ノーラン・ライアン

アメリカの野球選手 (1947 - ) From Wikipedia, the free encyclopedia

リン・ノーラン・ライアン・ジュニアLynn Nolan Ryan Jr., 1947年1月31日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州レフュージオ出身の元プロ野球選手投手)。ニックネームは「Ryan Express」。右投右打。シーズン最多奪三振記録・通算最多奪三振記録保持者。現在はヒューストン・アストロズのエグゼクティブ・アドバイザーを務めている。

生年月日 (1947-01-31) 1947年1月31日(79歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
195 lb =約88.5 kg
概要 ヒューストン・アストロズ エグゼクティブ・アドバイザー, 基本情報 ...
ノーラン・ライアン
Nolan Ryan
ヒューストン・アストロズ エグゼクティブ・アドバイザー
テキサス・レンジャーズでの現役時代(1990年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州の旗 テキサス州レフュージオ
生年月日 (1947-01-31) 1947年1月31日(79歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1965年 MLBドラフト12巡目(全体295位)
初出場 1966年9月11日
最終出場 1993年9月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1999年
得票率 98.2%
選出方法 BBWAA選出
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経歴

プロ入り前

テキサス州レフュージオでリン・ノーラン・ライアン・シニアとマーサ・リー・ハンコックの間に6人兄弟の末っ子として生まれた[1]。その当時ライアン一家は、レフュリオ郡ウッズボロの近くに住んでいた。生後6週間でヒューストン郊外のアルヴィンに引っ越す。家庭は貧しく、父は早朝の新聞配達と石油会社勤務を兼業していた。このような家庭環境からかライアンは早熟で、12歳の頃には自ら貯めた金で子牛を買って育ててそれを売り、その金で新しい子牛を買いまた育てて売る、を繰り返して牛を増やし、高校入学時には自分の牧場を借りるまでになっていた。また中学1年にして自分の車も所有していた[2]。高校時代に7回19奪三振を記録するなど速球派投手として有名だった。

プロ入りとメッツ時代

1965年のMLBドラフトニューヨーク・メッツから12巡目に指名を受け入団。

1966年はA級で17勝2敗、防御率2.51、272奪三振、127四球を記録。奪三振・四球・勝利数は当時のリーグ新記録となった[3]。最優秀投手に選出され、AAA級ウィリアムスポートに昇格。ポータケット戦で9.1イニングで21奪三振を記録した。活躍が評価されてメジャーに昇格し、9月11日のアトランタ・ブレーブス戦でメジャーデビュー。9月18日のヒューストン・アストロズ戦で初先発するが1イニングを4失点で降板し敗戦投手となるなど1敗・防御率15.00に終わった。

1967年は前半陸軍予備兵として過ごし後半に復帰したが、右肘の腱を断裂し、リハビリのためメジャーでの出場はなかった。

1968年は開幕から先発ローテーションに入り、5月14日のシンシナティ・レッズ戦で球団記録(当時)の14奪三振。後半は故障で離脱するが6勝9敗、防御率3.09、134イニングで133奪三振を記録した。

1969年4月9日の開幕第2戦でモントリオール・エクスポズ戦で、同年から公式記録となったセーブを球団史上初めて記録した。主にリリーフとして登板し6勝3敗、防御率3.53を記録し、チームの地区優勝に貢献。ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦で3回途中から登板し、そのまま最後まで投げ切って勝利投手となり、球団創設以来初のリーグ優勝を果たす。ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは第3戦で7回途中からリリーフし、2.1イニングを無失点に抑えてセーブを記録。チームは下馬評を覆し、4勝1敗でワールドチャンピオンに輝いた。これは、自身のキャリアを通じて最初で最後のワールドシリーズ出場となった。

1970年4月18日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では初回先頭打者に安打を打たれるが、その後無安打に抑えて15奪三振でメジャー初完封。終盤はリリーフに回ることが多くなり、7勝11敗、防御率3.42ながら131.2イニングで97四球を記録した。

1971年は前半戦で8勝6敗、防御率2.24を記録するが、後半戦で2勝8敗、防御率7.74と大きく失速。10勝14敗、防御率3.97、152イニングで116四球と制球に苦しんだ。

エンゼルス時代

エンゼルス時代のライアン(1972年)

