ニコラエ・トニツァ
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ルーマニア東部ヴァスルイ県のバルラド(Bârlad)で生まれた。バルラドの高校を卒業した後、1902年に、ヤシの国立美術学校(Şcoala naţională de Belle-Arte din Iaşi、後のジョルジェ・エネスク芸術大学)で絵画をゲオルゲ・ポポヴィッチ(Gheorghe Popovici)とエマノイル・バルダサレ(Emanoil Panaiteanu-Bardasare)に学ぶ[2]が学生ストライキに参加し退学させられた。
1903年にブカレスト大学の教授で美術家のグリゴレ・トシレスク(Gheorghe Popovici)らとイタリアを訪れた。その後ヤシ県のグロゼシュティ(Grozești)の教会の装飾画の制作に参加した[2]。
1908年にミュンヘンに移り、ミュンヘン美術院でフーゴー・フォン・ハーベルマンに学んだ。在学中にルーマニアの展覧会に作品を出展し、ルーマニアの雑誌に挿絵や美術評論を寄稿した。1909年の夏は再びイタリアを訪れ、秋にはフランスを訪れ、パリに2年ほど滞在し、画家、版画家のピエール・ラプラード(Pierre Laprade: 1875-1931)のスタジオなどを訪れ、パリの画家たちと交流し、風景画や肖像画、抽象画を描いた[2]。1911年にルーマニアに戻り、最初はバルラドで暮らした後、ヤシに戻り陸軍大学で絵の代用教員を務め、1912年にヤシの美術学校の卒業資格を得た。
各地の教会の装飾画を描き、1913年に結婚した。経済的な理由から、新聞「イアシュル」で編集者として働き、画家活動から離れた。1916年に美術学校の同僚のシュテファン・ディミトレスク(Ștefan Dimitrescu: 1886-1933)とともにブカレストで素描を展示をした。
1916年に第一次世界大戦の連合国側にルーマニア王国が参戦すると動員を受け、ルーマニア戦線に送られ[3]、負傷し捕虜となり、ブルガリアの捕虜収容所に送られた。戦後の1919年に軍での活動に対して授勲された[4]。
戦後、ブカレストに住み展覧会に参加し、挿絵の仕事をした。1922年にトランシルヴァニアを旅し、表現主義の画家、オーレル・ポップ(Aurel Popp: 1879-1960)とも知り合い、友人になった。1924年にヴェネツィア・ビエンナーレに出展した。1925年に「ルーマニア美術協会」を退会し、フランシスク・シラート(Francisc Şirato)、オスカル・ハン(Oscar Han)、シュテファン・ディミトレスクとともに「4人組(Grupul celor patru)」というグループを結成し[5] 1934年までこのグループ展に出展し、国外の展覧会にも出展した。1933年にディミトレスクが亡くなった後、ディミトレスクの後任としてヤシの国立美術学校の校長を務めた。
1939年から重病になり、1940年2月にブカレストで亡くなった。
