ニューオーリンズR&B

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様式的起源
ニューオーリンズR&B
著名なニューオーリンズR&Bのアーティスト、アラン・トゥーサン (2009年)
様式的起源
文化的起源 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ルイジアナ州ニューオーリンズ
関連項目
  • ニューオーリンズ・ブルース
  • ルイジアナ・ブルース
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ニューオーリンズR&BNew Orleans R&B)は、ニューオーリンズ発祥のリズム・アンド・ブルースのスタイルである。ロックンロールの前身となった音楽であり、スカにも大きな影響を与えている。通常のバンドは、ドラムス、ベース、ピアノ、ホーン・セクション、エレクトリック・ギター、そしてボーカルなどで構成される。シンコペーションの効いたセカンド・ラインのリズム、力強いバックビート、そしてソウルフルなボーカルが特徴として挙げられる。ロイ・ブラウンデイブ・バーソロミューファッツ・ドミノといったアーティストがニューオーリンズR&Bサウンドを代表するアーティストである[1]

ニューオーリンズR&Bの特徴としては、ピアノを押し出していること、ホーン・セクションが歌っていること、そしてコール・アンド・レスポンスの要素が含まれることなどが挙げられる[2]

トランペット、サクソフォーンを多用するところは、カンザス・シティのスウィング・バンドの影響と言える[3]

ギターとベースがユニゾンでプレイする「ダブル」・ベース・ラインを強力なバックビートと組み合わせることにより、ダンスしやすい音楽を生み出している[2]。またマンボルンバカリプソといったカリブ海のリズムの影響もしばしば感じることができる[4]

更には、ブルーノートの使い方も特徴的である。ブルースの多くと同様、ニューオーリンズR&Bもトニック、サブドミナント、ドミナントのコードを含むスタンダードな3つの節から成る形式を取っている。これらのコードでは、音階の3度、5度、7度にフラットが付く(半音低くなる)3つのブルーノートが使用される。ニューオーリンズR&Bでは、特にフラットが付く3度の音が特に顕著に聞かれる[5]

初期の先駆者たち

ニューオーリンズR&Bはチャンピオン・ジャック・デュプリー、アーチボルド、プロフェッサー・ロングヘアのニューオーリンズ出身の3人のバレルハウス・ピアニストたちによって土台が築かれた。

「フェス」の愛称で親しまれたプロフェッサー・ロングヘアは、ニューオーリンズR&Bサウンドの形成において大きな影響力があった。ニューオーリンズR&Bの重要人物であるアラン・トゥーサンは、彼について「ロックンロールのバッハだ」と述べている[6]。フェスはカリブ海とブギウギのリズムを融合させ、自身のスタイルを編み出した。その結果生まれたのはポリリズムの使用であり、彼はこれをプレイしながらしばしば口笛を吹いた[7]。彼は他のニューオーリンズのミュージシャンたちから尊敬されていたものの、広く注目されるようになったのはキャリアの終盤になってからであった[8]

ロングヘアはキャリアの初期の頃、デイヴ・バーソロミューのバンドを聴きにカレドニア・インを訪れている。彼がバーソロミューのピアニストとして飛び入りをすると、にわかに大勢の聴衆が会場に詰めかけたという。それから、彼は自身のバンド、フォー・ヘアーズ・コンボを結成することを決意した。間もなく、このバンドはハイハット・クラブでスター・タレント・レコードのために4曲をレコーディングした。1950年、ロングヘアはマーキュリー・レコードに所属し、「Bald Head」をレコーディングした。この曲はビルボードR&Bチャートで5位を記録した。財政的な困難より、彼のマーキュリー在籍は短いものに終わっている。1950年代に彼はアトランティック・レコードとも仕事をし、ここでは「Tipitina」をレコーディングした。当時この曲は地元でしかヒットとはならなかったが、今日ではニューオーリンズの古典的名曲として知られている[9]