1971年12月10日にジム・フレゴシとの交換トレードでリロイ・スタントン、他2選手と共にカリフォルニア・エンゼルスに移籍。

1972年はスプリングトレーニングで捕手のジェフ・トーボーグと共にフォーム改造に取り組む。トーボーグは「モーションを急ぐために足の踏み出しに腕の振りが追い付いていない。だからボールが左右ではなく高く逸れる」とフォームを分析し、欠点を指摘した。その後選手会は年金問題を掲げて史上初のストライキに入る。後年彼は当時を振り返り「あの状況が後1週間でも続いたら、私はアルヴィンに戻り、二度と戻るつもりなどなかった。労働者としての職を得て、それで過ごしていくつもりだった」と語っている[4]。ストライキ収拾後はデル・ライス監督やトム・モーガン投手コーチも一致協力し、時間をかけて改造を行う。ライアンは後年「機械的でうんざりすることもあったが、結局はこの作業が私のピッチングを変えることになった」と振り返っている[2]。同年は前半戦で11勝を記録し、自身初のオールスターゲームに選出される。後半戦は防御率1.41と安定感が増し、19勝16敗、防御率2.28、いずれもリーグ最多の329奪三振、9完封、157四球、18暴投を記録し、最多奪三振のタイトルを獲得した。この年の9イニングあたり被安打数5.26は1968年のルイス・ティアントを下回る当時のMLB記録で、60試合制の2020年トレバー・バウアーディネルソン・ラメットに抜かれるまでMLB記録だった(現在もア・リーグ記録)[5]

1973年5月15日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でノーヒットノーランを達成。7月15日のデトロイト・タイガース戦では17奪三振で1938年ジョニー・ヴァンダーミーア以来史上2人目の年間2度目のノーヒットノーラン。最後の打者ノーム・キャッシュはクラブハウスにあったテーブルの脚を持って打席に立った。球審ロン・ルチアーノに制止され渋々バットに持ち替えたが、その際「バットじゃ奴の球は打てない。これを使わせてくれ」と言ったという。シーズン最終登板を前に367奪三振で、サンディー・コーファックス1965年に記録したMLB記録382の更新は難しいと思われたが、9月27日のミネソタ・ツインズ戦で延長11回を完投して16三振を奪い新記録を達成[3]。終盤に7連勝を記録するなど21勝16敗、防御率2.87、383奪三振、MLB記録の2桁奪三振23試合、リーグ最多の162四球を記録したが、サイ・ヤング賞の投票ではジム・パーマーに次ぐ2位で終わった。

1974年8月12日のボストン・レッドソックス戦でMLBタイ記録(当時)の19奪三振を記録。8月20日のタイガース戦で、球団の企画で赤外線レーダーによる球速の測定が行われ、そこで記録されたのが100.9mph(162.4㎞/h)で、ギネス世界記録に認定された[6]。しかし全ての球を計測したわけではなく、その1球は9回に記録された。本人も「あれ以上に速いと思ったボールもあった」と語っている。9月28日のツインズ戦では15奪三振で3度目のノーヒットノーランを達成。キャリアハイの22勝(16敗)、防御率2.89、いずれもリーグ最多の367奪三振、332.2イニング、202四球を記録。200四球は1938年のボブ・フェラー以来36年ぶりだった。

1975年6月1日のオリオールズ戦で3年連続4度目のノーヒットノーランを達成し、コーファックスに並ぶ。6月6日までに10勝を記録するが、その後8連敗。8月に故障で戦線離脱し、14勝に留まった。

1976年は8月28日まで10勝17敗だったがその後7勝1敗と巻き返し、いずれもリーグ最多の18敗(17勝)、327奪三振、7完封、183四球を記録した。

1977年5月19日から6月16日にかけて7試合連続2桁奪三振を記録した。19勝16敗、防御率2.77、いずれもリーグ最多の341奪三振、22完投、204四球、21暴投を記録した。

1979年はシーズン初登板で打ち込まれたがその後復調。終盤失速したが16勝14敗、防御率3.60、共にリーグ最多の223奪三振、5完封を記録し、チーム創設以来初の地区優勝に貢献。オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発登板したが7イニングを3失点(自責点1)で勝敗付かず、チームは1勝3敗で敗退した。オフにGMのバジー・バベシに「勝率5割の投手」と見切りをつけられて[7]フリーエージェントとなった。

アストロズ時代

アストロズ時代のライアン(1983年)

