西ニューギニアの係争地
1962年、インドネシア軍による空挺降下とゲリラ軍を伴う海軍の上陸という形での領土侵攻は、インドネシア外相スバンドリオによるオランダとの外交的対立の激化のため、利用されました。[12] トリコラ作戦は、インドネシア空軍の支援のもと、潜入、展開、そして西ニューギニアの統合という3つの段階に分かれて実施される予定でした。 この作戦では、まずインドネシア軍の小部隊を海上から上陸と空挺降下によって投入、その後オランダ軍を、大規模な水陸両用作戦並びに空挺作戦によって戦闘員を作戦遂行中展開して、オランダ軍の重要拠点を占領する地域から引き離すことが目的でした。 結果としては、統合段階中にインドネシアの支配は西ニューギニア全体に及ぶことになりました。[13]
続いての自体は同年1月15日、インドネシア海軍の魚雷艇4隻がニューギニア南岸のフラッケフック付近に海兵隊員150名を上陸させようとしたことから始まりました。 オランダのロッキードP2V-7Bネプチューン航空機が上陸部隊を検知し、インドネシアの魚雷艇はオランダの駆逐艦3隻によって迎撃されました。 その後、アラフラの戦いにて、インドネシアの魚雷艇一隻が沈没し、2隻が損傷を受け、撤退を余儀なくされました。 こうして、計画されていたインドネシア軍の上陸作戦は、多くの乗組員と海兵隊員を失うのみという悲惨な結果に終わりました。犠牲者の中には、インドネシア海軍副参謀長のヨス・スダルソ准将も含まれています。 また、この作戦において、約60人の生存者が捕えられました。 しかしながらその後の8ヶ月間で、インドネシア軍は海路で562名、空路で1,154人の兵士の投入に成功しました。 1962年以降、投入されたインドネシア軍は西ニューギニア全域でゲリラ作戦を実施しましたが軍事的にはほとんど効果はありませんでした。 戦闘中に少なくとも94人のインドネシア兵が死亡、73人が負傷しました。 対照的にオランダ軍はほとんど死傷者を出しませんでした。[13][14]
作戦の2段階目の準備のため、インドネシア軍のゲリラ活動は1962年半ばまで増加していきました。 インドネシア空軍は周辺の島々からこの地域で作戦飛行を開始し、ソ連から譲渡されたKS-1コメット対艦ミサイルを搭載したTu-16爆撃機を配備しました。[13][14]
1962年の夏までに、インドネシア軍は西ニューギニアにあるオランダの主要拠点であるビアク島に対する水陸両用及び空挺攻撃の計画を開始しました。 この作戦はジャヤウィジャヤ作戦(帝国主義に対する勝利)として実施される計画で、ソ連や東側諸国より受け取った数隻を含んだ、総勢60隻の艦艇からなる大規模な任務部隊が含まれていました。[14][15] 1962年8月13日、14日にインドネシア軍は北西部ソロンから南東部のメラウケへ空挺降下作戦を実施しました。これは、ビアク島のオランダ軍基地などに対する水陸両用作戦の陽動として行われました。この攻撃は、陸軍(RPKAD)と空軍(PASGAT)の空挺部隊7,000名、海兵隊4,500名、そして各軍管区(KOMAMS)所属の陸軍兵士13,000名という人員が動員されました。 しかし、オランダ海軍のマリッド6オランダ領ニューギニアの信号情報部とネプチューン航空機がインドネシアの侵攻部隊を探知し、司令部に警告を発しました。[13][14]
. 1962年当時、西ニューギニアにおけるオランダ海軍の駐留部隊は、対潜駆逐艦5隻、フリゲート艦2隻、潜水艦3隻、測量船1隻、補給艦1隻、石油タンカー2隻で構成されていました。 オランダの航空戦力は、オランダ海軍のロッキードP2V-7Bネプチューン航空機11機と、オランダ空軍のホーカーハンタージェット戦闘機24機を保持していました。[16] 陸上戦力では、対空砲部隊が複数、5個オランダ海兵隊中隊、3個オランダ王立陸軍歩兵大隊を保持していました。 オランダの防衛計画として、Marid 6 NNGを利用してインドネシア軍の通信システムを妨害することを検討していました。[14]
