テルミドール9日のクーデター
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テルミドール9日のクーデター (テルミドールここのかのクーデター、Coup d'état du 9 Thermidor) は、1794年7月27日(フランス革命暦II年テルミドール9日)に起きた、マクシミリアン・ロベスピエールを中心としたロベスピエール派に対立する勢力によるクーデターである。
| テルミドール9日のクーデター | |
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マクシミリアン・ロベスピエールの逮捕(ジャン=ジョゼフ=フランソワ・タサール作) | |
| 場所 |
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| 標的 | マクシミリアン・ロベスピエールらロベスピエール派 |
| 日付 | 1794年7月27日 |
| 概要 | ロベスピエール派に対するクーデター。 |
| 死亡者 |
マクシミリアン・ロベスピエール ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト他 |
| 犯人 |
ジョゼフ・フーシェ ポール・バラス ジャン=ランベール・タリアン他 |
「テルミドール9日のクーデタ」、「テルミドールのクーデター」「テルミドール反動」とも言い、フランス語版では「ロベスピエールの失脚」(La chute de Robespierre)」と呼ばれる。テルミドールとは、革命時制定されたフランス革命暦で「熱月」を意味する。
位置づけ
テルミドール9日のクーデターは即興的性格の事件であった。フリメール14日法(フランス語版)によって国民公会と、その内部にある公安・保安委員会が革命政府体制における権力の中心と定められたため、これによって世論が方向づけられ、事件発生の際にセクションの各組織を国民公会の支持へと反射的に傾かせた[1]。
かつてはロベスピエール派の独裁に反感を抱いた者たちによるクーデターとされた[2]。これを研究されつくした事件ととらえる歴史家も存在し[3]、フュレといった修正史学は当時のフランス革命像を糾弾したが、テルミドール9日のクーデターに関しては異議を唱えず従来の説をそのまま採用した[4]。このように既に定着していたイメージによって、クーデターを起こしたテルミドール派が「暴君」を倒したとして自らを正当化したといった側面が覆い隠された側面があるものの、近年では事件への見解が解釈し直されつつある[2][4][3]。
テルミドール9日のクーデターは後世の歴史において、フランス革命を象徴する事件として多くの人々に言及されてきた。ロシア革命においてトロツキーとその仲間たちは、スターリンの権力への上昇を理解するために「テルミドール」に言及し、スターリン派を「新しいテルミドール派」と形容した[3]。レーニンは十月革命の初期から、誰が「テルミドール」を組織するのか予測しようと努めていた[4]。
歴史学者の松浦義弘曰く、ロシア革命に限らず、19世紀と20世紀における革命はいずれも、歴史の流れを裏切り、夢と約束を果たす前に革命を窒息させた「テルミドール」の亡霊につきまとわれてきた。「テルミドール」とは、フランス革命以後の革命が自らの中にけっして見たくない負のイメージを送り続ける鏡のようなものであった[3]。
背景

1793年夏
フランス革命戦争の開始以来、海外からの食糧輸入は途絶えていた。連邦主義の反乱(フランス語版)やヴァンデの反乱といった内乱もありパンが十分に運ばれてこない中、軍には優先的に食糧を回さなくてはならず、一方でアシニア紙幣の価値も下がり続けた[5]。そして7月13日に起きたシャルロット・コルデーによるマラー暗殺によって革命が脅かされていると受け止めた人々は、山岳派が指導する議会を守ることで団結しようとした。この「祖国と革命が脅かされている」という不安と危機感は、革命政府の形成と恐怖政治といわれる時期の遠因となる[6]。
1793年夏・秋には国内の反乱、対外戦争、人民主権と直接民主制に拠る民衆運動および国民主権と代表制に拠る国民公会という二重の正統性の問題があった。しかし、国民公会と公安委員会の努力は少しずつ効果を現わしており、すべての局面において議会が主導権を握り始めていた。そうした状況を一歩押し進めたのが、10月10日にサン=ジュストの提案に基づき国民公会が宣言した「革命政府の宣言」である。1793年憲法が平和の到来まで施行されないことが明言され、市民が政治をチェックするという憲法で保障された権利を排除するとともに、直接民主制を否定し、国民代表である議会が立法権と執行権の双方を担うことが宣言された[7]。

