デニス・ポトヴィン
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| デニス・ポトヴィン | |
|---|---|
|
1984年 | |
| 本名 | デニス・チャールズ・ポトヴィン |
| 原語名 | Denis Charles Potvin |
| 生誕 |
1953年10月29日(72歳) |
| 出身地 | オンタリオ州オタワ |
| 身長 | 6 ft 0 in (1.83 m) |
| 体重 | 205 lb (93 kg; 14 st 9 lb) |
| ポジション | ディフェンス |
| シュート | 左打ち |
| 所属したチーム | ニューヨーク・アイランダース |
| 代表 |
|
| NHLドラフト |
1巡目 / 全体1位(1973年) ニューヨーク・アイランダース |
| プロ選手期間 | 1973年 – 1988年 |
| 1991年殿堂入り | |
| 獲得メダル | ||
|---|---|---|
| アイスホッケー | ||
| 世界選手権 | ||
| 1986 モスクワ | ||
| カナダカップ | ||
| 1976 | ||
デニス・ポトヴィン(英語: Denis Potvin, 1953年10月29日 - )は、カナダオンタリオ州バニエ生まれ、オタワ出身のプロアイスホッケー選手。ポジションはディフェンス。
NHLのディフェンスマンとして初めて通算1,000ポイントを達成し、1980年から1983年まで4年連続でスタンレーカップを制覇したニューヨーク・アイランダース王朝の支配的なキャプテンであり、リーグ屈指の選手である。
ポトヴィンは、若い頃にフットボールとアイスホッケーで優れた成績を収めたが、最終的に後者を選び、1968-69シーズンにはオンタリオホッケー協会のオタワ67sに選ばれた。ポトヴィンは5シーズンで329ポイントを挙げる素晴らしいジュニアキャリアを築き、彼は攻撃力に優れたイアン・ターンブルとしばしば組み、ジュニアホッケー界で最も強力なディフェンスコンビの一つを形成した。オタワでの最終年には、リーグのディフェンスマンのシーズン最多記録となる123ポイントを樹立した。
1973年のアマチュアドラフトで注目された1位指名選手としてNHLですぐに存在感を示し、チーム創設2年目のニューヨーク・アイランダースに加入、1973-74シーズンには54ポイントを記録し、シーズン終了時にカルダー記念賞を受賞した。同年から約5年間は兄のジャンと共に同クラブでプレーした。ポトヴィンは急速に成長しつつあるアイランダースのチームリーダーの一人として頭角を現し、わずか3年目でスタンレーカップ準決勝に進出した。
1975-76シーズン終了後、ポトヴィンは初のジェームス・ノリス記念賞を受賞し、ボビー・オアの連続受賞記録を8年で終わらせた。1978年と1979年にもこの栄誉を受け、1978-79年シーズンには計101ポイント、プラス71を記録し、NHL史上2人目の100ポイントを達成したディフェンスマンとなった。
1980年から1983年の間、彼はコーチのアル・アーバー率いるニューヨーク・アイランダースのキャプテンを務め、ブライアン・トロティエ、マイク・ボッシー、クラーク・ギリーズ、ビリー・スミスら将来のホッケーの殿堂入り選手を率いて、NHL史上2チーム目(カナディアンズが2度達成)となるスタンレーカップ4連覇を達成した。1980年のスタンレーカップ決勝の第1戦で自身が決めた延長戦での決勝ゴールは、初優勝に必要な勢いと自信をチームにもたらし、翌ポストシーズンは18試合で25ポイントを記録した。
1984年に5年連続のスタンレーカップ決勝進出を果たし、オイラーズに5試合で敗れたが、ポトヴィンはNHL史上唯一、同じチームを5年連続でスタンレーカップ決勝に導いたキャプテンとして名を残した。
全盛期のポトヴィンは常に最強の一人であり、彼の強烈なヒップチェックを受けた不運なフォワードは多かったが、激しいボディチェックであれ、あるいはパワープレーのクォーターバックであれ、ペナルティキルでゴール裏からバッチ・ゴーリングに意表を突くようなパスを送ったり、単なる攻撃守備だけの選手ではなく、試合の流れを変えることができた。
1986-87シーズンまでキャプテンを務め、1987年4月4日、NHL通算1,000ポイントを達成した初のディフェンスマン、1988年1月14日、NHLで300ゴールを達成した初のディフェンスマンとなった。
34歳で引退するまでに、ポトヴィンは1,060試合で310ゴール、742アシスト、1,052ポイントを記録し、NHL史上最高のディフェンスマンと広く認められているボビー・オアの915ポイントを上回った。彼らが頻繁に対戦したため、ポトヴィンはしばしばオアと比較され、そしてしばしば不当な評価を受けたが、オアはポトヴィンの能力を称賛し、両者が全く異なるチームとシステムでプレーしていたため、比較するのは無意味であると語っている。
国際舞台では1976年と、1981年はキャプテンとして、カナダカップに出場し、1976年のトーナメントでは、アシスト(8)、ポイント(9)、ペナルティ(16分間)でチームトップだった。レギュラーシーズン通算310ゴール、1,052ポイント、プレーオフで56ゴール、164ポイントを記録し、1987-88シーズン終了時に引退した。
人気者のポトヴィンは現役引退後に放送業界に加わり、1993年にはフロリダ・パンサーズのテレビ放送に雇われ、2009年まで在籍した。2010年にはオタワ・セネターズのテレビ放送でアナリストとして採用され、2014年にパンサーズの放送に復帰した。2017年にはポトヴィン財団を立ち上げ、財団を通じて、主にユースレベルのゲームから脳震盪関連の事故を減らす取り組みを支援している。[1]