トラボラの戦い
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トラボラの戦い(英語: Battle of Tora Bora、パシュトー語: د تورې بوړې جګړه)は、2001年11月30日から12月17日にかけて、アメリカのアフガニスタン侵攻の中でパキスタンとの国境に近いアフガニスタン東部、サフェド・コー山脈にあるトラボラの洞窟群で行われた戦闘である。戦いは、アメリカ、イギリス、ドイツ、北部同盟連合軍とアルカーイダとの間で行われた。時の政府であったターリバーン、その他のイスラーム過激派も戦闘に参加していた。
- トラボラ要塞の破壊
- タリバンの反乱開始
- ウサーマ・ビン・ラーディン逃亡
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ウサーマ・ビン・ラーディン率いるアルカーイダは、アメリカに対して2001年9月11日にテロ攻撃を実行した。アメリカは速やかに、ビン・ラーディンの追跡、ターリバーンがアルカーイダの本拠地設置を容認したアフガニスタンへ侵攻、といった世界的な「対テロ戦争」を展開した。アメリカは多国籍連合の支援を受け2001年10月7日に侵攻が開始された。
11月10日、CIAはビン・ラーディンをトラボラまで追跡していた。1980年代この洞窟群はムジャーヒディーンによってソ連軍の侵攻に対抗するための施設であったが、2001年以前はビン・ラーディンは長年に亘って要塞化を進めていた。11月30日、連合軍はビン・ラーディンの捕獲または殺害を目的に洞窟群へ攻撃を開始した。
ビン・ラーディンは12月15日にはトラボラを脱出し直後にパキスタン国境を越えていた。この戦いはアメリカが彼の正確な居場所を知った最後の時であり、2010年にパキスタンのアボッターバードで隠れ家を発見するに至った。アメリカは戦闘中にビン・ラーディンを殺害する機会があった。作戦開始直後、CIAの担当主任であるゲイリー・バーンツェンは陸軍トミー・フランクス将軍に、ビン・ラーディンがパキスタンへの越境阻止を目標に1000人の陸軍のレンジャー部隊を洞窟群に送るよう要請したが、フランクスはその要請を拒否した。アメリカ政府は2005年までビン・ラーディンがトラボラから脱走したことを否定していた。
連合軍の勝利によりアフガニスタンで公然と活動していた残りのターリバーンは排除された。ターリバーン政権はすでに12月7日のカンダハール陥落で崩壊していたが、ターリバーンは再編成され、国際協力によって樹立された後継政府と国際治安支援部隊に対して反乱を起こすことになった。
背景
ウサーマ・ビン・ラーディン
ソ連のアフガニスタンの侵攻では、イスラム教徒多数派のアフガニスタンが主に非ムスリムのソ連に侵攻された[10][11]。サウジアラビアのイスラム主義者でサウード王家と関係のあるウサーマ・ビン・ラーディンは、アフガン・ムジャーヒディーン(ソ連とジハード主義者として戦ったムスリム)を組織するために国を離れた。イスラム宗教闘争に従事する者はムジャーヒディーンと呼ばれ、その信仰、ジハードために、ビン・ラーディンとアブドゥッラー・アッザームはマクタブ・アル=ヒダマト(以下、MAK)を設立した[12][13][14]。MAKは大規模な軍事力を築いた[15]。冷戦の一環としてアメリカがソ連と対立していたため、CIA職員もムジャーヒディーンを支援していた[16]。1989年、ソ連はアフガニスタンから撤退[15]。その後アッザームは暗殺され、ビン・ラーディンがMAKを完全に掌握し、アルカーイダへと発展させた[17]。その後アフガニスタンを離れ、スーダンに移ったが、スーダンに追放された後、1996年に帰国した[3]。