シンボル的には、9月5日に国民公会に押し掛けたサン=キュロットが「恐怖を通常状態に」と要求し、これが恐怖政治の開始を告げたとされることがある[8]。実際には、恐怖政治のように共同体防衛の慣行や迅速な裁判による処罰および政治的暴力を行使することは1789年以前の君主政にもよく見られた事だった[9]。革命期においてもいわゆる恐怖政治的な動きはバスティーユ襲撃、ヴァレンヌ事件、シャン=ド=マルスの虐殺、九月虐殺などにも見られ、また、恐怖政治と呼ばれる時期に重要な役割を果たす派遣議員や革命裁判所、地方ごとの監視委員会などは同年3月に作られた制度だった。1793年夏からの1年間だけを別扱いし「恐怖政治という政治が行われた特別な時期」とする理由は特にない[10]。「恐怖」は国民公会の議事日程には設定されていなかったのであり、反革命容疑者が裁判なしに処刑されうることも認めていなかった[11]。
恐怖に立脚した政治統治体制は何ひとつ設けられていなかったが[12]、どのような犠牲を払ってでも領土を防衛すること、そして都市および軍隊に食糧等を補給することが最優先課題だった派遣議員の大多数は[12]、後世の歴史家が言うところの「穏やかな恐怖政治」[13][14]を行った。彼らは1794年2月から3月まではローカル・レベルのサン=キュロットの助けを借りつつ、徴用・徴発を行い、きわめて富裕な人たちから徴税し、宣誓拒否司祭および貴族をはじめとして裏切者や反対派を処罰した。派遣議員の中には、公安委員会の支持を無視する者も一部いた[15]。こうした人々が何の歯止めもなく行動しえた場所のみ、戦闘が最も激しかった局面において、統率の利かない弾圧が猛威を振るったのだった。その数は多くなかったものの、後に同時代人や後世の人々の関心を集中させることとなる[12]。

フリメール14日法
一方、1793年11月8日、ビョー=ヴァレンヌによってフリメール14日法(フランス語版)の原案が議会に報告された[16]。これにより、国民公会とその内部にある公安委員会・保安委員会は、革命政府体制の中心と明確に定められた。以後、革命軍の兵士や人民協会の活動家といった人々の間には、国民公会らのもとに結集しなければならないという意識が芽生える[17]。こうして「革命的統治体」の存在が確認された[18]。
この統治体は恐怖政治の続きでも、公安委員会による独裁でもなかった。1793年憲法は一時停止されたものの、人権宣言は革命を安定させようとする政治の基盤であり続けていた。人民と国民が、公認の暴力を唯一保持する「革命的統治体」という正当な権力の作用を受けて結びついたのだった。フランスは、政治的正当性の代わりをしていた感情的な興奮状態も、専制的な国家装置支配もいっさい拒否することによって、自分たちの活動を正義の中に組み込もうとする国民公会議員の意思に照応していた[19]。しかし、国家機構が実質的に機能し始めたわけではなかった。この頃、ダントン派とエベール派の争いのために一時的に国民公会の統率力が弱まり、全国の混乱はかえって深刻化していた[20]。
ロベスピエールは2月5日の演説で、「徳なき恐怖は悲惨であり、恐怖なき徳は無力である」と発言する[21]。徳と恐怖を結び合わせ、後者を前者に従属させる必要性を強調した。正統性を有していて、正義を施す国民公会を軸に集結しなければならない、というのだった。エベールも、パリのセクションの大部分も、慎重に体制への忠誠を守り、発言を国防に限定した[22]。
東インド会社の清算に対する大がかりな横領・汚職事件「外国人の陰謀」[23]は半年近く続いた後、両派の処刑というかたちで決着し、政府委員会は腐敗分子の粛清に成功した[24]。民衆運動のリーダーであったエベール派処刑によって彼らに裏切られたと感じた民衆は極度の人間不信に陥り、これを契機として彼らの信頼はエベールやエベール派といった個人・徒党から国民公会や公安・保安委員会へと大きく移行する[25]。
やがて命令不服従や敵前逃亡などを厳しく取り締まる軍への恐怖政治が成果を挙げ[26]、フリュールスでの勝利(フランス語版)などを重ねた結果、ジャコバン派が1793年から1794年にかけてフランス内外の戦乱を収拾する[27]。1794年4月以降、公安委員会と保安委員会を中心とした統治体の中央集権化が、重大な変化を引き起こしていた。組織における競合は、地方でも徐々に弱まっており[28]、派遣先で過酷な弾圧を行った[29]地方派遣議員のジョゼフ・フーシェ、ポール・バラス、ジャン=ランベール・タリアンらはパリに召喚された。反革命派も、以前のような政治的強迫観念ではなくなっていた。こうした均衡回復によって、部隊を国境に振り分けることが可能になったのであり、その方策はフリュールスの戦い(英語版)といった戦闘での勝利によって確認された[30]。政治的なスローガンは以前よりも急進的でなくなり、革命裁判の中央集権化によって処刑件数は低下していた。しかし、講じられた措置の意味を理解できる人々と一般的な人々の間の隔たりは開いており、国民的な一体性の呼びかけにも関わらず、革命的統治体への信頼が徐々に弱まっていた[28]。
4月20日から5月12日における発言の中で、ロベスピエール、ビョー=ヴァレンヌ、バレールは、極貧の人々を扶助すること、道徳的な革命の中でフランス人を結束させること、人々に訴えかける祭典を通じた集合教育計画を提案することで意見の一致を見た。2月26日に「不幸な人たちはこの世の権力者だ」と断言したサン=ジュストと同じように、ロベスピエールも国民を構築し直し、国家の作動を保証することを目指していた[31]。

