トゥスクルム From Wikipedia, the free encyclopedia トゥスクルムの遺跡 劇場跡 トゥスクルム出土のカエサルの胸像(Tusculum portrait) トゥスクルム(羅: Tusculum)は、イタリアのローマ近郊に存在した都市。 古代ローマのキケロの著作『トゥスクルム荘対談集』や、中世ローマ教皇庁を牛耳った名家「トゥスクルム伯家(英語版)」で知られる。 現在のフラスカーティ付近[1]、アルバン丘陵(英語版)[2]のトゥスコロ(伊: Tuscolo)の丘に遺跡がある[1]。 古代 鉄器時代初期にラテン人の居住地となり[2]、ラティウム地方の都市国家の一つとなった[3]。伝説ではテレゴノスが創建した、あるいはアルバ・ロンガの植民市だったとされる[1]。 紀元前496年、ラティウム同盟の一翼を担い、共和政ローマとレギルス湖畔の戦いで対決した[3]。その後ローマと友好的になり[3]、紀元前381年、ラティウム諸都市で初めてローマ市民権を与えられ[1]、ローマ支配下のムニキピウム(自治都市)となった[1]。以降ローマに忠誠を尽し、アエクイ人、ウォルスキ人との戦いに参加した[2]。 天候と景観に恵まれたトゥスクルムはローマ富裕層の避暑地となり、ルクルス、マエケナス、ティベリウスらの別荘(ウィラ)が近郊に立ち並んだ[1]。キケロのトゥスクルム荘は『トゥスクルム荘対談集』など哲学著作の執筆地となり[1]、アテナイのアカデメイアやリュケイオンを模した空間が設けられていた[4][5]。弁論家クラッススのトゥスクルム荘はキケロ『弁論家について』の舞台となった[6]。小プリニウスのトゥスクルム荘はトスカーナ荘(英語版)などとともに庭園史に名高い[7][8]。 出身者に大カトーがいた[1]。マミリウス氏族、フルウィウス氏族、フォンテイウス氏族、ユウェンティウス氏族、ポルキウス氏族などの輩出地でもある[1]。 中世 →「ポルノクラシー」も参照 10世紀から12世紀、トゥスクルム伯家(英語版)が一帯を支配した[3]。同家の女性マロツィアがローマ教皇の愛妾となると、教皇庁は同家の傀儡となった(ポルノクラシー)。1191年、トゥスクルムはローマに敗れ破壊された[3]。 近現代 市壁や劇場、別荘の遺跡が発掘されている[1]。 関連項目 トゥスコラーナ街道 脚注 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 松原國師「トゥ(ー)スクルム」『西洋古典学事典』京都大学学術出版会、2010年、833頁。ISBN 9784876989256。 1 2 3 「ツスクルム」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』。https://kotobank.jp/word/%E3%83%84%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%A0。コトバンクより2025年1月21日閲覧。 1 2 3 4 5 平田隆一「トゥスクルム」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%A0。コトバンクより2025年1月21日閲覧。 ↑ 川本悠紀子 著「キケロの書簡にみるアテナイの哲学学校と古代ローマの別荘」、周藤芳幸 編『古代地中海世界と文化的記憶』山川出版社、2022年。ISBN 978-4-634-67255-0。 351頁。 ↑ 桑木野幸司. “第10回 キケロの庭:緑陰に育まれたペンの力 - 白水社”. www.hakusuisha.co.jp. 2025年1月24日閲覧。 ↑ 大西英文 訳『弁論家について 下』岩波書店〈岩波文庫〉、2005年。ISBN 978-4003361153。 335頁。 ↑ 加藤弘嗣「ウィリアム・チェンバーズの庭園論再考 : 英国庭園風景の反証としての中国の庭」『英米文学』第59巻、第1号、関西学院大学英米文学会、2015年。 NAID 120005758801。https://hdl.handle.net/10236/14540。 260頁。 ↑ 桑木野幸司. “第14回 閑暇と公務のはざまで:小プリニウスのヴィッラ庭園 - 白水社”. www.hakusuisha.co.jp. 2025年1月21日閲覧。 典拠管理データベース 全般 VIAF WorldCat 国立図書館 ドイツ 地理 プレアデス Related Articles