1990年代にターリバーンが結成し、国の大部分を支配し、イスラム原理主義の規律を強制させた。
トラボラ

ソ連のアフガニスタンの侵攻中、CIAとビン・ラーディンはムジャーヒディーンが洞窟群を要塞として使うためにアフガニスタンの山岳地帯の建設を支援していた[16][3][18]。アフガニスタン東部のサフェド・コー山脈には、トラボラという洞窟群があった[18][3]。2005年、ムジャーヒディーンの退役軍人マスード・ファリヴァルは、戦争中の洞窟について、
"洞窟は荒々しく、手強く、別々になっている。知っていれば、簡単に出入りできる。しかしそうしなければ、それらは侵入できない迷宮のようなものだ。場所によっては標高14,000フィートになり、ソ連は10年間全力で攻撃したが、歯が立たなかった[16]
アフガニスタンに戻ると、ビン・ラーディンは洞窟群の拡張を始め、近隣の山岳地帯の高地に基地キャンプを建設した。地元の地形を時間をかけて歩き周り記憶に刻み込んだ[3]。彼はそこにアルカーイダの訓練キャンプも設置していた[19]。彼は山岳要塞での戦闘経験があり、1987年のジャジの戦いでムジャーヒディーン部隊を指揮し勝利していた[3]。
2001年のトラボラの戦いに至るまで、西側メディアによっては、この洞窟群を2,000人の兵士を収容する難攻の洞窟要塞と評し、病院、水力発電所、オフィス、ホテル、補給基地、戦車が通れるほどの広大な道路、複雑なトンネルや換気システムを備えていたとしている[20]。報道機関は洞窟群の詳細な設計図として掲載した。こうした計画をインタビューで提示された際、合衆国国防長官ドナルド・ラムズフェルドは「これは深刻な問題だ。一つではなくたくさんある問題だ」と述べた[21][22][23]。 トラボラがアメリカ主導の連合軍に占領され、周辺地域で徹底的な捜索があったものの、いわゆる「要塞」の痕跡は見つからなかった。トラボラは、最大でも200人の戦士が住む小さな天然の洞窟集合体であることが判明した[24]。補給基地や洞窟に押し込まれたソ連戦車も発見されたが、前述の先進施設の痕跡はなかった[23][25]。 戦闘に参加したアメリカ特殊部隊の二等軍曹は後に洞窟について証言している。
"あれは上が描いていたような狂った迷路や洞窟の迷宮ではない。ほとんどは自然の洞窟だ。一部は最大でも10フィート×24フィート(約3メートル×約7.3メートル)の部屋くらいの大きさで木で支えられていた。そんなに大きくはなかった"[26]
彼らは軍が不吉な報告を聞いていたため、戦闘の一部期間中は洞窟への入りをためらっていたと述べている。
"洞窟の大きさで大騒ぎになったのは知っているが、どうやって入るつもりなんだ?それも心配だった。こうした報告をたくさん受けるから。でも実際に登って行くと、実際には小さなバンカーしかなく、いろいろな弾薬の保管場所が発見できた"[26]
現地で戦闘を取材していたジャーナリストのマシュー・フォーニーは、山奥の「荒れたバンカー」を見る機会を得た。
アフガニスタン侵攻

アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュと副大統領ディック・チェイニーは2001年1月に就任した[28][3]。 2001年9月11日のテロ攻撃の後、アメリカはビン・ラーディンを匿っていたターリバーン政権の解体を目的とした「不朽の自由作戦」を開始。この目標を達成するために、アメリカは長年ターリバーンに対してゲリラ戦を展開してきた反政府勢力の北部同盟と手を結んだ。 空爆、地上作戦の組み合わせにより、アメリカとその同盟国は侵攻で迅速かつ優位に立ち、重要なターリバーン拠点を掌握、政権の権力支配を打倒した。2001年11月13日までに、北部同盟は首都カーブルを制圧した。