プレリアル22日法
6月10日にクートンが提出したプレリアル22日法は、「人民の敵」と闘うことを目的とした、裁判手続きの中央集権化と明確化の努力を引きつぐものであった。「ヴァントーズのデクレ」の方針に沿って、反革命的な行為によって明確に確認しうる人物のみを革命裁判所に出頭させるため、被疑者選別を目的とする特別人民法廷の原則を継承しつつ、当時パリのみになっていた革命裁判所に対する公安・保安委員会の統率をさらに強めるものだった[32]。しかし手続きを極端に単純化したがゆえに、その法令は裁判の形態を加速させる危険性をはらんでいるという印象を与えた。さらに何が「人民の敵」となり得るのかの明確な定義について疑問点を残しており、その結果、犯意を考慮に入れることに、また、裁判官が自分の信条にもとづいて判決を下すことになっていた。この法令は、白色帽章あるいは武器を携行していた者すべてを、身許を記録する以外の手続きはせず、24時間以内に処刑するとした1793年3月19日の法の荒っぽさを改めたものだった(もっとも、多くの裁判機関は1793年3月19日の法を厳格には適用していなかった)[33]。
6月11日、マルク=ギヨーム・アレクシス・ヴァディエ(フランス語版)の個人的な反対者たちが処刑された。プレリアル22日法が適用されるのは6月25日であり、革命裁判所は何らかの委員会を通すことなく処刑させたのだった。同日、ロベスピエールは非キリスト教化運動に対してフーシェと激しく衝突し、翌日には議員たちを革命裁判所に送ろうとしたとして非難を浴びた。ロベスピエールはこれを否定したが、タリアンといった何人かの議員は彼を極悪人だと仄めかした[34]。6月15日には、ロベスピエールを神から遣わされた予言者としていた、自称神の母カトリーヌ・テオ(英語版)の逮捕がヴァディエによって発表された。彼女の投獄はロベスピエールの評判を傷つけ、彼は沈黙を余儀なくされた[35]。14日にはロベスピエールに敵対的なエリー・ラコスト(フランス語版)が報告を行い、翌日に54名が処刑された。これらの処刑は、プレリアル22日法が想定した特別人民法廷が機能しないままに、革命裁判所への出廷が激しく増加する口火を切った。一連の流れはロベスピエールに責任があるとされ、彼は反論できなかった[36]。7月14日にロベスピエールはリヨンの反乱におけるフーシェの弾圧を蒸し返しつつ、彼をジャコバン・クラブから追放することに成功したが、フーシェを裁判に付すことには失敗した[37]。

一方、公安委員会は、ロベスピエール派(ロベスピエール、サン=ジュスト、クートン)・戦乱収拾により勢力を拡大した穏健派(ラザール・カルノーなど)と、恐怖政治のさらなる強化を主張する強硬派(ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ、ジャン=マリー・コロー・デルボワなど)に分裂していた。強硬派が公安委員会でロベスピエールとサン=ジュストを独裁者となじったのはこの頃になる。ロベスピエールはサン=ジュストを連れて退出し、これきり公安委員会や国民公会に顔を出さなくなった[38]。それでも被疑者を革命裁判所や処刑台に送るための公安委員会の命令に署名はし続けており、同僚たちと関係を断つことはなく、推進されていた政策をケースバイケースで支持していた[39]。ただしプレリアル22日法の制定後、処刑の数が急増していたが、それに対し主要な役割を演じたのはヴァディエ、バレール(フランス語版)、フーキエ=タンヴィルであった。6月以降、革命裁判所に送致される人物リストを制作する命令への署名に、ロベスピエール、サン=ジュスト、クートンの名は滅多に登場しない[40]。
クーデターの計画
恐怖政治の先鋒としてパリ以上に行き過ぎた弾圧を行っていた地方派遣議員(ジョゼフ・フーシェ、ポール・バラス、ジャン=ランベール・タリアン、ルイ=マリ・スタニスラス・フレロンら)は、ロベスピエールの追及を恐れて先制攻撃を画策する。革命が始まって以来続いてきた心労もあり、この時期のロベスピエールの健康状態は悪化の一途を辿っていた。こうして出来た隙が、彼を倒されるべき存在に仕立てあげる計画を進行させてゆく[41]。

サン=ジュストやバレールは公安委員会と保安委員会の間を取り持とうとし、ロベスピエール自身も7月23日、両委員会の合同会議の第二部に出席した[42]。この措置はプレリアル22日法の精神を尊重しつつ、その実施を可能とするものであり、ロベスピエールとサン=ジュストにとって好ましいものだったが[43]、ロベスピエールはあくまで意見の違いを解消しようとする試みを拒否する[42]。この頃、彼は同僚たちをまったく信用しなくなっていた[43]。そして、サン=ジュストが代償として、国民衛兵隊砲兵部隊のパリ出発に同意したにも関わらず、処刑は一貫したリズムで続いていった[43]。砲兵隊のパリ出発によって、パリの国民衛兵に所属し国民衛兵司令官フランソワ・アンリオ(フランス語wiki)に忠実な兵隊との距離が空いた結果、ロベスピエールと衝突した際にロベスピエール側を支持しかねない武装勢力が弱体化した[44]。
テルミドールの演説