1979年11月19日にアストロズと4年総額450万ドルで契約し、史上初の100万ドルプレーヤーとなった[8]

1980年は11勝10敗に留まるが、チームは創設以来初の地区優勝を果たす。フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発登板し、7イニング途中を2失点も勝敗付かず。最終第5戦では7回を終わって5-2とリードしていたが、8回に捕まり降板。延長の末チームは敗れ、リーグ優勝はならなかった。

1981年は9月26日のロサンゼルス・ドジャース戦で史上最多5度目のノーヒットノーランを達成した。11勝5敗、防御率1.69を記録し、自身初の最優秀防御率のタイトルを獲得した。しかし、この年は50日間に及ぶストライキを実施した影響でレギュラーシーズン公式戦が一時中断された。この結果、シーズンの短縮が決定したのだが、試合数が減少する対応策としてシーズンを前期と後期に分けるスプリットシーズン制を採用した。レギュラーシーズン終了後のプレーオフでは先ず、東地区と西地区の中で前期と後期の最高勝率チームによるディビジョンシリーズ(地区優勝決定戦)を行った。このディビジョンシリーズを制した2チームがセカンドステージであるリーグチャンピオンシップシリーズ(リーグ優勝決定戦)へと進出した。ディビジョンシリーズへ進出したチームは東地区がフィリーズとエクスポズ、西地区はドジャースとアストロズだった。当時、アストロズはナショナルリーグ西地区所属であり、後期優勝のチームだった。ドジャース対アストロズのディビジョンシリーズでは第1戦に先発登板してフェルナンド・バレンズエラと投手戦を演じ、2安打、1失点で完投勝利した。しかし、ディビジョンシリーズ2度目の先発となる第5戦では6イニングを自責点2の好投も敗戦投手となった。結局は、ドジャースがアストロズを破った。アストロズはディビジョンシリーズ敗退(対戦成績2勝3敗)で終わった。

1982年は開幕から4連敗を喫するなど前半戦は不調だったが、後半戦で防御率2.11を記録するなど復調し、16勝12敗、防御率3.16、245奪三振を記録した。

1983年5月2日の古巣メッツ戦で通算3510個目の三振を奪い、ウォルター・ジョンソンが持つ通算奪三振のメジャー記録を更新[9]。その後故障で1カ月離脱するものの、前半戦で防御率1.94を記録。後半戦でやや数字を落としたが、14勝9敗、防御率2.98を記録した。

1985年は途中8連敗を喫するなど10勝12敗に終わる。

1986年は後半戦で防御率2.27を記録し、チームは6年ぶりの地区優勝を果たす。古巣メッツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発登板するが5イニングを5失点で敗戦投手。第5戦ではドワイト・グッデンと投手戦を演じ、9イニングを2安打、12奪三振、1失点と好投するが延長の末に敗戦投手となり、チームも2勝4敗で敗退した。

1987年は好投しながら打線の援護に恵まれず、途中8連敗を喫するなど8勝16敗と大きく負け越して連続2桁勝利が16年で途切れたが、共にリーグトップの防御率2.76、270奪三振を記録し、移籍後初の最多奪三振を獲得。サイ・ヤング賞の投票では5位に入った。最優秀防御率と最多奪三振を獲得しながら受賞を逃したのは史上3人目、4度目[注釈 1]

1988年は12勝11敗、228奪三振で2年連続の最多奪三振を獲得。オフにフリーエージェントとなった。

レンジャーズ時代

1988年12月7日にテキサス・レンジャーズと契約。この時ライアンは日本球界入りに前向きであり、オリックスと契約寸前に漕ぎ着けていた[10]

1989年は前半戦で10勝を記録。8月22日のオークランド・アスレチックス戦で5回にリッキー・ヘンダーソンから三振を奪い、空前絶後の通算5000奪三振を達成。16勝10敗、防御率3.20、12年ぶりの300奪三振となる301奪三振で3年連続の最多奪三振を獲得し、サイ・ヤング賞の投票で5位に入った。

1990年は43歳にして開幕投手を務め、5回を無安打に抑える。4月26日のシカゴ・ホワイトソックス戦で球団記録の16奪三振で1安打の完封勝利を挙げ、6月11日のアスレチックス戦で自身6度目のノーヒットノーランを達成。3球団での達成は史上初だった。7月31日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で史上20人目の通算300勝を達成。13勝9敗、232奪三振で4年連続の最多奪三振を獲得した。

