シモン1世 (カルトリ王)
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| シモン1世 სიმონ I | |
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カルトリ王シモン1世の肖像画(ジョヴァンニ・オルランディ画) | |
カルトリ王 | |
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在位期間 1556年 – 1569年 | |
| 先代 | ルアルサブ1世 |
| 次代 | ダヴィト11世 |
カルトリ王 | |
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在位期間 1578年 – 1599年 | |
| 先代 | ダヴィト11世 |
| 次代 | ギオルギ10世 |
| 出生 | 1537年 |
| 死亡 |
1611年 イェディクレ要塞(コンスタンティノープル) |
| 埋葬 | スヴェティツホヴェリ大聖堂 |
| 王朝 | バグラティオニ朝 |
| 父親 | ルアルサブ1世 |
| 母親 | タマル |
| 配偶者 | ネスタン=ダレジャン |
| 信仰 | |
| 親署 |
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シモン1世(ジョージア語: სიმონ I、ジョージア語ラテン翻字: Simon I、1537年 – 1611年)、あるいはスヴィモン1世(ジョージア語: სვიმონი I、ジョージア語ラテン翻字: Svimoni I)は、バグラティオニ朝カルトリ王国のメペ(王)である。1556年から1569年まで、および1578年から1599年まで在位した。最初の在位は、サファヴィー朝ペルシアによるジョージア支配との戦争期であった。1569年、シモン1世はペルシアに捕らえられ、9年間の捕虜生活を送った。1578年に釈放され、カルトリ王位に復位した。2度目の在位期間、シモン1世はペルシアの封臣としてオスマン帝国によるジョージア支配に抵抗した[1][2]。1599年、シモン1世はオスマン帝国に捕らえられ、捕虜として死亡した。1557年から1569年まではマフムード・ハーン(ペルシア語: محمود خان、ペルシア語ラテン翻字: Mahmūd Khān)、1578年から1599年まではシャーナヴァーズ・ハーン(ペルシア語: شاهنواز خان、ペルシア語ラテン翻字: Shāhnavāz Khān)として知られていた。オスマン帝国からは「狂王シモン」(トルコ語: Deli Simon)とも呼ばれた[3]。
シモン1世の父親は英雄的なカルトリ王ルアルサブ1世、母親はイメレティ王バグラト3世の娘タマルであり、シモン1世は長男として生まれた。シモン1世は1556年のガリシの戦いにおいて、父ルアルサブ1世の軍を指揮してペルシアの侵略者と戦った。このガリシの戦いの直前に、シモン1世は父ルアルサブ1世によって共同統治者および王位継承者に指名された。ルアルサブ1世は致命傷を負ったが、戦いはシモン1世の勝利に終わり、父ルアルサブ1世の死後すぐにシモン1世が王位を継承した。カルトリ王国の首都トビリシは依然としてペルシアの手に渡ったままであり、シモン1世はゴリに居城を構えた。シモン1世は、占領者から奪還した領土の統治を、ゴリの居城で行った。1559年、シモン1世はカヘティ王レヴァンと同盟を結び、レヴァンの娘ネスタン=ダレジャンと結婚した。シモン1世は1560年以降、トビリシを奪還するための一連の戦闘を開始した。しかし1561年4月のツィヘディディの戦いでシモン1世は敗北を喫し、シモン1世の義弟で同盟者でもあったカヘティ王子ギオルギが命を落とした。同時期、シモン1世の弟ダヴィトはサファヴィー朝のシャー・タフマースブ1世に服従してイスラム教に改宗し、ペルシア軍を率いて王位を主張した。シモン1世はトビリシを封鎖し、ディゴミの戦い(1567年)とサマドロの戦い(1568年)に勝利したが、最終的に1569年のパルツヒシの戦いで敗北して捕虜となった。その後、ダーウード・ハーン(ペルシア語: داود خان)として知られるようになった弟ダヴィトは、ペルシアによって封臣としてのカルトリ王に据えられた。シモン1世はペルシアに送られたが、イスラム教への改宗を拒否し、アラムート城に9年間幽閉された。
