デリー大学
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| University of Delhi | |
|
デリー大学の公式ロゴ | |
| 別名 | DU、Delhi University |
|---|---|
| モットー | Niṣṭhā dhṛtiḥ satyam(サンスクリット語:Dedication, Steadfastness and Truth) |
| 種別 | 公立、総合大学、研究大学、国家重要機関[1] |
| 設立年 | 1922年5月1日 |
| 創立者 | モーリス・グワイヤー |
| 学術的提携関係 | |
| 資金 | ₹955クロール (US$130百万)[3] (2023-2024) |
| 学長 | インド副大統領 |
教員数 | 1,402[4] |
| 学部生 | 114,494[4] |
| 大学院生 | 21,628[4] |
博士課程在籍者 | 3,502[4] |
| 所在地 |
デリー首都直轄領ニューデリー 北緯28度41分 東経77度13分 / 北緯28.69度 東経77.21度座標: 北緯28度41分 東経77度13分 / 北緯28.69度 東経77.21度 |
| キャンパス | 都市圏 |
| 教授言語 |
英語 ヒンディー語 |
| スクールカラー | 紫 |
| マスコット | 象 (強さと知恵) |
| 公式サイト |
www |
デリー大学(デリーだいがく、英語:University of Delhi[5]、通称:Delhi University、略称:DU)は、インドのデリーにある大学である。国立の研究大学であり、イギリス領インド帝国時代の国会にあたる中央立法議会の法制によって、1922年に設立された。副大統領が学長(名誉総長)を兼務している。
イギリス領インド帝国時代のの1922年、デリー大学は中央立法議会の法制によって設立された[6]。ハリ・シン・グールが1922年から1926年まで、初代副学長(事実上の総長)を務めた。
当時、デリーにはパンジャーブ大学(現在のパキスタンのパンジャーブ大学、University of the Punjab)に附属した4つのカレッジ(学寮、イギリスの大学制度に基づく)があった。それら、1881年設立のセント・スティーヴンス・カレッジ、1899年設立のヒンドゥー・カレッジ、1792年設立のザキール・フセイン・デリー・カレッジ、1917年設立のラムジャス・カレッジが、デリー大学に附属することとなり、また当初は文学部、理学部の2つの学部があり、約750名の学生が所属した。
1911年にイギリス領インド帝国の首都がカルカッタからデリーへ遷都され、副王公邸として使用されていた邸宅が、1933年10月にデリー大学に譲渡され[7]、デリー大学副学長室及びその他の居室として使用されている。
モーリス・グワイヤーが1937年にインドの最高裁判所判事として着任し、デリー大学副学長を務めた。この時代に大学院課程や研究所などが設立された[8]。研究室には当時、物理学者のダウラート・シン・コタリや植物学のパンチャナン・マヘシュワリなどが所属し、グワイヤーは1950年まで在任した[9]。
デリー大学設立25周年の1947年にはちょうどインド独立と重なったこともあり、V.K.R.V.ラオ(V. K. R. V. Rao)によって初めてインド国旗が掲揚された。その年はインド・パキスタン分離独立の混乱もあり卒業式が開催されなかったが、翌年に特別な25周年式典が開催されジャワハルラール・ネルー首相、ルイス・マウントバッテン及びエドウィナ・マウントバッテン夫妻、マウラナ・アザド、ザーキル・フセインなどが出席した。さらに25年後の1973年50周年式典では、インディラ・ガンディー首相、サタジット・レイ、アムリタ・プリタムなどが出席した[10]。
キャンパス
デリー大学では、91のカレッジがデリー全域に広がっている。北キャンパスと南キャンパスの2つがメインキャンパスである[11]。ザキール・フセイン・デリー・カレッジはニューデリーの中心部に位置し、デリー最古のカレッジである。