教授タイプとバレルハウス・タイプのピアニスト

ニューオーリンズには2タイプのピアニストが存在した。教授タイプとバレルハウス・タイプである。教授タイプはクラシック音楽上がりの者が多く、音楽理論を理解していた。彼らはストーリーヴィルの売春宿において様々なスタイルでプレイしていた。彼らは卓越した技術を持っていたため、聴衆は彼らがどのようなリクエストにも応えることを期待した。このタイプのピアニストとして知られているのはバディ・クリスチャン、クラレンス・ウィリアムズ、アルトン・パーネル、スペンサー・ウィリアムズジェリー・ロール・モートンといった人たちであった。一方バレルハウス・ピアニストたちは音楽教育を受けていないか、受けていたとしてもごく僅かであることが多く、音楽理論は理解していなかった。彼らの多くは独学で楽器を習得しており、主にブルースのスタイルで演奏した。バレルハウス・ピアニストたちはセミ・プロフェッショナルと認識されており、彼らは飲み物、食事、チップを得るために演奏した[10]

人気アーティスト

全米規模の人気を博したニューオーリンズR&Bのミュージシャンには、ロイ・ブラウンデイヴ・バーソロミューポール・ゲイテンスマイリー・ルイスファッツ・ドミノ、アニー・ローリー、ラリー・ダーネルらがいた[11]

ロイ・ブラウン

Roy Brown

ロイ・ブラウンは、ニューオーリンズのアーバン・ブルースの先駆者の一人として、またブルースに最初にゴスペルの要素を取り入れた歌手として認識されている。その「泣き」のサウンドは彼のトレードマークとなった[12]。1947年3月、セシル・ギャントはレインボー・ルームという名のクラブでのブラウンのセットで、彼が「Good Rocking Tonight」を歌うのを耳にした。ギャントはこれを非常に気に入ったため、デラックス・レコードに電話をかけ、ブラウンにこの曲を歌わせた[13]。ブラウンはデラックスとの契約を得て、この曲をJ&Mスタジオでレコーディングした。「Good Rocking Tonight」はニューオーリンズで瞬く間に成功を収め、全米でも約1年後にチャート入りを果たした[14]

この曲は彼の最大のヒット曲となり、この曲の成功のおかげで彼と彼のバンド、ザ・マイティー・メンはカリフォルニア州と米国南西部をツアーして周った[15]。この曲で歌われている「rock」とはセックスを意味するスラングであり、当時多くの人々がこの曲の歌っている意味をそのように解釈していたため、この曲の宣伝もたやすくはなかったはずだが、1949年にデラックスがキング・レコードに買収されると、キングはプロモーションに力を入れたため、この曲は再びチャート入りをすることとなった。[16]

1950年、ブラウンは「Hard Luck Blues」で再びチャート入りのヒットを生んだ。その他ロイ・ブラウンの人気を得た楽曲には「Boogie At Midnight」、「Love Don't Love Nobody」、「Long About Sundown」、「Cadillac Baby」、「Party Doll」、「Let The Four Winds Blow」、「Saturday Night」などがあった[17]

デイヴ・バーソロミュー

Dave Bartholomew

デイヴ・バーソロミューはバンドリーダーであり、トランペット奏者であった。彼のキャリアの初期となる1939年から1942年にかけて、彼は川船 SSキャピトルでファッツ・ピションとともに演奏していた。ピションはここでの契約期間が終わりに差し掛かる頃、ニューオーリンズのオールド・アブシンス・ハウスでのソロのギグを行なうために自ら川船での仕事を辞任した。バーソロミューはその仕事を引き継ぎ1942年に徴兵されるまで、川船での演奏を続けている。従軍期間に彼は第196番AGF楽団のメンバーとして活動し、編曲を学んだ[18]

彼は編曲とバンドを率いることへの自らの情熱に気づいた彼は、ニューオーリンズに戻ってから名を挙げることに前向きになっていた[19]。1949年、バーソロミューはデラックスと契約を締結する。しかし、彼の真の天職は音楽のプロデュースに関わることだった。彼は編曲、プロデュース、タレント・スカウトを行なうバンドリーダーとして地位を確立していった。1950年代にニューオーリンズから生まれた楽曲の多くで彼は共作者として関わっている[20]