1962年3月23日には、3隻のボート(うち1隻はモーターボート)を使用してPG 600を運搬する作戦を開始しました。 この計画は、トーマス・ヌッシー中尉の指揮の下、行われました。 この計画はウジルとカルワルの2つの地点に部隊を分けて上陸し、S.ジェラへ向かいそこで合流する計画でした。 オクタヴィアヌス・マラニの指揮下の24名からなる部隊は着陸にこそ成功しましたが、本部隊がオランダ軍に発見されたため帰還せざるを得なくなりました。 この作戦ではオランダ軍に迎撃され、エトナ湾のワトゥ・ベラ諸島付近にて消息を絶ったと推測される船舶「ホー・シン・サン」に乗っていた7名が犠牲になりました。[17]
この拠点から派遣された部隊は、情報収集の任務を負っていました。 合計5回の任務全てに失敗した上、1962年5月13日にはプリモブより20人の部隊が派遣されましたが上陸前にオランダ海軍にすぐとらえられました。 しかし1962年8月7日、プリモブ隊員53名とボランティア10名からなる部隊がファク・ファク県のパティビ近郊のルンバティへの上陸に成功しました。
1962年3月18日、ゲべ島のこの拠点からナナ中尉の指揮の下、2個小隊と司令部中隊からなるPG 300がワイゲオ島への潜入を試みました。 彼らはオランダの偵察機に発見されたため、ワイゲオ島の西にあるガグ島に着陸せざるを得ませんでした。 PG 300は最終的に孤立し、オランダ軍の攻撃を受けました。 1962年3月25日、インドネシア空軍のB-25ミッチェルがオランダ海軍の艦船と交戦し、艦船にて火災が発生しました。[18] 1962年3月26日、オランダ軍は掃討作戦を行うためガグ島に上陸しました。 ガグ島にて、両軍はおよそ1ヶ月間戦闘を続けました。 同年4月15日、オランダ軍は同島にて再び掃討作戦を開始しましたが、PG 300部隊は撤退に成功しました。 また29人のガグ島民がPG 300部隊に加わりました。[17]
1962年の4月20日にはボーイ・トーマス曹長指揮下の第191260 PG 300小隊2個がユ島からワイゲオ島のタンジュン・ダルペレへ移動する計画を実施しました。 しかし途中でオランダの偵察機に発見されたため、バラバラ島に2時間避難したのちにタンジュン・ダルペレへ移動しました。[17]
同年7月15日、ジョンキー・ロバート・コモントイ指揮下の87名からなるPG 500は、ゲバ島からワイゲオ島へ移動しました。 この部隊はオランダに発見されずにワイゲオ島へ移動できました。また、同島にてヘルヒナ・カシム率いる偽旗部隊と合流しました。 この2つの部隊はその後、ソロン北西に位置するアルグ湾に向かいました。 そして17日にはサウサポールに入港しました。 PG 400による成功した潜入任務は人数で表すと合計200人でした。 これらのグループの動きは8月12日にヘルヒナの率いる軍によって隠蔽されました。 ワイゲオ島でインドネシア軍がオランダ軍と遭遇することはありませんでした。なぜなら、オランダ軍はワイゲオ島に訪れることは滅多になかったからです。[17]
元KSTでAPRMSの参謀長を務め、後にトリコラ作戦に参加したトーマス・ヌッシー中尉
8月9日、第101前哨基地からの潜入作戦が失敗に終わったあと、ヌッシー中尉率いるレーダー部隊はミソール島に上陸しました。 そして11日には、ワハイ島から計46名の別の部隊も潜入を試みましたが、こちらはオランダ海軍の駆逐艦と遭遇したため、強制的に帰還させられました。 しかし翌日には5隻の魚雷艇の護衛のもと、上陸に成功しています。 この5隻の魚雷艇は、一隻のフリゲート艦、[17]駆逐艦、2隻の潜水艦からなるオランダ軍と交戦しましたが、全艦無事に帰還することができました。
この作戦は、PGTとTPKADの空挺部隊によって、カイマナとファクファクを目標として実行されました。 2つの攻撃目標があるため、バンテン作戦は部隊を2つに分けて実行することになりました。
ナヨアン空軍少佐指揮下の「バンテン・プティ作戦」、ファクファクを目標とする この部隊は、合計40名で構成されています。 空挺降下は同年の4月26日午前4時にダグラスC 47スカイトレイン3機を使用して行われました。[17]