今日知られている7月26日の演説は再構成されたものと判明しており、実際ロベスピエールが何を語ったのかは不明のままである。また、この日から7月28日の公式議事録が作成されたのは1795年10月23日以降のことであり、クーデター以来の国民公会における会期の議事録の2分の1が、1796年にいたるまで、総裁政府(1795年10月27日成立)期の議会(元老会と500人会)の命令に基づき編集者によって書き直されている[45]。
7月26日(テルミドール8日)、久しぶりに国民公会へと姿を現したロベスピエールは「少なくともここ六週間の間、私のいわゆる独裁は、存在するのをやめていたわけだ。政府に対しいかなる種類の影響も及ぼしてはいなかった。…それで、この国は何らか、より幸福になっただろうか」と述べ、自分を敵対視する者たちのスローガンが『これはみな、ロベスピエールの仕業だ』であることに言及しつつ、自分は恐怖政治における処刑の責任者ではないと繰り返し、「私は、自分でそのイメージを描いたこの有徳の共和国を疑ったことがある」と告白した[46]。
更に、サン=ジュストらに諮らないまま「粛清されなければならない議員がいる」と演説する。議員達はその名前を言うように要求したが、ロベスピエールは拒否。攻撃の対象が誰なのかわからない以上、全ての議員が震えあがった。パリのジャコバン派であり保安委員会に所属していたこともあるエティエンヌ=ジャン・パニは「私はロベスピエールを批判する。彼は自分の好きなようにジャコバン派の人間を排除してきた。彼が他の人以上の影響力を行使しないことを望む。そして、彼がわれわれを処刑リストに載せているのかどうか、私の首は彼の作ったリストに載っているのかどうか、彼が述べることを望む」と言った。ロベスピエールの友人アンドレ・デュモンは「君を殺したいと思っている者などいない」「世論を殺そうとしているのは君だ!」と叫んだ[46]。反対派たちの結束はこれで決定的なものとなった。議会が終わるとジャコバン・クラブでも同じ演説を行い、これでバレールが和解を諦め、反ロベスピエール側に立ったことで破局が決まった[47]。ジャコバン・クラブでの演説では、「諸君がいま聞いた演説は私の最後の遺言である」と付け加えられた。
ロベスピエールをスケープゴートとして利用する他、この状況に終止符を打つ方法を誰も思いつかなかったため、こうしてロベスピエールと対立する者は力を合わせざるを得なくなった。ジャコバン派議員のマルク=アントワーヌ・ボド(フランス語版)はのちに、「テルミドール9日は、諸原理をめぐる問題で争ったわけではない。生きるか死ぬかの問題だった。ロベスピエールの死が、必要だったのである」と述べた[48]。
一方、サン=ジュストはこの日、委員会の部屋で翌日の演説草案を書いている。ビョー=ヴァレンヌとコロー・デルボワから、その原稿を見る権利があると言われるも、サン=ジュストは拒否した[49]。
テルミドール9日の始まり

国民公会にて
翌7月27日(テルミドール9日)午前11時、国民公会の会議が始まった。正午ごろ、サン=ジュストがロベスピエールを擁護するため演壇に上がる。「自分は特定の党派など関係ないし、党派争いを望まない。」「彼は十分に明快に、自身について説明をしている。ただ、彼が表舞台からしばらくいなくなっていた事実、そして彼の苦悩に対して、多少の心遣いがあってもよいかもしれない」すると、議事進行上の問題を理由にタリアンから「昨日同じように孤高を気取っていた奴がいたはずだ。暗幕を切り裂け。(暗幕に隠されたロベスピエール派の結託を明らかにせよ。)」と発言を妨害され、サン=ジュストの演説は打ち切られた[50]。妨害を受け、サン=ジュストの草稿は彼自身が議長に何も言わずに手渡しており、その後、処刑されるまでほとんど口を開かなかった[51]。

テュリオが議長席につくと、ビョー=ヴァレンヌが告訴状を読み始め、「今この時、あらゆることが示しているのは、国民公会が虐殺の脅威にさらされているということだ」「自分の思い通りにならなくなったからと言って、ロベスピエールは公安委員会から遠ざかった」「常に特について語りながら、その実、彼は、犯罪を擁護していたのだ。…1人の暴君のもとで生きたいと望む人民の代表者など1人もいない」と述べ、アンリオと国民衛兵のロベスピエール派の将校たちの逮捕を提案した。国民公会の議員たちは「そうだ!そうだ!」と声を上げ、この時、ルバが演壇に登ろうと試み失敗した[50]。

