コンゴ内でのプール地方の範囲(着色の6箇所)。右下の白い範囲が首都ブラザヴィル
1969年 、コンゴ共和国 に左派 過激派のクーデター が起こり、コンゴ労働党 による一党独裁 の社会主義国家コンゴ人民共和国 が誕生した。1991年 のソビエト連邦の崩壊 の影響で、社会主義国家としての存続が難しくなったため、大統領でコンゴ労働党党首のドニ・サスヌゲソ は国名をコンゴ共和国に戻し、コンゴ労働党を与党 とした形で多党制を認めた。多党制といっても、各党は西洋的な意味での政党 ではなく、その実態は民兵 を有する軍閥 であった[ 4] 。サスヌゲソは、コブラという民兵組織を持った。1992年 に大統領となったパスカル・リスバ は、ココイェ、ズールーという民兵組織を持った[ 5] 。
そしてコンゴ民主統合発展運動 (英語版 ) の党首ベルナール・コレラ (英語版 ) が作った民兵組織がニンジャである[ 6] [ 7] 。コンゴ共和国は国民の半分ほどがコンゴ人 であり、コンゴ人は主に共和国南部に住む。コンゴ人の内、首都ブラザヴィル やその近郊のプール地方 に住む人々はラリ人 (英語版 ) である。コレラもまたプール地方出身であり、ニンジャはラリ人グループを中心に作られた[ 8] [ 1] 。
1993年のコンゴ議会選挙 (英語版 ) が原因で与野党の対立が激化し、ニンジャはコブラと連携してココイェと対立、内戦となった[ 2] 。1994年に停戦となり、1995年に[ 9] 与野党間和平合意が成立した。これにより、各軍閥の民兵は武装解除 され、国家憲兵 や武装警察などの扱いとなった[ 5] 。この武装解除にはユネスコ も協力している[ 4] 。
もっとも、実際には武装解除はうまくいかず、民兵組織は残った[ 4] [ 5] 。コレラは首都ブラザヴィル の市長となり、ニンジャも首都ブラザヴィル、バコンゴ (英語版 ) 地区、マケレケレ地区などを拠点とした。平和時には民兵への給与の支払いが滞りがちで、ニンジャの士気は低下した[ 5] 。
1997年6月、翌月の大統領選を前にして、再びリスバ現大統領(コンゴ正規軍およびココイェ軍閥、ズールー軍閥、マンバ軍閥)とサスヌゲソ前大統領(コブラ軍閥及びコンゴ正規軍のサスヌゲソ派)とが対立し、コンゴ共和国内戦 (英語版 ) が始まった。内戦当初、コレラ(ニンジャ軍閥)は中立を保っており、ニンジャ支配地域は平和を保っていた。
9月、コレラはリスバ現大統領に味方し、コンゴの首相に任命された。ニンジャ軍閥もリスバ派として戦争に参加した[ 5] 。コレラはニンジャをココイェ軍閥に合流させて、新組織コンゴ解放国民運動 (Mouvement National pour la Liberation du Congo, MNLC) を作った[ 4] 。しかし、ニンジャの指揮官の一部、クロード・アーネスト・ンダラ () 、ウィリー・マツァンガ (英語版 ) らは部下と共に離脱し、サスヌゲソ前大統領に味方した[ 5] 。
内戦は、アンゴラ を味方に付けたサスヌゲソ前大統領派が、1997年10月に首都ブラザヴィルを制圧し、大統領に復帰した[ 5] 。コレラ率いるニンジャはプール地方 に退き、サスヌゲソ新政府と対立した[ 4] 。
1999年、ニンジャとココイェは、政府との停戦合意に署名した。停戦後、ニンジャとココイェから2000人が政府に降伏した。ただしニンジャの指導者コレラは停戦合意を否定した。2000年、コレラは報道に対し、自身が有するプール地方のニンジャ兵は1万6千であると話している。しかしこの時点ですでに、コレラはニンジャを、リスバはココイェを完全には掌握していなかった[ 2] 。
2000年、USCIS (英語版 ) のレポートによると、ニンジャは当時、重大な人権侵害、例えば人質 拘束、拷問 、裁判無しの刑罰 (英語版 ) を行っているとされている[ 2] 。
ニンジャを率いた司令官、ントゥミ牧師(2007年の写真)
2002年および2003年、政府軍とニンジャとの間に激しい戦闘が行われ[ 10] 、多くの犠牲が出た[ 11] 。2003年3月、ニンジャの指導者コレラはプール にて、政府との停戦に合意した。もっとも、ニンジャ兵の一部は停戦に納得せず、略奪や列車乗っ取り事件を起こしている[ 12] 。
コレラが影響力を失った後、ニンジャを率いたのは、ニンジャの野戦軍司令官フレデリック・ビツァング (英語版 ) [ 13] だった。彼はプロテスタント の牧師でもあり、ントゥミ牧師と通称される。2003年にントゥミはマスコミに対し「組織を復活させるよう聖霊 からの啓示を受けた」と語っている。ニンジャ兵は紫色のものを身につけるが、これは苦しみを象徴しているという。また、髪はドレッド であり、これは「頭髪 を剃ってはいけない」という聖書の記述に基づいており、世界の終末 を信じている者も多かった[ 14] 。IRIN の2002年の報告によれば、真にニンジャ兵と呼べるのは司令官ントゥミに従う数百であり、それに加えて不熱心な参加者が3千ほどであるとされている[ 1] 。
2007年6月、ントゥミは、プール地方に平和をもたらすため、政府に対する反対運動を、武装放棄して建設的なものに転換すると発表し、プール地方の行政中心都市キンカラ にて、所持する100近い武器の焼却を行った[ 12] 。9月、政府はントゥミに対して公職を用意したが、ントゥミは断っている[ 15] 。
2008年6月10日、ニンジャ兵に対して武装解除・動員解除・社会復帰 (DDR)プログラムも実施された。そしてントゥミ牧師はキンカラにて、ニンジャの解散を発表した[ 16] 。2009年12月、ントゥミ牧師は首都ブラザヴィル に行き、2007年5月に打診されていた平和復興担当職に就いた[ 15] 。
なお、2009年時点においても、元ニンジャ兵の一部がプール地方南部で活動している[ 17] 。2011年にも、プール地方でたびたび元ニンジャ兵による襲撃事件が報告されている[ 18] 。