結果として国民の代表者たちを分裂させる恐れがあるという理由でロベスピエールに反対されている[11]。地方に逃れたジロンド派議員は連邦主義の反乱(フランス語版)を起こし[12]、これをきっかけとして軍港トゥーロンは王政派の影響下に入ると港はイギリスとスペインの艦隊に引き渡された。公安委員会はこの事態を秘密にし、国民公会に報告しなかったのだが、9月2日、エベール派だったビヨー=ヴァレンヌはこの件で公安委員会を批判した。5日にはエベール派のコミューン指導者に率いられたサン=キュロットが国民公会に押し寄せた。その際、国民公会はビヨー=ヴァレンヌとコロー=デルボワを公安委員会の委員として迎えるなどして対処した[13]。
公安委員会

1793年、『共和国の原理』を執筆し、「ひとえに平等と人民主権によって強固にされる公共の幸福を保障すべき原理」について論じた。この時期の公衆の関心は、いかにして共和国を基礎づけるべきかという問題に向けられており、ビヨー=ヴァレンヌの意向は忠実なまでに当時の政治的議論に則したものといえた[14]。また、第二編では、「良い政府を打ち立てるためには、人間を、その本性、使命、発達、関係、権利および義務に基づいて分析しなければならない」と記している[15]。当初の計画では、この著書は全三部で構築され、最初の二部を原理の説明に割き、最終部でこれらの原理をいかにして現実に適用させるか、そしてそこから帰結する政府の概要について記される予定だったが、執筆は途中で破棄された[14]。
11月18日、ビヨー=ヴァレンヌはフリメール14日法(フランス語版)の原案を議会に報告した[16]。これは革命政府の原理を定めたものであり、法律の解釈権は国民公会のみが持ち、国民公会以外の組織や個人が、法の解釈や補足の名のもとに独自の布告や命令は出せないこと。地方の革命軍や県革命裁判所は廃止されること。派遣議員は公安委員会の強い監督下に入ることなどが定められ、行政機構の整備と委員会の権力強化が進められた[17]。11月29日、ビヨー=ヴァレンヌとバレール(フランス語版)は中央集権化の仕組みを説明・確認した。彼らは「国民公会のみが統治を行う。…公安委員会は公会が動かす腕なのであって、われわれは政府ではない」と述べて、権力の粋組みを断固とした姿勢で定義した。当時、パリあるいはフランス南東部のサン=キュロットたちは、民衆結社を連合した組織を軸に、無制限の権限をもっていた派遣議員と同じような、国民公会に対する対抗権力を創出しようとしていた[18]。12月4日(フリメール14日)、「国民公会は統治体を動かす推進力の、唯一の中心である」として、革命政府が法令によって発令された。これは民主主義の一時停止だったのであり、例外体制である恐怖政治の樹立でもあったが、戦争や内乱などでも混乱していたフランスを治めるため、ビヨー=ヴァレンヌが主に設計した原理が是非とも必要とされたのだった[19]。
ビヨー=ヴァレンヌはダントン派処刑にも自ら介入しており、ダントンの逮捕を最初に提案した人物だった。その後も幾度となくこの提案の責任を自分で主張している[1]。エベール派については、ビヨー=ヴァレンヌもコロー・デルボワもエベール派追放が自分たちにもたらす結果を恐れて厳しいスタンスを変えなかった[20]。
テルミドール9日のクーデター
やがて各戦線でフランス軍が勝利を収め、戦争に関する危機感が薄らぐと、革命政府内部での対立が表面化しはじめた。元々エベール派に近い立場だったビヨー=ヴァレンヌとコロー・デルボワも[21]、3月24日に起きたエベール派処刑に関して[22]ロベスピエール派に不快感を持っており[23]、またエベール派やフーシェと繋がりがあったため自分たちが攻撃の的になっていると感じていた[24]。1794年6月29日、自称預言者でロベスピエールを神聖な使命を帯びた存在であるとするカトリーヌ・テオ(英語版)という女性が問題となり[25]、不利な立場となったロベスピエールは公安委員会にて彼女への追及をやめさせようとした。そのために革命裁判所検事フーキエ=タンヴィルの辞任を要求したことから口論となり、ビヨー=ヴァレンヌ、コロー・デルボワ、カルノーはロベスピエールとサン=ジュストを独裁者となじった[26]。一方で、バレールやサン=ジュストが仲介人となったロベスピエールとの和解の試みに参加しており、「私たちはあなたの友人だ。私たちは常に共に歩んできた」とも述べている[1]。