ロベスピエールも演壇に登ろうとするも、何度も野次に声をかき消される内に閉口した。タリアンが「もし国民公会が、悪党にふさわしい正義の裁きを彼に対して下すつもりがないというなら、この暴君を突き刺すための短剣を私は持っている」と宣言し、続いてバレールは「革命政府のかたちが、少し前から、大きく変質させられてしまった」「わざとらしく煽られる不安と真の危険とは、同時に存在しえない。並外れた名望と平等な人間とが、長い間にわたって共存することもできない」と述べた。ヴァディエは「私はこの臆病な暴君に対する告発の政令を要求した最初の人間だ。ロベスピエールを暴君だと信じるのは簡単じゃない。けれど、私はそうだと信じる。彼に対する告発の政令を要求する」とし、ロベスピエールには6人のスパイがいて、彼らは毎日のように国民公会議員たちをつけ回していたと主張し、ロベスピエールが作った報告書を告発のための証拠とした。また、ロベスピエールはあまりに穏健すぎて、陰謀家たちをギロチンから救おうとしていたとも非難している[50]。
ロベスピエールが発言を試みていると、「ダントンの血が喉につかえているんだろう」と野次が飛んだ。最後に彼は「私は死を要求する」と叫んだ。弟のオーギュスタンは「私も死を要求する。私は自由のために死にたいのだ。私の兄が有罪なら、私も有罪だ。我が国のために役立つことをしたかったが、私も罪人どもの手にかかって死ぬことを望む」と言い、こうしてアンリオ、ルネ=フランソワ・デュマ(フランス語wiki)、ロベスピエール寄りの役人に加え、ロベスピエール兄弟、サン=ジュスト、クートン、ルバの逮捕命令へと進む[50]。アンリオが公安・監視委員会へとロベスピエール派の救出に向かったが、彼も逮捕・投獄された[52]。

市庁舎での5人
午後4時頃、ロベスピエールたちは議会決定による処分を受け、憲兵たちによって公会の外に連れ出され、面談文通禁止の下に置かれる。サン=ジュストはエコセ牢獄に送られ、ルバはコンシェルジュリーに行く予定だったが、結局ラ・フォルス牢獄に連行された。オーギュスタンは最初、サン・ラザール牢獄に連れて行かれるも、彼も結局ラ・フォルス牢獄に収監された。ロベスピエールはリュクサンブール牢獄まで護送された際、そこの牢獄管理人は驚き、彼の収容を拒否している[53][54]。
この間、パリのコミューンはロベスピエールたちを救うために動員をかけていた[54]。総会を開いていたパリ・コミューン総評議会は早鐘を打ち鳴らさせ、監獄の所長に対して告訴された人々を受け入れないようにとの指令を与えた[55]。ロベスピエール派は拘束されることなく夜の間に次々と解放され、最終的に市庁舎に集まった[54]。国民公会に対する蜂起が呼びかけられ、囚われていたアンリオは釈放された[52]。
アンリオとパリ市長レスコ=フルリオ(フランス語版)は「共和国を勝利に導いた」者たちを新たな陰謀家たちから守るようパリの人民に呼びかけたが、多くのセクションが対応に戸惑った結果[56]、48あるセクションのうち、市庁舎を国民公会から守るために部隊を送ってきたのは13だけだった。しかしこれは、ロベスピエールたちはその気になれば大きな軍事力を操れたことを意味する。それでも彼らは国民公会に向けて進軍するべきか否か決断できず、動けないでいた。一方、国民公会は議論の続行を宣言し、休憩を挟んだ後、夜7時に会議が再開される。この時、国民公会にロベスピエールらがセクションに対し、軍事的な支援を呼びかけているという情報が飛び込んでくる。国民公会は、彼らを法の外に置くと決定し、十分な軍隊を召集した。午前2時頃、軍が市庁舎に踏み込む。この時には既に、グレーヴ広場にいたセクションからの部隊は解散してしまっていた[54]。

パリの住民は、夜間に編成された武装集団に参加するにあたり、コミューンにつくか国民公会につくかを選択する必要があった。彼らは双方から送り込まれた偵察員から働きかけを受けたが、諸々の統治委員会の命令には背かないように努めていた地域の革命委員会との間に距離を置いていた。そして、「ロベスピエールはクロムウェルの再来らしい」「ルイ16世の娘と結婚し、王位に就こうとしている」「王政主義者になったという話だ」という噂もあって、躊躇いが募っていった。午後遅くにはコミューン(アンリオ)の命令に服した際、ロベスピエールの弟オーギュスタンは公会議員を王党派と非難した。しかし、結局パリの住民は国民公会の側を支持した[58]。フリメール14日法発令の後、国民公会といった組織に対する強い信頼が形成され、国民公会こそが「権力の中心」「唯一の正当な権力」であるという観念が生まれた。これは、国民公会に対する反乱は正当性を持たないものであり、反革命だという考え方を生み出し、ロベスピエール派の側に立ったコミューンにセクションが従わないという結果となった[59]。クーデター発生前から存在した革命政府とサン=キュロットの精神的結合によって、ロベスピエール派が勝利する可能性は最初から限りなく低かったと言える[60]。
法的保護の外

真夜中を過ぎると、国民公会によって法的保護の外に置かれたロベスピエール派は支持を失っていった。市民たちは、国民公会によって保証される合法性に背くことを強く危惧した[58][61]。ルバは二丁のピストルを持っており、その内の一丁を使って自分の頭を撃ち抜き自殺した[62]。午前2時30分、ロベスピエールの顎が打ち砕かれた[63]。オーギュスタンは窓から身を投げ、クートンも傷を負っており、何の動作もした形跡がないのはサン=ジュストだけだった[64]。

