1648年9月10日、パリで生まれる[1]。ルイ14世の財政総監として重商主義政策を推進したことで名高いジャン=バティスト・コルベールが母の兄弟に当たり、デマレもコルベールの引き立てで財務官僚として宮廷に仕えた[1]。1683年にコルベールが死ぬと、コルベールの政敵であるル・テリエ家がコルベール一派による貨幣改鋳を追訴したが、デマレによる関与の証拠が提出されなかったため、解任されルイ14世の命令で領地に追放された程度だった[1]。1686年3月にパリに戻ることを許可され、1687年にはフランスの危機的な財政状態に関する覚書を発表し、税制改革を提唱した[1]。
デマレは1687年の覚書で経済学者としての名声を得て、1699年9月にミシェル・シャミヤールが財政総監に就任すると顧問の1人に任命され、1703年10月22日にDirecteur des financesに昇進した[1]。昇進とともに実際上の財政総監になり、ルイ14世と長議論したりマントノン夫人の後援を受けたりした[1]。
陸軍大臣を兼任していたシャミヤールが1708年に財政総監を辞任すると、デマレがその後任になったが、このときにはフランスの財政状態がさらに悪化していた[1]。1708年の通常収入は81,977,007リーブルだったが、そのうち57,833,233リーブルはこの通常収入を当てにすでに支出されており、さらに200,251,447リーブルの支出が予想された[1]。1709年にも飢饉があって税金収入が低下した[1]。これに対し、デマレは徴税制度を改革し、紙幣を発行することで1709年と1710年を乗り越え、またデマレの名声によりフランスの財政的信用が回復した[1]。デマレはさらに1割の所得税を導入しようとしたが、反対に遭い失敗した[1]。最終的には1715年の財政赤字が約35,000万リーブルとなった[1]。
1715年のルイ14世の死後、ルイ15世の摂政オルレアン公フィリップ2世により罷免され、領地に引退した[1]。その後、摂政に施政に関する弁明書を提出して、財政総監として直面した難題を説明した[1]。
1721年5月4日にパリで死去した。息子のジャン=バティスト・デマレ(英語版)は軍人としてフランス宮廷に仕えた。