発端
2001年11月までに、アルカーイダ戦闘員はトラボラ周辺の山岳地帯で依然として抵抗していた[29]。一方、CIAはビン・ラーディンの動きを綿密に追跡し捕まえようとしていた。11月10日、CIAはジャラーラーバード近郊で200台のピックアップトラックの車列に彼を目撃した。その後、トラボラにあるアルカーイダの訓練キャンプへ向かった[19]。アメリカ側はビン・ラーディンがジャジの戦いでの勝利を再現したいであろうと考え、最後の抵抗を洞窟群で行うと予想していた[3]。11月29日、ディック・チェイニーは、ビン・ラーディンがトラボラ周辺にいると見られ、忠実な戦闘員のかなりの部隊に囲まれていると明かした[3]。

パンジシール渓谷のCIA主任ゲイリー・バーンツェンは、ターリバーンに反対するジャラーラーバード周辺のアフガン部族民兵と協力するために分隊を送った[19]。アメリカ人は山の地形に詳しい地元民の案内で洞窟群を目指した。数日後、彼らはビン・ラーディンの訓練キャンプに到着、そこで数百人のアルカーイダ戦闘員を発見した[30]。
イギリスSBSコマンドー12名と63通信中隊の通信兵1名が、アメリカ特殊作戦部隊と共にトラボラ洞窟群を攻撃した。ドイツKSKの特殊部隊オペレーターも参加した。彼らは山岳地帯の側面を守り、偵察任務を負っていたとされる[31]。
戦闘
2001年11月30日、アメリカ特殊部隊、統合特殊作戦コマンド兵(以下、JSOC)、そしてバーンツェン率いるCIA工作員の分隊(コードネームジョーブレイカー)がアフガン部族民兵と連携し、アルカーイダ訓練キャンプへの空爆を要請を開始した[32][1][33]。
CIAの情報はビン・ラーディンとアルカーイダ指導部が戦闘初期に洞窟に閉じ込められていることを示しており、12月1日、バーンツェンはトミー・フランクス将軍に対し、パキスタンへの山岳峠を封鎖し、ビン・ラーディンの逃走を断つため、1000人未満のアメリカ陸軍レンジャーを派遣するよう要請した。しかしフランクスは大統領と同様に、ビン・ラーディンが国境を越えようとすればパキスタンが捕らえるという点に同意していたため、この要請を拒否した[32][1][34]。バーンツェンと元CIAエージェントのゲイリー・シュローンは後に、レンジャーズを派遣しなかったことでビン・ラーディンの逃走が可能になったと主張した[35][36]。またバーンツェンはアメリカ軍がアフガン民兵に依存していることを非難した[35]。ジャーナリストのピーター・バーゲンはトラボラで後に再構築されたアメリカ軍の配置、フランクス将軍の展開拒否を「近年のアメリカ史上最大の軍事的失策の一つ」と主張した[37]。アフガニスタンでアメリカ軍指揮官に助言を行った歴史家カーター・マルカシアンは、ビン・ラーディンが洞窟から脱出する可能性は常に高かったと主張し、レンジャーが山脈を完全に封鎖することはできなかっただろうと主張している[38]。
12月3日、同盟アフガン部隊の指揮官の一人であるハズラト・アリは山岳要塞の攻略を開始すると発表した。しかし、アリが他の指揮官に攻撃計画を適切に伝えられなかったため、多くの戦闘員は攻勢開始時に準備不足となった[16]。12月5日、同盟アフガン戦闘員はアルカーイダ戦闘員から洞窟の下の低地を奪取した。ジョーブレイカーチームと特殊部隊チームはレーザー指示器を装備し、空軍爆撃機を呼び寄せて目標を破壊した。レーザー誘導爆弾やミサイルを含む激しい空爆が72時間にわたって続いた[39]。
