トンブリ級海防戦艦
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トンブリ級海防戦艦( とんぶりきゅうかいぼうせんかん、HTMS Dhonburi Class Coastal defense ship)は、日本で建造され[4]、タイ海軍が運用した海防戦艦の級名。砲艦[5](モニター艦)と見做されることもある[6]。
| トンブリ級海防戦艦 | |
|---|---|
1938年9月12日に撮影された「トンブリ」 横浜港に入港した際のもの | |
| 艦級概観 | |
| 艦種 | 砲艦[1](モニター艦)[注釈 1] もしくは海防艦[注釈 2] |
| 艦名 | |
| 前級 | - |
| 次級 | - |
| 性能諸元 | |
| 排水量 | 常備:2,015トン 満載:2,265トン |
| 全長 | 76.5m |
| 垂線長 | -m |
| 全幅 | 14.4m |
| 吃水 | 4.2m |
| 機関 | 重油専焼MAN製ディーゼル機関2基2軸推進 |
| 最大出力 | 5,200hp |
| 最大速力 | 15.5ノット |
| 航続距離 | 12ノット/5,800海里 |
| 燃料 | 重油:150トン |
| 乗員 | 155名 |
| 兵装 | 三年式 20.3cm(50口径)連装砲2基 四〇口径四一式八糎平射砲4基 毘式四十粍機銃2基 ホ式十三粍高射機関砲 単装2丁 |
| 装甲 | 舷側:63mm(水線部) 甲板:25~38mm(主甲板) 主砲塔:102mm バーベット:102mm(最厚部) 司令塔:102mm |
概要
本級はタイ海軍が自国の沿岸防御のために、フランス海軍の東洋艦隊を仮想敵として計画し、大日本帝国の民間造船所で建造した軍艦である[7][注釈 3]。
1934年のタイ海軍第一回拡張計画で計画された[10]。当時のタイ海軍は自国で近代的戦闘艦を建造することが出来ず、外国で建造した艦艇を輸入する方法で海軍力を増強していた[11]。その流れの中で、水雷艇(駆逐艦)をイタリア王国に、砲艦や潜水艦やタンカーなどを大日本帝国に発注した[12][13][注釈 4]。 日本は、民間の造船所にタイ向け艦船の製造を発注した[15]。1番艦トンブリ・2番艦スリ・アユタヤ共に日本列島本州神戸の川崎造船所で建造されており[16]、1936年に起工、1938年に竣工してタイ海軍に引き渡された。
1番艦トンブリは1941年に、2番艦アユタヤは1951年に、それぞれフランス海軍との交戦/クーデターに伴う内戦により戦闘で損傷し、両艦ともに後に解体処分とされたが、トンブリの艦橋部分と砲塔は保存されて2019年現在も現存している。
第2次世界大戦終戦以前に日本で建造された軍艦は、ほぼすべてが沈没するか解体されているため、陸上で保存されている本級の砲塔と艦橋構造物は貴重な存在である[注釈 5]。
構成
本級は砲艦ラタナコシンドラ級[注釈 6]の拡大型として計画され、2,000トン級の船体で20cm連装砲2基という重武装と一定の外洋航行能力を両立させる目的から、船体は艦首甲板の高い長船首楼型とした。船体形状は凌波性を持たせるため強く傾斜したクリッパー型艦首から前部甲板に強いシア(甲板の反り返り)を付け、前半部の乾舷を高めている反面、重心低下のため艦中央部より後方の乾舷は水面付近まで低くしてバランスを取っていた。高温多湿のインド洋で使用されるために通風を優先して舷側には上下2列の舷窓が全長一杯に配置しており、下段は水線部装甲以外の前後部に設けられた。
伸び上がった艦首甲板から一番下がった部分に測距儀を収めた20cm連装砲塔(日本の五十口径三年式二〇糎砲と同形)1基を配置し、この1番主砲塔から後部で甲板は艦橋部で最も持ち上がる。
