ヌグザル (アラグヴィ公)

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ヌグザル
ნუგზარ

在位期間
1600年–1611年

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ヌグザル・アラグヴィス・エリスタヴィジョージア語: ნუგზარ არაგვის ერისთავიジョージア語ラテン翻字: Nugzar Aragvis Eristavi)は、ジョージア貴族であり、カルトリ王国の封建領主(エリスタヴィ)である。1600年から1611年までアラグヴィ公国ジョージア語版を統治した。

ヌグザルは先代のアラグヴィ公アヴタンディル1世wikidataの甥であった。叔父アヴタンディル1世が死去したときはまだ幼い少年であり、その後「非嫡出の従兄弟たち」から公国の支配権を奪取したときも成年には達していなかった[1]。ヌグザルは公国を統治するエリスタヴィとなって間もなく、ムティウレティジョージア語版地方を服従させることに成功した[1]

1578年、サファヴィー朝オスマン帝国の戦争が再燃し、両国の間で大規模な戦争が再開された。このオスマン軍の侵攻により、係争地であったジョージアからサファヴィー朝の影響力が抑え込まれた。サファヴィー朝のシャームハンマド・ホダーバンデは、オスマンに対抗して現地の勢力を使う必要に迫られ、アラムートの要塞に幽閉していたカルトリの元国王シモン1世を釈放し、カルトリ王として復位させた[1]。しかしその数か月後、シモン1世はアラグヴィ公ヌグザルの同盟者であるクサニ公ジョージア語版アミラフヴァリ家ジョージア語版に対して攻撃を行った[1]。これは、シモン1世の最初の統治(1556年–1569年)の際、クサニ公やアミラフヴァリ家が見せた反抗的な姿勢に対する報復であった[1]。1580年、シモン1世はヌグザルが頼っていたカヘティ王アレクサンドレ2世ジョージア語版を破った[1]。なおヌグザル自身は、シモン1世の怒りを回避した[1]

1601年、アレクサンドレ2世の病に乗じてその息子ダヴィト1世ジョージア語版がカヘティ王として権力を掌握した後、ヌグザルはダヴィト1世に敗北した[2]。しかしその直後、ヌグザルはカルトリ王ギオルギ10世ジョージア語版に忠誠を切り替えた[1]。ギオルギ10世は娘のホラシャンジョージア語版を、ヌグザルの長男バアドゥルジョージア語版と結婚させると約束した[1]

1603年から1618年にかけてのオスマン帝国とサファヴィー朝の戦争では、サファヴィー朝のシャー・アッバース1世はギオルギ10世とヌグザルを召喚した。その後、両者をカルトリに戻し、防衛の強化を命じた[3]。1610年、ヌグザルが娘婿のギオルギ・サアカゼジョージア語版を迎えたとき、ヌグザルはアラグヴィ地方を流れる3本の川(白アラグヴィ川黒アラグヴィ川プシャヴィ・アラグヴィ川ジョージア語版)に囲まれた山岳渓谷地帯全体を支配していたと伝えられている[1]

ヌグザルに関する最後の記録は1611年のものである[1]。ヌグザルには息子が2人いた(長男バアドゥルジョージア語版、次男ズラブジョージア語版)。バアドゥルがヌグザルの後を継いでアラグヴィ公となり、その後1619年から1629年までズラブがその後を継いだ[4]

注釈

出典

外部リンク

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