アメリカ連合軍と連携していた部族民兵は戦意が低下していた。彼らにとってアルカーイダはムスリムのひとつの集団であり、戦闘はイスラムの聖なるラマダンの時期であったため、戦闘員らは毎晩山の外で断食をとり家族と過ごすために後退していた[1]。さらに、アフガンの二人の指揮官、ハズラト・アリとムハンメド・ザマーニーは互いに強い嫌悪感と不信感を持っていた。両派閥はアルカーイダとの戦いに集中する代わりに、しばしば互いに発砲し合うことさえあった。指導者たちとそれぞれの民兵との間の敵意は、決意に満ち結束した敵に対し戦功を挙げるという兆しはなかった[40]。
アルカーイダ戦闘員はより高い要塞化された陣地に撤退し、戦闘のために陣地を築いた。12月8日、トム・グリアー少佐(別名ダルトン・フューリー)率いるデルタフォースの精鋭部隊が到着した[41]。彼らは伝統的な現地の服装を着て濃いひげを生やし、アフガン民兵に溶け込み、同じ種類の武器を携えていた[3]。
アメリカ側は死亡したアルカーイダ戦闘員の無線を傍受、これによりアメリカ軍はビン・ラーディン自身を含むアルカーイダ戦闘員の通信を盗聴が可能になった。グリアー少佐は、その無線の向こうから聞こえた声がビン・ラーディンのものであることに「疑いの余地はなかった」と、7年間ビン・ラーディンの声を研究してきたCIA工作員「ジャラル」の証言を挙げている[3]。
M中隊のSBSコマンドー2部隊がA中隊デルタに同行し、そのうち1人はJSOC下で行動していた。夜の時間帯にアルカーイダ戦闘員が火をつける、その正確な位置を明らかにし、空中発射兵器のレーザー目標指示を援護した。
同盟側のアフガン兵は、空爆やイギリス特殊部隊の支援を受けながら、困難な地形を着実に前進し続けた。
アメリカは12月9日にビン・ラーディンが潜伏しているとされた地下壕を爆撃した。しかし、彼は前日にすでに壕から避難していた。ピーター・バーゲンは、ビン・ラーディンが部下が掘った塹壕の一つにサソリが這い入る夢を見て危険な予感を抱いたと記している[42]。
12月10日、デルタフォースは無線通信を傍受しビン・ラーディンが包囲線を突破しようと移動中であることを示した。その日の後半、同盟アフガン兵はビンラディンを発見し包囲したと主張した。夕方には、さらに通信によってビン・ラーディンの居場所がわずか10キロメートル先にいることが明らかになった。しかし、デルタフォースは他のアルカーイダ戦闘員との激しい銃撃戦に対応、同盟アフガン兵がラマダンの朝食を摂るために後退していたためこの機会を逃した。トーマス・グリアーは後に、この機会を活かせなかったことを心底後悔し、苦境ある中で失望したと記した[43]。
12月12日、敗北の危機に直面したアルカーイダ部隊と地元のアフガン民兵指揮官との間で、武器を返却させるために停戦交渉が行われた。しかし振り返ってみると、一部の批評家はこの停戦はビン・ラーディンを含む重要なアルカーイダ幹部の逃亡を可能にするための時間であったと考えている[44]。
バーンツェンは停戦の知らせを聞いて激怒した。彼はアルカーイダ戦闘員を信用せず、彼らの降伏の意図に疑念を抱いていた。バーンツェンは電話に向かって叫んだ。「停戦はない!交渉もない!空爆を続行だ!」[45]グリアーは、アメリカ側は中途半端な停戦をし、期限切れの約3時間前にアルカーイダの拠点を爆撃したと主張している。あるアメリカ人パイロットは空に巨大な「8」を描き、続いて「ON」という言葉を描いて降伏に抗議した[46]。
12月13日、戦闘は再び激化、おそらく後衛部隊が時間稼ぎをし、主力部隊がサフェド・コーを通ってパキスタンの部族地域へ逃げる時間を稼ぐためと推察される。部族部隊は特殊作戦部隊と航空支援を受け、山岳地帯に点在する洞窟や壕の要塞化されたアルカーイダ陣地を攻略していった。