本級の艦橋部分は近代的な塔型艦橋の三段構造で、一段目は操舵艦橋、二段目が戦闘艦橋となっており、側面部は柵の付いた見張り台となっていた。三段目が対空見張り台でその後部から中段部に探照灯台が配置した測距儀台が立つ。艦橋デザインは同世代の日本海軍の重巡洋艦古鷹型・青葉型との類似性が見られた。
艦橋を形成している上部構造物の両舷には、7.62cm高角砲を単装砲架で片舷に各2基ずつ計4基配置している[注釈 7]。艦橋背後の上部構造物上に軽構造の三脚式の前部マスト立ち、そこから甲板一段分下がって中央部甲板上には中段に探照灯台1基を配置する小判型断面の1本煙突が立つ。煙突両舷にはグース・ネック(鴨の首)型クレーンが片舷1基ずつ計2基が装備されており、その後方の艦載艇置き場から艇を水面部に上げ下ろしできる様になっていた。艦載艇置き場の後方は更に甲板一段分下がって後部甲板が始まり、そこに簡素な単脚式の後檣と頂上部に見張り台を持つ後部艦橋が配置され、その背後に後向きに後部主砲塔が1基搭載されている[注釈 8]。一段目の見張り台と後部見張り台には毘式四十粍機銃(ヴィッカース製QF 2ポンド砲 Mk VII)[注釈 9]を連装砲架で1基ずつ計2基を配置していた。
本艦は日本で建造されたこともあり、艤装は1930年代後半当時の日本が建造した艦船と同様のものと思われる。一例として主砲塔の外見は妙高型重巡洋艦のD型砲塔に酷似している。この砲塔は佐世保海軍工廠で製造され[注釈 10]、神戸造船所に輸送された[18][注釈 11]。 船体の大きさの割に重武装であり、やや安定性に欠けていた可能性もある[注釈 12]。
機関部
船体が小型なために機関は大型な物を搭載できず、ドイツのMAN社製ディーゼル機関を二基積み、二軸推進で出力5,200馬力、速力15.5ノットを出した。燃料搭載量は重油150トンで、12ノットで5,800海里を航行することが出来た。
艦歴
1番艦トンブリと2番艦スリ・アユタヤは、日本の川崎重工神戸造船所の同一船台上で順次建造された。スリ・アユタヤは1937年(昭和12年)7月24日に進水[22]、1938年(昭和13年)6月16日に竣工した。トンブリは1938年(昭和13年)1月31日に進水した[注釈 13]。同年8月5日に竣工、プラヤー・スィー・セナー公使など立ち合いのもと、引渡し式を行う[24]。9月12日には横浜を訪問した[6][25]。タイに移動後、同海軍の旗艦としてタイの海を守りつつ諸外国の海軍士官を招いて交流を続けた。オランダ領東インド(オランダ)とは、微妙な緊張関係になった[26]。
タイ海軍は本級や、新型巡洋艦のために造船所を拡張しつつあった[27]。だが第二期建艦計画により[注釈 4]、イタリアに発注した軽巡洋艦2隻は[注釈 14][注釈 15]、第二次世界大戦の勃発で建造が遅れ[31]、最終的にイタリア海軍のエトナ級軽巡洋艦となった。 トンブリ級はタイ海軍の有力な艦艇であり続けた。
トンブリは1941年1月17日のコーチャン島沖海戦で[32]、ヴィシー政権側のフランス軍に所属する軽巡ラモット・ピケ等と交戦する[33][34]。この海戦で損傷し、擱坐した[35][注釈 16]。 その後はタイの依頼により神戸の川崎重工が離礁作業を請け負った。同年8月下旬、日本サルベージの手で引き上げに成功する[注釈 17]。しかし船体の破損は著しく、戦後も永らく繋留状態のままで練習艦等として使用されていたが、老朽化が進み、後に砲塔と艦橋構造物のみを海軍兵学校の校庭に陸揚げして保存し、これ以外は解体処分とされた。
スリ・アユタヤはコーチャン島沖海戦での被害はなく[35]、その後も健在であった[4]。太平洋戦争終結後、1951年6月のクーデターの際に座礁し、その直後にタイ陸軍からの砲撃を受けて6月30日に大破・沈没し、後に浮揚されて解体された。