議会の決定を重要視してきたロベスピエールは、この時、反抗を民衆に呼びかけるような動きをしたくなかった[65]。自身の住むセクションに向けて蜂起を促す声明に署名しようとして、結局未了のまま終わった署名が今も残されており、そこにはロベスピエールのものと思われる血痕が飛び散っているが、自殺未遂によるものか他者から撃たれたものなのかははっきりしない[62]。のちに准将に昇進したシャルル・アンドレ・メルダは自らが顎を撃ち砕いたと主張している。後に彼は公会でレオナール・ブルトン(フランス語版)によって紹介され、彼がひとりで法益を剥奪された2人(誰を指しているのかは不明)を倒しただけでなく、刀剣をもって抵抗しようとしていたロベスピエールとクートンを逮捕したと語ったが、これは同じく公会でバレールが言った「ルバはピストルの一撃で自殺した。クートンは転落して負傷した。ロベスピエール弟は窓から身を投げた。ロベスピエール兄は自ら傷を負った。サン=ジュストは捕らえられた」という発言と矛盾する[64]。
また、バラスは自身の回想録で「ロベスピエールは、ルバが持っていた二丁のピストルの内の一丁で自分の顎を撃ち抜いていた。ルバはもう一丁のピストルで頭をぶち抜いた状態だった。クートンはテーブルの下に身を隠していた」と述べているが、身体が不自由であったため車椅子で生活していたクートンが自力でテーブルの下に潜り込んだというのは考えにくく、r歴史学者ミシェル・ビアールによれば、クートンを笑いものにする意図があると思われる記述である[66]。
なお、ルバの死体に関する報告書は19世紀の歴史家たちによって確認されているが、現在はどの史料からも失われており、オーギュスタンの怪我についての報告書はまったく見当たらない[66]。
3時30分、ロベスピエールは公安委員会の応接室に移され、5時に保健担当官が保安委員会によって派遣されてきた。この時、場には野次馬が集まってきており、ロベスピエールの右手を持ち上げ顔をのぞきこんだ。ある者は「死んでないぞ、まだ温かいもの」と言い、ある者は「立派な顔の王様じゃないか」、またある者は「仮にこれがカエサルの身体でも、なぜゴミ捨て場に投げ込まれないんだ」と言った[63]。目立つ立ち位置にいたロベスピエールは公安委員会に入った1793年9月頃からそれまで以上に妬みや中傷の対象になっており、彼が独裁者もしくは国王をめざしているという噂が出始め翌年春には一般的なものとなっていたため[67]、野次馬の発言はそれに関係したものと推測される。
ロベスピエール派の最後

