ノモス (エジプト)
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ノモスと言う用語はギリシア語に由来する。ギリシア語におけるノモスと言う語の意味、起源についてはノモスの記事を参照されたい。この用語はアレクサンドロス大王によるエジプト征服と、その後にマケドニア人[注釈 1]によるプトレマイオス朝が成立したことによって使用されるようになり、現代エジプト学での用語としても定着している。エジプト語ではセパト(spȝt)と呼ばれた。この語は本来「地区」という意味の語であった[5]。セパトを表すヒエログリフは灌漑用水路を表す格子状の象形である[5]。このことは、その起源が農耕と密接に関係していたことを示す[3]。
| セパト(ヒエログリフ) | ||
行政単位であるノモスがいつ頃エジプトに成立したかについては論争がある[6]。一つは先王朝時代から存在していたとするもので、もう一つはエジプト統一王朝の成立(初期王朝時代)以後とする見解であり、結論は出ていない[6]。ノモスの存在を示す最も古い確実な証拠はジェセル王のピラミッドにあったノモス名と支配者(ノモスの長官)の称号であり、これによって第3王朝時代には存在していたことが確実である[6]。また、ノモスの標章と見られる図表は先王朝時代や[6]、第1王朝時代のものも見られるが[4]、実際にノモスと関連するかどうかは確定的ではない[6]。少なくても第1王朝時代には成立していたとされる[7]。
ノモスが先王朝時代に成立したとする場合、その起源は灌漑システムや土木作業、祭礼などを共同管理する地域共同体がノモスの原型であるとされる。この場合、ノモスは部族国家ないし首長国家のような地域国家を源流として持ち、そのような地域国家が統合と分裂を繰り返す中で地域的な統合体が成立したとする[6]。一方で統一王朝以後に成立したとする説は、ノモスが王朝成立以後に行政目的で発生した政治的な産物であるとする。この場合ノモスは中央集権体制における行政地域、地方行政単位として発生したものであるとされる[8]。
標章と守護神
各ノモスには標章と守護神があった。標章は各ノモス独自の象徴であり、ノモスはその標章の形から「ノウサギ州」「トキ州」といった名前で呼ばれた[7]。守護神は原始的信仰、先祖供養、自然崇拝等を基礎としてある小規模な共同体単位のアニミズム的な神として発生した。この神が近隣の町邑まで勢力を拡大すると、それがノモスの守護神となっていった[7]。
古谷野は「ノモスの領域は守護神という理念的概念でイメージ化された象徴的な空間(symbolic space)であろう[8]」としており、ノモスと守護神に対する信仰の関わりは極めて重要であったと考えられている。各ノモスの守護神にちなんだ聖獣があり、プルタルコスは各地域民は、自分達の動物を守り、その動物に傷をつけられれば大いに怒ったと証言しており、守護神信仰が広くノモス住民のアイデンティティと密接に関連していたことを把握できる[9]。
守護神に対する信仰と密接に関係する各ノモスの標章は地域的な特性が強く表れ、下エジプトのノモスにはウシを象った標章が数多く見られる一方、上エジプトのノモスでは全く見られず、国境地帯のノモスでは武器を象ったものが多いなど、ノモス自体の歴史や特徴を物語る物となっている[10]。
州侯
ノモスの長官ノマルコス(nomarchos)は日本語では一般的に州侯と訳され[10]、場合によっては知事[11]などの語で言及される。この州侯は一般にノモス内における農政、行政、治安維持等を司っていた。しかし、各ノモスの内政の実態についてわかっていることはほとんど無い[10]。また、3000年にもわたる歴史の中では当然、その位置付けや権限、存在意義は変化した。プトレマイオス朝時代の州侯に相当する地位は、古王国時代の後半に表れる。前段階として、第4王朝時代の上エジプトでは「ノモスの長官 ḥḥȝ spȝt」や「委任監督官 imy-r wpwt」などの称号が見られ、下エジプトでは「境界監視官 ˁḏ-mr」「王領の長官 ḥḥȝ ḥwt ˁȝt」などの称号があった。初期の時代には強力な中央集権の下で王族の一員や王の信任厚い高官が交代で複数のノモスの施政を行っていたと見られる[10]。第5王朝時代にも広範に地方行政に関わったと考えられる官吏の称号がいくつも見られる。これらの地方行政担当官吏は次第に管轄するノモスに居住するようになり、首都メンフィスに建造していた墳墓を自分の居住地に建設するようになった。それと並行して複数のノモスを管理していた地方行政担当官は次第に単独のノモスのみを司るようになり、第6王朝時代には「州侯」にほぼ対応する称号「○○ノモスの大総督 ḥry-tp ˁȝn ○○(○○にはノモス名が入る)」が現れた[10]。同時に州侯の地位は世襲化し、在地豪族化した州侯は中央権力の弱体化に伴い(またはその原因として)自立勢力と化していった。こうして第1中間期には強大な州侯達(例えばヘラクレオポリス、テーベ等)が新たな王朝を築き覇を争った[12]。分裂したエジプトはテーベの州侯の一族によって再統一され、その統一王朝は中王国(第11、第12王朝)と呼ばれている。
中王国時代前半には、分裂の時代に勢力を蓄えた各地の州侯達の力はなお強大であり、彼等は大規模な墳墓を残している。このような状況から、第12王朝の時代は「州侯の時代」とも評される[13]。中王国の為政者達は、州侯の勢力削減を目指したようであり、地方行政機構の改革が行われた。これによってエジプト全土が「北部 mḥt」、「南部 rst」、「南端部 tp rs」の3地域に分割され、それぞれを運営する「行政官 wˁrtw」が配置された。また、各ノモスは都市に基盤を持つ「市長 ḥȝty-ˁ」によって統括されるようになり、最終的には古王国以来の州侯の地位は事実上廃止された[14]。中王国の後、エジプトの行政区分は上下エジプトと言う伝統的な物に戻された。
領域
各ノモスの領域については、明瞭な境界は不明である。第12王朝前期にはほぼ行政界が明確に規定されたが、行政改革やナイル川の氾濫によって変動を繰り返した[14]。各ノモス間での土地争いが絶えず、この時代には国王自らが州境紛争の解決のために度々奔走している[14]。また、ノモスの位置については、上エジプトのノモスについては相対的には概ねはっきりしているのに対し、氾濫による水没域が広く地形の変動が激しい下エジプトについては不明点が多い[15]。一般的にノモスの地理的範囲は上エジプトではナイル川の片側、もしくは両側に広がる氾濫原(沖積平野)であり、下エジプトはナイル川の支流、砂漠、海によって区切られた境域であった[16]。その大きさは長さにして概ね30キロメートル-40キロメートル程度に収まる、徒歩でも一日で行動可能な範囲で構成された。これが当時の穀物備蓄や農作物の市場にとっての経済的距離でもあったと想定される[16]。
ノモスの数は古い時代にははっきりせず、最終的な上エジプト22、下エジプト20と言う区分けが体系化され確定したのは新王国時代末期であると推定されている[17]。