アメリカ軍の焦点はこの洞窟群に当てられた。特殊部隊とCIAのSAD準軍事組織によって資金提供・組織された地元の部族民兵2,000人以上が、アルカーイダが構えるであろう拠点へ激しい爆撃が続く中、攻撃のために集結していた[47]。しかし、同盟アフガン軍が毎晩断食のために後方に下がり、わずかなアメリカ特殊部隊だけが残され、アルカーイダは日中に失った全ての地形を取り戻すことができたため、進展は非常に遅かった。12月14日、アメリカ軍はついにアリを説得し、日没後も部隊を配置に留め、前進を続けるよう説得した。しかし、すでにあまりにも多くの時間が無駄になりアルカーイダの指導部の大半はパキスタンに逃亡してしまった[48]。
ウサーマ・ビン・ラーディンの脱出

ビン・ラーディンは12月15日にトラボラから脱走したと一般的に考えられている。アメリカの継続的な爆撃とアルカーイダ戦闘員の食料不足により状況がより不安定となる中、2つのアルカーイダ戦闘員グループが南斜面を下ってパキスタンへ向かった。グループはパキスタンの封鎖部隊から逃れるために地元の部族に賄賂を渡した。歴史家のカーター・マルカシアンは、ビン・ラーディンがこれら二つのグループのいずれかと共に逃げた可能性があると示している[49]。
ピーター・バーゲンは、ビン・ラーディンはその日に交渉された停戦の最中、12月12日にジャラーラーバードへ逃亡していたと記している。バーゲンは、ビン・ラーディンがその夜の休戦を利用して闇に紛れて山脈を抜け出し、ジャラーラーバードの味方の家に向かい、そこで一晩過ごしたという。翌日、彼は馬に乗って北へ向かい、クナルの深い森林に覆われた山々へ向かい、地図にも載らないほど人里離れた場所へと姿を消したとしている[50]。
ジャーナリストのショーン・ネイラーが示したもう一つの理論は外部からの支援に関するものである。彼はデルタ航空のオペレーターがパキスタン軍が使用する複数のMi-17ヘリコプターが国境付近を飛行しているのを目撃したと記している。ヘリコプターはアフガニスタンに素早く着陸し、すぐにパキスタンへ戻るようだった。この観察により、一部のデルタオペレーターはパキスタンがビン・ラーディンを安全な場所へ輸送していたのではないかと推測した[51]。
グリアー少佐は後に、ビン・ラーディンが12月16日頃にパキスタンに逃亡したと記している[53][54]。彼はビン・ラーディンが脱走できたと考える理由を三つ挙げている。(1)アメリカはパキスタンが国境地帯を効果的に警備していると誤って考えていたこと、(2)アメリカの同盟国が投下GATOR地雷の使用を許可しなかったこと、そして(3)ビン・ラーディンと彼の戦闘員に対して主に現地のアフガニスタン部隊に過度に依存していたこと。グリアーは、戦闘がラマダン期間中に起きているため、アフガニスタン部隊は夕方に戦場を離れて断食を済ませ、アルカーイダが再編成や再配置、または逃走の機会を得ると推測した[54]。
このビン・ラーディンの捕縛の失敗は、アメリカがテロとの戦いの初期において彼を捕らえる最良の機会を無駄にしたことを意味した[38]。
戦闘の終結
12月17日までに洞窟群の最後のひとつが制圧され、守備隊も制圧された[55]。この戦いの中でも最も激しい戦闘は最後の数日間に起こった。熱心なアルカーイダの戦闘員たちは、指導部の撤退を援護するために洞窟に残っていた[56]。約60人の捕縛されたアルカーイダ戦闘員は国際メディアにさらされた。疲れ果て痩せているように見えたため、彼らは一般的な強靭なイメージとは程遠かった[57]。アメリカ軍は2002年1月までこの地域の捜索を続けたが、ビン・ラーディンやアルカーイダ指導部の痕跡を発見できなかった。バーンツェンはビン・ラーディンの捜索を担当するCIAチームを率いていた[58]。彼は、アルカーイダの拘束者たちがビン・ラーディンが東のルートを経てパラチナルへ逃亡したと報告していると述べた。バーンツェンは、アメリカ軍が戦闘初期により多くの兵力を投入していれば、ビン・ラーディンは戦闘中に捕らえれた可能性があると考えていた[59]。