翌7月28日の午前11時、ロベスピエールらはコンシェルジュリー牢獄に連行され、死刑宣告を受けた。午後6時、後述する22人を乗せた三台の荷台は、オノレ通りに沿ってデュプレ家の前も通り「なかなか愛くるしい王様じゃないか」「陛下、お苦しいですか」等の言葉を浴びながらギロチンのある革命広場に向かった。デュプレ家の家の壁には牛の血がかけられており、荷台はこの家の前で一時停止している[68]。ロベスピエールの担架の近くを行く死刑囚運搬車の中には、死んだル・バ、重症のオーギュスタンとクートン、半裸の血濡れで片方の眼球は破裂したアンリオが乗っており、無傷なのはサン=ジュストのみだった[69][69]。午後7時30分から処刑が開始され、ロベスピエールが処刑される際、処刑人が彼に巻かれていた包帯を毟り取ったため、下顎が剥がれ落ち、彼は痛みで唸り声をあげた[70]。また、処刑人は麻痺のあるクートンを台に横たわらせるのに苦労し、その助手はアンリオの傷ついたほうの眼球を抜き取ったといわれている[69]。
夕方、彼らの死体はエランシス共同墓地に捨てられ、石灰の層で覆われた[71]。後の道路拡張による墓地の閉鎖に伴って、遺骨はカタコンブ・ド・パリに移送された。
クーデターの翌日である7月29日、パリ市の71人が陰謀を共有したとして処刑され、その次の日も含めるとおよそ100名が処刑となった[72]。
7月28日、ロベスピエール派と共に処刑された人物
- アドリアン=ニコラ・ゴボー:26歳。元代理検事。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- アントワーヌ・ジャンシ:23歳。桶屋。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- アントワーヌ・シモン:58歳。ドーファン看守。パリ自治委員。
- エティエンヌ=ニコラ・ゲラン:52歳。年金生活者(ランテイエ)。在野活動家(モン=ブラン・セクション委員)。
- オーギュスタン・ロベスピエール(小ロベスピエール)
- クリストフ・コシュフェ:60歳。室内装飾商人。パリ自治委員。
- クロード=フランソワ・ド・パイヤン(en):28歳。パリ市第一助役。
- ジャック=ルイ・フレデリク・ウアルメ:29歳。元ワイン商人。パリ自治委員。
- シャルル=ジャック・ブーゴン:57歳。元切手販売店給士。パリ自治委員。
- ジャン=エティエンヌ・フォレスティエ:47歳。製錬業者。パリ自治委員。
- ジャン=クロード・ベルナール:34歳。元司祭。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- ジャン=バティスト・ド・ラヴァレット(en):40歳。元北方軍准将。国民衛兵隊副司令官(大隊長)。
- ジャン=バティスト・フルーリオ=レスコー(en):33歳。ブリュッセル出身。パリ市長。
- ジャン=ベルナール・ダザール:36歳。理髪屋。在野活動家。パリ・コミューン委員。
- ジャン=マリ・ケネ:木材商、パリ自治委員。
- ジョルジュ・クートン
- ドニ=エティエンヌ・ローラン:32歳。パリ市庁職員。在野活動家(マラー・セクション委員)。
- ニコラ=ジョゼフ・ヴィヴィエ:50歳。弁護士。パリ県刑事裁判所判事。ジャコバン・クラブ代表。
- フランソワ・アンリオ(en):32歳。国民衛兵隊司令官。
- マクシミリアン・ロベスピエール
- ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト
- ルネ=フランソワ・デュマ(fr):40歳。革命裁判所所長。
その後
想定外の展開
歴史学者のジャン=クレマン・マルタンによれば、クーデターに巻き込まれ、テルミドール派による事情聴取を受けたパリ住民の多くは、場合によってはロベスピエール派だったかもしれない立場を弁明するため、嘘あるいは言い訳に訴え、投獄や処刑を免れようとした。しかし、彼らの証言は、この時の支離滅裂さと政治的方向の喪失が滲むものだった。この時、革命的群衆は、他のどの時期よりも茫然自失に陥ったのであり、これが彼らを追従的態度に閉じ込め、状態はその後も長く続くこととなる[73]。
バレールは統治体を完全な形で維持するため、クーデターの衝撃を部分的なものに抑えようとしていたが、失敗に終わった。7月29日には国民公会の諸委員会が批判を受けており、公会のメンバーは毎月四分の一ずつ改選されることになった。ジャック=ルイ・ダヴィッドのようにロベスピエール派と見做された人々が一挙に更送された[74]。
バブーフのように投獄され、ビョー=ヴァレンヌとコロー・デルボワに代表されていたサン=キュロット。バレールを代表とする平原派。獄中にいた元ジロンド派といった、さまざまな立場の人間が自分の考えを表明した。結果として生じた政治闘争は、ジャコバン派・国民公会議員・サン=キュロットが対立しあう三つ巴となった。クーデターを起こしたテルミドール派は、統治体の性質を変えることは望んでおらず、彼らにとって脅威となる分派のひとつを排除することのみ望んでいたのだが、情勢は想定外の方向に転んでいった[75]。
「恐怖政治のシステム」
8月28日、タリアンは国民公会にて「恐怖政治のシステム」という概念を主張した。彼によれば、恐怖政治は個々バラバラに行われていたのではなく、ひとつのまとまったシステムだったのであり、その頂点にはロベスピエールが位置していた。すべてはロベスピエールの指示で行われていたのであり、逆らえば自分たちが処刑されるため、システムに取り組まれた人間には拒否する自由がなかった。しかし、こうした在り方に耐えられなくなった人々によってロベスピエールとシステムが打倒された今、システムは消滅し、恐怖政治は無力化されたという話だったこれらを聞く他の議員たちもまた、自らは恐怖政治を行っていなくてもそれを黙認していたことで消極的に協力していた。そのため、恐怖政治の責任はロベスピエールにあるとする主張は彼らにとっても都合のよいものだった[76]。しかし、この物語は変化をいっそう加速させた[77]。
バレールは公安委員会から排除され、これを見てビョー=ヴァレンヌとコロー・デルボワは進行中の物事に荷担することを拒んで辞任した。その代わり、ジャコバン・クラブはタリアンやフロレンを含む人々を除名した。テルミドール9日のクーデターは事実上、諸委員会のメンバーに反対した国民公会議員が行った革命と化していたため、1789年に樹立された議会権力が復活した。諸々の統治員会の権限が削減され、統治面での中央集権体制全体が破壊された。もはやこのクーデターは、単にある分派が別の分派を更送しただけのことではなくなっており、テルミドール派ですら自身らが始動させた仕組みを制御できなくなっていた[78]。
更なる処刑

国民公会に復帰した元ジロンド派議員は、共和暦二年(1793年9月22日から1794年9月21日)のメンバーをはじめとした恐怖政治の責任者たちの逮捕と処罰を要求した[79]。この元ジロンド派が1793年におけるジロンド派から引き継いでいたのは、急進派に対する憎悪と対外戦争の支持のみであった[80]。テルミドール派はカリエひとりをスケープゴートとして事を収めるつもりだったが、そのカリエが12月16日に処刑されても事態は収まらず、同月26日には公安委員会全体の責任が追及された[79]。
翌日、バレール、ビョー=ヴァレンヌ、コロー・デルボワ、ヴァディエが告発される。彼らは「四人組」と呼ばれ、恐怖政治のシンボルのような扱いを受けたが、カリエの時と同様、この4人だけに責任があるわけではなかったため、裁判は慎重に進められた。四人組はその後の処置が決まらないまま、翌年春まで政治的な駆け引きの材料に用いられることになる。他方でネオ・ジャコバンが議会主流派に対抗し、彼らの擁護に努めた[81]。