しかしロベスピエールが頑なだったため、この試みは失敗に終わった[27]。ジャコバン・クラブから追放されていたビヨー=ヴァレンヌとコロー・デルボワは、クーデターの計画を立てたフーシェやタリアンと合流した[28]。7月27日、テルミドール9日のクーデターが起きロベスピエール派は失脚・処刑された[27]。クーデター当日、ビヨー=ヴァレンヌはサン=ジュストを演壇から立ち去らせ、「昨日、革命裁判所所長(デュマ、フランス語版)がジャコバン・クラブにおいて、不純な人間すべてを、すなわち犠牲として殺したがっている相手すべてを公会から放逐することを公然と提案した。しかし人民がそこにいるのであり、愛国者は自由を守るために死ぬことができる」「われわれの足元には深淵が口を開けている。われわれは、それをわれわれの死骸で埋めることを、さもなければ裏切り者に勝利することを躊躇してはならない」と述べた[29]。そしてロベスピエールに向かい、「自分の思い通りにならなくなったからといって、ロベスピエールは、公安委員会から遠ざかった」「常に特について語りながら、その実、彼は犯罪を擁護していたのだ。…1人の暴君のもとで生きたいと望む人民の代表者など1人もいない」と告発した[30]。

その後、クーデターを起こしたテルミドール派が実権を握り、委員会改選でビヨー=ヴァレンヌ、コロー・デルボワ、バレールは公安委員会から外され、彼らの影響力は弱まった[31]。9月1日、テルミドール派との妥協を拒否したビヨー=ヴァレンヌは委員会を辞任し、反動に抵抗・攻撃したが[1]、2月26日、公安委員会全体の責任が追及された。翌日、国民公会は公安委員会の委員だったビヨー=ヴァレンヌ、コロー・デルボワ、バレール、そして保安委員会のヴァディエ(フランス語版)を告発した。彼らは「四人組」と呼ばれて恐怖政治のシンボルのような扱いを受けた[32]。
後に、ビヨー=ヴァレンヌはこの時の出来事について次のように語った。「我々はあの日について全く間違っていた!」「繰り返すが、ピューリタン革命はテルミドール9日に失敗した。それ以来、私は怒りにまかせて行動したことを何度後悔したことか!…テルミドール9日を引き起こした反応を見たが、それは恐ろしいものだった。あらゆるところから中傷が飛び交った。それは多くの革命を阻むのだ」「そうだ、ダントンが処刑されたジェルミナル14日とテルミドール9日、愛国者たちがすべてを破滅させる二つの過ちを犯したのだ」「ダントン、ロベスピエール、カミーユ(デムーラン)が護民官席の下で団結していたら、ブリュメール18日の事件は起こらなかったと私は 固く信じている」[4]。
逮捕
1795年4月1日、1793年憲法の実施と飢饉対策、拘束されている革命派の釈放を要求してパリの民衆は国民公会に押し寄せた。翌日も騒乱は続いたが、サン=キュロット運動の主要な指導者は1794年に逮捕・処刑されていたため、経験を積んだリーダーの不在もあり民衆は何の成果も得られなかった(ジェルミナルの蜂起)[33]。蜂起が失敗に終わると右派の影響力が一時的に高まり、四人組は正規の裁判の手続きを省略して南米ギアナへの流刑が1日のうちに決定された。ヴァディエは姿をくらませていたため元から逮捕されておらず、バレールは護送の途中で脱出に成功し南フランスに潜伏したため、実際にギアナに送られたのはビヨー=ヴァレンヌとコロー・デルボワの2人だった[34]。約50人の代表者が手続きを送らせようと試みて、指名点呼による投票を要求したが、実現しなかった。革命裁判所が使われなかった理由としては、民衆運動に対する恐怖や、この裁判所自体が廃止の方向性にあり、国民公会は革命裁判所の行き過ぎを告発したところだったため、この場所を使うことを嫌ったことが挙げられる[35]。
流刑地
当時、流刑は「乾いたギロチン」と呼ばれていたが、ビヨー=ヴァレンヌはギアナを「酷熱地帯のシベリア」と名付けた[36]。自身の回想録で、彼はギアナを「何と、彼ら自身(ビヨー=ヴァレンヌらを追放した敵たち)が無知であったことか、この地方に私を追放すれば、この地方は、悪臭を放つ沼沢地にもっぱら覆われ、虎や蛇が生息しているので、恐ろしい所に滞在することになる、と彼らは思いこんだのだ! ところが反対に、見事であるとともに惜しみない自然がこれらの地において見せている驚くべき景観ほど崇高なものはあろうか!」[37]。しかし、フリュクティドール18日のクーデター後、ビヨー=ヴァレンヌの元同僚が数名、王党派として逮捕されギアナへ流刑となり、その内2名の元山岳派がこの地で死亡している[38]。その内の1人はこの地について、苛酷な気候は人体を厳しい試練にさらし、発熱、嘔吐、下痢を引き起こしたと伝えている。特に高い湿度は、受刑者の日常生活に常に悪影響を及ぼし、すべてにカビが生え、砂糖は溶けてしまったという。日光の不足と通風の欠如によって家屋内の湿度は上昇し、雨がほぼ絶え間なく降るのも彼らの健康を脅かした[39]。