ポール・ゲイテン

ポール・ゲイテンは、1920年代初頭に自身のトリオをニューオーリンズに移し、クラブ・ロビン・フッドでのレギュラーの座を確保した。1947年、彼のバンドはアニーローリーのボーカルで「True (You Don't Love Me)」および「Since I Fell For You」の2曲のR&Bヒットをデラックス・レコードより生み出した。デラックス・レコードがキング・レコードに買収された際、デラックスのオーナーだったブラウン兄弟はゲイテンのプロデュースの能力に着目していた。その後間もなく、ゲイテンはチェス・レコードのプロデューサーとして活躍するようになっている[21]

スマイリー・ルイス

スマイリー・ルイス(本名、オヴァートン・エイモス・レモンズ)は、そのキャリア初期において、ニューオーリンズのほぼ全てのコンサート会場で歌い、ギターを弾いていたことで知られていた。彼はその広い声域と深みのある声で、アンプを通さずして会場中に声を通すことができた。戦後になり、彼はハーマン・シールズ、トゥッツ・ワシントンとトリオを結成した。彼らは地元で大きな人気を得ることとなった。新人アーティスト発掘の過程で出会ったルイスをブラウン兄弟は気に入り、彼を1947年にデラックスに迎え入れた。その3年後、彼はインペリアル・レコードと契約し、以後10年に渡りこのレーベルで活躍した。彼は「I Hear You Knockin'」、「The Bells Are Ringing」などの楽曲でまずまずの成功を収めている[22]。しかし、彼の存在は同じインペリアルと契約し、「I Hear You Knockin'」のカバーで全米に知られることとなったファッツ・ドミノの影に隠れてしまった感がある[23]エルヴィス・プレスリーのヒット曲「One Night (Of Love)」は、ルイスが「One Night (Of Sin)」というタイトルでレコーディングした楽曲がオリジナル・バージョンである。1955年のゲイル・ストームによる「I Hear You Knockin'」のカバーはBillboard Hot 100のチャート入りをするヒットとなっている[22]

ファッツ・ドミノ

Fats Domino

1949年、デイヴ・バーソロミューとルー・チャッドはファッツ・ドミノの演奏を聴きにハイダウェイ・クラブを訪れた。彼らはドミノが歌う「Junkers Blues」に感銘を受け、即時インペリアル・レコードと契約を締結した[24]。同年、 彼はバーソロミューのプロデュースの下、J&Mスタジオにて最初のレコーディング・セッションに臨んだ。そのときレコーディングされた8曲のうち、「The Fat Man」が彼の最初のヒットとなった。この曲が特徴的なのは、ドミノのまるでホーン・セクションのようなスキャットの歌声であった[24]

「The Fat Man」の成功に続いて、ドミノはジュウェル・キング、デイヴ・バーソロミューのバンドとツアーに出た。「Goin' Home」が1952年にR&Bチャートの1位になったことにより、彼のスターとしての地位は確立された[25]

彼にとって最大のヒットとなったのは1956年の「Blueberry Hill」である。1950年から1955年の間に、ドミノはR&Bチャートに10回以上登場し続けた[26]。1956年、ドミノは黒人アーティストとして初めてスティーヴ・アレン・ショーに出演した。彼は更にペリー・コモ・ショー、ザ・ビッグ・ビート、ディック・クラークのアメリカン・バンドスタンドなどのテレビ番組にも出演した[27]

ドミノの声はクレオールのイントネーション、鼻にかかったスキャット、温かみのある歌声の絶妙なバランスから成っていた[25]。彼は曲の多くでピアノの三連符を多用したことで知られている。パレードのリズムとバレルハウス・ブルースの要素が含まれているスマイリー・ルイスの「Blue Monday」の彼のカバーは、ニューオーリンズ・サウンドと呼ぶにふさわしいものである[28]。デイヴ・バーソロミューはファッツ・ドミノについて「ロックンロールの礎石である」と述べている[29]

特筆すべきレコード・レーベルとプロデューサー

1960年代:サウンドの変化

脚注

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