一方、物価統制の放棄、国営作業場での労働者解雇、殊の外厳しい冬の影響で、自殺の数が増しており、再び街頭での売春が姿を見せていた[82]。3月には国民公会に派遣された代表によってパンの不足が訴えられ、27日には食糧暴動が生じた。そうした動きにネオ・エベール派のサン=キュロットが加わり、問題が政治化される[83]。1793年憲法と最高価格法令にこだわるネオ・エベール派の中でも、コロー・デルボワとビョー=ヴァレンヌを擁する議員の集団は、議場のもっとも高い場所に席を占めていたことから「山頂派」と呼ばれ、最後の山岳派を自任した[84]。理想的な民主主義の憲法とされた1793年憲法を求める動きに、食糧を求める動きが重ねられた。旧山岳派の議員もこれに同調する。こうした動きや雰囲気が積み重なり起きたのが4月1日に起きたジェルミナルの蜂起(フランス語版)である[83]。そのような中で、3月22日には四人組の裁判が、28日にはフーキエ=タンヴィルの裁判がそれぞれ始まった[85]。
ジェルミナルの蜂起が失敗に終わると、右派の影響力が一時的に高まった。四人組は、正規の裁判手続きを省略して、一日でギュイヤンヌへの流刑が決められた。バレールは亡命に成功し、ヴァティエは姿をくらませたため、実際にギュイアンヌへと送られたのはコロー・デルボワとビヨー=ヴァレンヌの2人のみである[86]。ビヨー・ヴァレンヌが『酷熱地帯のシベリア』と名付けたこの地で[87]コロー・デルボワは激しい高熱に見舞われ、この地に到着してから11ヶ月後の1796年6月8日に亡くなった[88]。ビヨー=ヴァレンヌは生き延びたが、ナポレオンが統治するフランスに戻ることを拒否し、後にハイチに移住した。
広まる噂

ロベスピエールの死後、風刺攻撃文書が盛んになり、国中に広まった。公安・保安委員会は、それらの噂のおかげで怪物とされたロベスピエールと袂を分かつこと、また陰謀家とされた人々の犠牲者を装うことが可能となるため、噂を広めることに専念した。かなりの数の人々が、一時はコミューンを支持して行動したことをこうして忘れさせたために処刑を免れた。その中には、事態に対し唖然としていた地方のジャコバン・クラブメンバーも含まれていた[89]。
監獄が開放され、穏健派からなる反革命分子・処刑から守られていたジロンド派議員・サン=キュロットといった人々が釈放される。彼らの考えは一致していなかったが、揃って恐怖政治とロベスピエールを非難した。真実であれ脚色されたものであれ、回想録が流行した。政論家たちへの仕返し、評判を回復するための必要性といった動機から、様々な人間がこのジャンルに身を投じた。代表的な例はメエ・ド・ラ・トゥーシュ(フランス語版)による風刺攻撃文書『ロベスピエールの尻尾(フランス語版)』であり、山岳派と公安・保安委員会のメンバーを批判したものである[90]。
グレゴワールはロベスピエールやサン=キュロットが行ったとするヴァンダリズムという非難を広め、サン=キュロットに対し、財産を損ない、学者を殺害し、無知や粗暴や野蛮によって言葉遣いそのものを荒廃させたとする非難が浴びせられた。グレゴワールは一点一点破壊の目録を作成し、その目録は革命に献上できることを喜んだ無数の協力者によってすぐに膨れ上がった[91]。1791年以来、革命家の一部で行われていた、貴重な物品を政治的な意義とは関係なく保護するための議論は、その意味を失った[92]。この頃、革命裁判長デュマがラボワジェを処刑する際、「われわれにはもう科学者は必要ない」と述べたとされたが、実際にこの言葉が発せられたことはない。しかしこれは後に、フランス革命の残忍性を表す陰口となった[91]。
出版・報道の自由が、爆発的な量の告発出版物の公刊を可能にした。書店にあふれた回想録の中でも、ロラン夫人のものが大きな成功をおさめ、ジャコバン派の非難に荷担した。文芸作品によって失墜したジャコバン派に対する政治的な非難が行われ、派遣議員は残虐非道な人間として記憶に留められることとなった[93]。禁欲的な生活ぶりでよく知られていたロベスピエールも、それとはかけ離れた存在として中傷された[94]。

共和国の勝利
フリュールスでの勝利ののち、フランス共和国は戦勝を重ねていた。1794年末以降、達成されていた軍事的膨張は、ロベスピエールが唱道していた平和政策に反対していた一部議員の見解と一致しただけではなく、国民の存続を保証するものだった。戦いに勝利することを条件に体制を永続的なものとすることができ、国民の豊かさに貢献したのだった[80]。領土拡張が国民公会ほぼ全員の支持を受け、また国民公会は、それまで推進していた防衛戦争政策を放棄した[95]。
1795年以降、対仏大同盟諸国は資金と支援がないために決定的な形で進行できない状態だった。フランスは、戦勝と講和条約によってヨーロッパ諸国から承認された地位や隣国および被征服国との公式な外交関係が結べるようになっていた。軍隊と世論の大部分も、勝利した人民が得られる権利に共鳴し、領土拡張と隣国支配を支持した[96]。