グアンタナモ囚人の証言
アメリカ当局は戦闘に参加した疑いやビン・ラーディンの逃亡を助けた疑いから、数十人のグアンタナモ囚人の拘留を継続することを正当化している[60]。
2007年9月、アメリカに敵戦闘員として拘束されていたイエメンの医師アイマン・サイード・アブドゥッラー・バタルフィが戦闘中の状況を語ったと報じられている[61]。
戦闘後
ビン・ラーディンの捕獲に失敗した後、ブッシュ政権は当初、彼の戦闘での存在の証拠を否定した。ドナルド・ラムズフェルドは、イスラム過激主義の脅威は一人の個人を超え、ビン・ラーディンの存在について確かなものはないと主張した。ディック・チェイニーはこの問題に完全に触れることを避け、については一切言及はしなかった[62]。
2002年1月7日、トミー・フランクス将軍はビン・ラーディンがトラボラにいたと述べた[63]。しかし、2004年に彼はその主張を撤回した。
"ビン・ラーディン氏がトラ(ボラ)にいたかどうかは今日まで承知していません。一部の情報筋は、彼がいたという人もいるでしょう。彼が当時パキスタンにいたとする人もいるでしょう...トラ・ボラはタリバンやアルカーイダの工作員で溢れていましたが、決して我々の手の届くところにはいなかった"[3]
戦争中のCENTCOMでのフランクス副官マイケル・デロング中将によると、ワシントンの当局者は戦闘中にトラボラにビン・ラーディンの存在を十分に把握していた。デロングは後にこう記している。
我々は足取りを追っていました。我々がトラボラ洞窟に到達したとき、ビン・ラーディンは確かにそこにいました。爆破事件の間、ラムズフェルドは毎日私にこう尋ねました。「彼を捕まえたか?捕まえたのか?」[63]
2004年のアメリカ大統領選挙では、ビン・ラーディンがトラボラにいたかどうかが大きな論点となった。ブッシュの最大の対抗者であるジョン・ケリーは、世界最強の軍隊を動員しながらビン・ラーディンを追い詰めていたにもかかわらず、ブッシュ政権が彼を捕らえられなかったことを批判した。ブッシュ陣営の「ブッシュがテロに厳しい」という主張に異議を唱えたのに対し、チェイニーはケリーの批判を「完全なゴミ」と激しく一蹴した[63]。
2005年春、ペンタゴンはビン・ラーディンが確実にトラボラで逃亡したと確信していることを認める文書を発表した。このような情報が公になったのはこれが初であった[64]。
多くの敵戦闘員は険しい地形を抜けてパキスタンの南部および東部の部族地域へと逃亡した。連合軍は、戦闘中に約200人のアルカーイダ戦闘員が死亡し、反ターリバーンの部族の戦闘員の死者数は不明であったとしている。連合軍の死者は報告されていない。ビン・ラーディンが姿を現したのは2004年で、アルジャジーラで彼の映像が放送された[3]。
2009年、アメリカ合衆国上院外交委員会はこの戦いの調査を主導した。委員会ではラムズフェルドとフランクス将軍がトラボラ周辺を確保するために十分な兵力を投入していなかったと結論。委員会はビン・ラーディンがトラボラにいた可能性は高く、彼の脱走がアフガニスタン戦争を長引かせたとした[3]。