サントソ空軍大尉指揮下の「バンテン・メラ作戦」、目標はカイマナです。 この部隊は合計39名で構成されています。 空挺降下は5月26日の午前5時にバンテン・プティ作戦時と同様の方法で行われました。[17]
ガルーダ作戦中にファクファクに着陸するインドネシア空挺部隊のジオラマ
この作戦には、レイダーズ・ヨン454/ディパナゴロの2個大隊とPGT隊員が参加しました。 そして部隊をこちらも2つに分けることになりました。
カルタウィ大尉率いる140の隊員からなるガルーダ・メラはファクファクを目標としていました。 5月15日に行われた最初の降下作戦では、40人が参加しました。 翌日に2回目の降下作戦が行われました。この降下作戦には38人が参加しました。[17]
ガルーダ・プティは、レトゥ・イドリス率いる122名で構成され、カイマナを目標としていました。 こちらもガルーダ・プティ作戦時と同じく、最初の降下作戦は5月15日に行われました。この作戦には27名が参加しています。 また、この作戦からの帰投中に、C-47輸送機が撃墜されました。 そのため、2回目の降下作戦には、より大型のハーキュリーズ輸送機が使用されました。 5月19日午前4時、2回目の降下作戦には79人が参加しました。 さらに26日、3回目の降下作戦には68人が参加しました。[17]
この作戦の部隊は、PGTのメンバーで構成され、目標はソロングとその周辺地域でした。 この作戦も同様に2つの部隊に別れて、実行されました。[17]
5月17日、C-47輸送機でランベルトゥス・マヌフラ空軍中尉の指揮の下、テルミナトゥアン島に39名からなる人員の降下作戦が実施されました。 彼らはオランダ軍の兵舎のある地域付近に上陸し、数日間戦闘が続きました。そして5月21日には、インドネシア軍が占領し、敷地内にインドネシア国旗を掲げました。[17]
5月19日、ハーキュリーズ輸送機よりスハディ少尉の指揮の下、81名の人員がサンサポロに降下しました。 彼らもオランダ軍の兵舎のある地域付近への上陸に成功しました。しかしオランダ軍は士気を失っていたため、戦闘はすぐに終わりました。[17]
6月24日、3機のハーキュリーズ輸送機を使用して、メラウケに対する空挺作戦が秘密裏に実施されました。 この部隊は、レオナルド・ベンジャミン・モエルダニ少佐の指揮下の第530/ブラウィジャヤ大隊の隊員160名と、特殊部隊員55名で構成されていました。 彼らの実施したゲリラ作戦は、致命的な攻撃を与えはしなかったものの 、オランダに被害を与えました。そのため、オランダ軍は、メラウケへ援軍を送らざるを得なくなりました[17]
バダル・ルムット作戦を実施する部隊は、第521/ブラウィジャヤ大隊の部隊と共に、トゥアル(第101駐屯地)にて、訓練されました。 カイマナ地域への上陸が計画されていましたが、沿岸部へのオランダ軍の哨戒活動が強化されたため、作戦は開始されませんでした。[17]
バダル・ペシ作戦は、第103前哨基地に拠点を置く、第515/ブラウィジャヤ大隊と連携して計画されました。 この作戦は、実施されませんでした。[17]
この作戦は潜入作戦で、ドルフ・ラトゥマヒナ中尉の指揮下、潜水艦3隻を使用して45名の兵士をジャヤプラ地域周辺に上陸させる計画でした。 この作戦では、潜水艦一隻がタナメラへの部隊上陸に成功しました。 他2隻は、上陸前にオランダ軍が攻撃を停止したことによって作戦が中止され、部隊を上陸させれませんでした。 また、3隻の潜水艦全てが無事、基地へ帰還しました。 潜入に成功した兵士達は、マーセン・インデイとエリー・ウヨとの接触に成功しました。[17]
この作戦は、西ニューギニアのメラウケへの上陸に成功したナーガ作戦の潜入部隊に、ハーキュリーズ輸送機を用いて補給することを目的として、6月30日に開始されました[17][19]
この作戦は3つの作戦から構成されています。1つ目のエラン作戦では、PGTの部隊から132名の空挺部隊がクラモノ・ソロンに上陸する計画です。ガガク作戦ではヨン454から141名の空挺部隊がカイマナに上陸する計画です。アラブ・アラブ作戦では、バンドンから132名のPGT部隊がメラウケに上陸する内容でした。[19]