1797年1月18日、ビヨー=ヴァレンヌの妻は、裕福なアメリカ人船主と再婚するために同年離婚した。それを彼が知ったのは1801年12月であり、この事はビヨー=ヴァレンヌを深く傷つけその後も彼女を許すことはなかった[4]。
流刑地では「彼らが互いに連絡をとることも、逃亡することも、彼らが近づきになった人々に影響を与えることもできないようにし、やるべき仕事と植民地の日常の労働に従事することができるように、彼らを監視することを、これらの部署の指揮官たちに強く求める」とされていたが[40]、ビヨー=ヴァレンヌとコロー・デルボワはカイエンヌの病院で再会した。悪性の熱病に見舞われたコロー・デルボワは、ビヨー=ヴァレンヌのすぐそばにあるベッドで亡くなるが、コロー・デルボワの衣服は本人の意向によってビヨー=ヴァレンヌに渡された。革命期にギアナに移送された囚人は330名以上にのぼり、内半分以上にあたる179名が流刑地で死亡したと言われている[41]。
ビヨー=ヴァレンヌは当初、地元住民の農場を管理し、それを発展させ、所有者の死後相続を行った。数人の黒人が彼の監督下で暮らし、彼らの世話をして暮らした。彼の農園は、当時イギリス=ポルトガルの支配下にあった島で最もよく耕作されていた農園の一つであった。しばらくして彼は、ブリジット(愛称ヴィルジニー)(フランス語版)という黒人女性と結婚した[4]。ブリュメール18日のクーデター後、ナポレオンの政府を容認せずに恩赦を拒否し、フランスへの帰国を拒んだ[1]。1815年に植民地がフランスの支配下に戻ると、ビヨー=ヴァレンヌは財産を安値で売却し、貿易手形で小金を稼いだ後、ニューヨークへと旅立った。しかし、英語が話せなかったこと、金銭面での問題などから、彼が居住地を定めたいと考えていたアメリカ合衆国に留まることはできなかった[4]。

最期
ハイチの首都ポルトープランスに辿り着いた頃には、わずかな貯金も底をついていた。ビヨー=ヴァレンヌはアレクサンドル・ペシオン大統領に窮状を打ち明け、彼からいくらかの金銭を受け取った。その後、町で小屋と数区画の土地を購入し、妻と共にそこに定住を決めた。ハイチ共和国はビヨー=ヴァレンヌに島の革命に関する歴史書の執筆を依頼し、彼はこの任務を引き受け、同時に民法に関する法律相談も行った。これらの相談には報酬が支払われた[4]。
1819年6月13日、ビヨー=ヴァレンヌは赤痢のため亡くなった。彼はせん妄状態で息を引き取ったが、自らの人生の有用性と無私無欲を誇りにしながら死ぬだろうと告白した。「 少なくとも私の骨は自由を望む地に安らぎを得るだろう。だが、ヨーロッパの暴君たちの血を惜しみすぎたと、後世の人々が私を責める声が聞こえるのだ」[4]。
全財産は妻ヴィルジニーに寄贈された。「私は、この余剰金を、その価値に関わらず、この正直な娘に捧げる。18年以上もの間、私に尽くしてくれた多大なる貢献への報いであると同時に、私がどこへ行ってもついてくるという彼女の揺るぎない愛情の新たな、そして最も完全な証拠を認めるためでもある」。
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- ↑ ビアール2023、P.22
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参考文献
- 山﨑耕一『フランス革命「共和国の誕生」』刀水書房、2018年10月。ISBN 978-4-88708-443-8。
- 山﨑耕一『シィエスのフランス革命「過激中道派」の誕生』NHK出版、2023年9月。ISBN 4140912812
- ミシェル・ビアール(フランス語版)『自決と粛清 フランス革命における死の政治文化』2023年2月、ISBN 978-4865783780
- 松浦義弘、山崎耕一 他「東アジアから見たフランス革命」2021年3月、ISBN 978-4759923728。
- ピーター・マクフィー(英語版) 著、高橋暁生 訳『ロベスピエール』白水社、2017年2月、ISBN 978-4560095355
- ジャン=クレマン・マルタン(フランス語版)『ロベスピエール 創られた怪物』法政大学出版局、2024年、ISBN 978-4588011733