トゥラ・ブカ
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生まれ
ダルブ(ダラト)の長男として生まれる。
ポーランド遠征に従軍
1259年、バトゥの西方遠征に従軍し、王侯ノガイとともにポーランド王国を攻撃した[1]。
ノガイと不和になる
トレ・ブカはトダ・モンケ・ハンの摂政となると、ノガイと不和になった[2]。ノガイは黒海の北方に広大な封地を持っていたが、そのことが近隣のアラン人、シルカス人、ルス人、ポーランド人、ワラキア人、ブルガル人にとって恐怖となっていた[2]。
1265年、東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスは自分の娘であるエウプロシュネをノガイに嫁がせることで、東ローマ帝国の敵であるブルガル人を抑制した[2]。
トダ・モンケを廃位し、即位
1287年、トダ・モンケはこれまでの君主同様、イスラーム教を信奉したが、宗教的な実践(祈りや修行)ばかりに専念し、政治をほとんど行わなかったため、親族の4人の有力者であるオルグイ[注釈 1]、トグリルジャ[注釈 2]、クンジュク(ゴンチェク)・ブカ[注釈 3]、トレ・ブカ[注釈 4]によって無能者と判断されて廃位された[1]。トダ・モンケは非常に敬虔な人物であったが、国政に携わらず、まわりにシャイフとファキール[注釈 5]たちを集め、厳粛な斎戒を遵守した[3]。彼は4人の有力者から国家には政務をよくする君主が必要であると聞かされてカン位をトレ・ブカに譲った[3]。
カルクの地方へ侵攻
トレ・ブカはカルクの地方を討つため一軍を派遣し、ノガイに命じてその諸トゥメンと共に進軍させた[3]。両軍は定められた地点で合流し、そこから全軍はカルクの地方へ侵入し、この地で掠奪・殺害をおこなって退却した[4]。しかし、寒気が厳しく、大雪に見舞われた[4]。ノガイはトレ・ブカと分かれ、軍隊を率いて自分の冬営地へ帰った[4]。トレ・ブカはその兵と共に道に迷い、食糧が不足した[4]。トレ・ブカとその部下は馬・猟犬・戦友の死体の肉を食ってしのいだ[4]。トレ・ブカはノガイが自分に罠を仕掛けたと疑い、激しい怒りを抱いた[4]。トレ・ブカがなんとか帰還すると、モンケ・テムルの子の軍と協同してノガイを討つための軍を集めた[4]。
死去

1291年、ノガイはトレ・ブカの計画についてわざと知らないふりをして、トレ・ブカから必要な相談をしたいから来るようにと招かれたときに、トレ・ブカの母に書を送って逆にノガイに会いに行くようトレ・ブカに伝えさせた[4]。トレ・ブカは集めた軍隊を解散し、母の言うとおり、ノガイに会いに行った[4]。その間にノガイはモンケ・テムルの諸子(トクタ、ブズルク、サライ・ブカ、トダン)を自分のもとに召して自分の軍隊と共に伏兵とした[4]。トレ・ブカはモンケ・テムルの諸子(アルグイ、トグリルジャ、ブラカン、カダアン、クトカン)とともにノガイに会いに来て、二人は語り合ったが、ノガイの伏兵によってトレ・ブカとアルグイらは縛り付けられた[5]。ノガイはトレ・ブカをトクタに引き渡して殺させた[2][5]。トクタは摂政たちからあらゆる権限を奪ってカン位についた[2]。