2009年、アメリカ上院の報告書ではビン・ラーディンの捕獲に失敗したことが「今日のアフガン反乱の基盤を築き、現在パキスタンを脅かす内部紛争を激化させた」と結論付けた[65]。戦闘後、イギリス軍とアメリカ軍および同盟アフガン兵は国内で優位性を増し、ターリバーンとアルカーイダの部隊は粘り強く潜伏した。
ジャーナリストのバーゲンは、ビン・ラーディンを捕らえられなかったこのアメリカの失敗が、ターリバーンの動機を与えたとしている。後にターリバーンは反乱勢力として再編成され、2003年のイラク侵攻およびその後のイラク戦争にアメリカが部隊を配置した後、反乱を成功させた。アルカーイダ部隊は2002年1月と2月にパクティヤー州で再編成を開始していた。
カーブルにはハーミド・カルザイの元、主なアフガニスタンの派閥、部族指導者、元亡命者による暫定政府であるロヤ・ジルガ(大評議会)、暫定政府が設置された。パクティヤー州のターリバーン逃亡者のムッラー・サイフル・レフマンは、反米勢力を支援するために民兵部隊の一部を再建し始めた。2002年3月のアナコンダ作戦開始時に1,000人を超える兵を抱えた。反乱軍はこの地域をゲリラ攻撃の拠点として利用し、1980年代のムジャーヒディーンを彷彿とさせる大規模な攻勢を計画していた.[66]。

アメリカの情報機関はビン・ラーディンの追跡を続けていた。2010年8月、ビン・ラーディンがパキスタンのアボッタバードにある隠れ家に住んでいる証拠を発見。2011年5月2日、アメリカは海軍Navy SEALsがビン・ラーディンの隠れ家を襲撃し彼を射殺したと発表した[67]。
グリアーの主張
2008年、トム・グリアー少佐は、CIAがビン・ラーディンの居場所を特定後に、自身のデルタフォースチームとCIAの準作戦将校がトラボラに向かったと述べた。グリアーのチームは、トラボラとパキスタンを隔てる標高14,000フィートの山を越えて、ビン・ラーディンがいるであろう位置を背後から攻撃する作戦を提案したが、上層部の関係者がこの提案を却下したという。グリアーはトラボラに続く峠道にGATOR地雷を投下することも提案したが、これも却下された。グリアーと彼のチームは正面から攻撃目標に接近、2,000メートル以内に近づいたが、アルカーイダ戦闘員の数が不明であることと同盟アフガン軍の支援不足により撤退した[68]。
グリアーは、彼のチームは再びアルカーイダ勢力に攻撃を続ける計画だったが、停戦後、アフガン兵がアメリカ軍に向かって武器を向けたと証言した。12時間に及ぶ交渉の末、アフガン側は撤退したが、ビン・ラーディンと彼の護衛たちは去っていた。グリアーは、彼のチームが2001年12月13日午後にビン・ラーディンの無線通話を傍受し、通訳したと報告している。彼は戦闘員たちに「今こそその時。不信心者に対抗し女と子供らを武装させろ」と言ったという。爆撃の数時間後、再び沈黙を破り、「我々の祈りは叶わなかった。状況は窮し、厳しい。我々は自称ムスリムの兄弟と名乗る背教国家からは助けてもらえなかった。もし違っていたら、状況は変わっていたかもしれない」グリアーは、その夜ビン・ラーディンが戦闘員たちに最後に言った言葉は「この戦いに巻き込んでしまってすまない。もし抵抗できないならば、私の承認を得て降伏してもよい」だったと証言した[69]。
グリアーは、彼のチームがビン・ラーディンとその護衛と思われる一団が洞窟に入るのを見たと証言した。チームは現場での複数の爆破攻撃を報告、ビン・ラーディンを殺害したと信じていた。半年後、アメリカ・カナダ軍が周辺のいくつかの洞窟を調査したところ、アルカーイダ戦闘員の遺体は発見出来たが、ビン・ラーディンの遺体は無かった。グリアーはビン・ラーディンが爆撃中に負傷したものの、隠され、治療され、仲間によってパキスタンへ脱出するのを助けられたと考えていた[68]。