二度目の統治と、オスマン帝国との戦い

1578年、サファヴィー朝とオスマン帝国の和平が崩壊し、1578年にオスマンの将軍ララ・ムスタファ・パシャがペルシア勢力をジョージアから駆逐すると、サファヴィー朝はさらなる行動を起こした[2]。当時のサファヴィー朝のシャー・ムハンマド・ホダーバンデは、カルトリの地元住民に人気のある傀儡の支配者を求めていた[2]。そこで、シャー・ムハンマドはシモン1世の釈放を命じ、イスラム教に改宗することを条件にカルトリの王位を提示した[2]。9年間の幽閉により、シモン1世の意思は弱いものとなっており[2]、同年にシモン1世はシャー・ムハンマドの要求を受け入れた。シャー・ムハンマドはシモン1世にトビリシ侵攻を命じ、シモン1世に大砲と、将軍アリグル・ハン・シャムル率いる5,000人のクズルバシュ兵を授けた[2]。シモン1世はオスマン軍に対してゲリラ戦を展開して成功を収めた。そしてシモン1世は1579年までにカルトリの大部分を奪還し、トビリシを包囲した。同時に、シモン1世はサムツヘ公マヌチャル2世ジャケリに蜂起を促し、アハルツィヘでオスマン支配に対する反乱を起こさせた。さらにシモン1世は、ローマ教皇クレメンス8世、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、スペイン王フェリペ2世らの支援を得ようと試みた。しかし、交渉は実質的な成果を生み出すには至らなかった[4]。
1580年、シモン1世はオスマン帝国のカルトリ侵攻を撃退し、1582年にはムフラニの戦いでオスマン軍の主力部隊を破った。当時のオスマン帝国は権力の絶頂期にあり、このオスマンの敗北は、オスマンの不敗神話を打ち砕く大きな影響を与えた。同時期、シモン1世がペルシア語で制定した印章には、「類なき主アッラーは、セミユーン[注釈 1]が心底よりシャーの不変の臣僕たるを知ろしめす。九百三十三年[注釈 2]」と記されている[5]。
1588年から1590年にかけて、シモン1世は西ジョージアのイメレティ王国における権力闘争に3度介入した。ゴパントの戦い(1588年)では、イメレティ王レヴァンに勝利したものの、最終的にはオプシクヴィティの戦い(1590年)で敗北し、オスマンの支援を受けて追い出された。この結果、オスマン帝国が優勢となり、新たに任命された指揮官フェルハト・パシャは1588年までにカルトリを征服した。シモン1世はオスマン帝国と和平を結ぶことを余儀なくされ、毎年貢物を支払うことに同意した。1590年3月21日にコンスタンティノープルで調印された和平条約により、サファヴィー朝もジョージア全土をオスマン帝国の領土として認めた。しかし、シモン1世は1595年に占領者との戦いを再開し、1599年には長期にわたる包囲戦の末にゴリを奪還した。これに対してオスマン皇帝メフメト3世は1599年、タブリーズ総督ジャファル・パシャ率いる大規模な懲罰軍を派遣した[6]。シモン1世はナヒドゥリで懲罰群を迎え撃ったが、戦闘で大敗し、逃亡を試みている最中に捕らえられた[6]。
シモン1世の捕縛後、オスマン皇帝メフメト3世は次の命令を下した。
シモン1世はコンスタンティノープルに送られ、そこでは年老いたシモン1世の世話をするためにジョージアの貴婦人グルチャラが連れてこられた。シモン1世は1611年、オスマン帝国とサファヴィー朝の戦争が終結する直前に、イェディクル要塞で捕虜として死去したが、イスラム教への改宗することはなかった[1]。その後、シモン1世の遺体はジョージア人によって引き取られ、ムツヘタのスヴェティツホヴェリ大聖堂に、父ルアルサブ1世の隣に埋葬された。
家族
シモン1世は1559年にカヘティ王レヴァンの娘ネスタン=ダレジャンと結婚した。2人の間には4男2女が生まれた。
- ギオルギ - カルトリ王(1599年–1606年)
- エレネ - サムツヘ公マヌチャル2世ジャケリと結婚
- ルアルサブ - 1582年に人質としてペルシアに連行された
- アレクサンドレ
- ヴァフタング
- ファフリジャン=ベグム - サファヴィー朝の王子ハムザ・ミルザと結婚。