1991年5月1日のトロント・ブルージェイズ戦は体調が悪く、「5回まで持たないかもしれないから、代わりの投手を用意しておいてくれ」と言い残しての登板だったが[8]、16奪三振で7度目のノーヒットノーランを達成。44歳3カ月での達成は現在でも史上最年長記録である。12勝6敗、防御率2.91、203奪三振、リーグトップのWHIP1.01を記録した。

ライアンのエンゼルス在籍時の背番号「30」。
カリフォルニア・エンゼルスの永久欠番1992年指定。

1992年は故障もあって6月まで1勝に留まるが、7月4日のニューヨーク・ヤンキース戦で13奪三振の完投勝利を挙げるなど7月に4勝、防御率1.96を記録した。しかしその後は援護に恵まれず6連敗を喫し、5勝9敗に終わる。同年エンゼルス在籍時の背番号30』が永久欠番に指定された。

1993年9月22日のシアトル・マリナーズ戦で一死も取れずに2安打、4四球、5失点で降板。降板後に右肘に痛みが走り、残りのシーズンの登板を回避したことにより、これが現役最後の登板となった。46歳にして速球は98mph(約157.7km/h)を記録した[7]

引退後

ライアンのアストロズ在籍時の背番号「34」。
ヒューストン・アストロズの永久欠番1996年指定。
ライアンのレンジャーズ在籍時の背番号「34」。
テキサス・レンジャーズの永久欠番1996年指定。

1996年にアストロズとレンジャーズでの背番号『34』が、それぞれ永久欠番に指定され、特にレンジャーズでの永久欠番は球団初だった。3球団での永久欠番は史上初[注釈 2]だった。ただし、メッツの『34』は1年しかつけていないため、永久欠番にするには相応しくないとして指定されなかった。

1999年に資格取得1年目で野球殿堂入りを果たす。殿堂入りは記者投票で決まるが、ライアンの得票数491票は歴代1位(当時)、得票率98.79%はかつてメッツのチームメイトだったトム・シーバーに次ぐ歴代2位だった。「レンジャーズに在籍した時、私のキャリアと試合における存在感は一段上のレベルになった。あの何年かは、私にとって特別なものだ」と[7]殿堂プレートのライアンはレンジャーズの帽子を被っており、レンジャーズの選手として初の殿堂入りとなった。また同年MLBオールセンチュリー・チームの右投手部門で1位に選ばれている。

2006年にはアストロズで特別アドバイザーを務め、後進の指導を行った。アストロズ在籍時のロジャー・クレメンスと撮影したツーショット写真もある[8]

レンジャーズ時代の監督でNPB千葉ロッテマリーンズでも監督を務めたボビー・バレンタインとは旧知の間柄であり、その縁もあって2007年7月18日に千葉マリンスタジアムで行われたオリックス・バファローズ戦で始球式を行った。

2008年2月6日にレンジャーズの球団社長に就任。1925年以来初めての、殿堂入り選手によるメジャーリーグ球団社長就任となった[11]

2011年3月11日にはCEOに就任した[12]

2013年10月17日にレンジャーズのCEOを10月31日限りで辞任することを発表した[13]

2014年2月11日に古巣・アストロズのエグゼクティブ・アドバイザーに就任した[14]

選手としての特徴

スリークォーターから最速100.9mph(約162.4km/h)のフォーシームに、縦に大きく割れる一級品のカーブサークルチェンジを持ち球に、数多の強打者たちから三振の山を築いていった。ただし全盛期の制球力は良くなく、与四球2795と暴投277はMLB歴代一位である。

通算投球回数2000回以上の投手が対象である、投球回数9回に対する通算の奪三振率が9.0以上の投手7人のうちの1人であり、投球回数9回に対する通算の奪三振率9.55は、マックス・シャーザーランディ・ジョンソンペドロ・マルティネスクレイトン・カーショウに次いでMLB史上5位である[15]。3000投球回以上ではジョンソンに次ぐ歴代2位で、歴代5位の5386回を投げながら高い奪三振率を維持できた身体の頑丈さもMLB史上屈指と言える。

当時、異端児と言われた投手コーチのトム・ハウスと二人三脚で編み出した独特のトレーニング法・調整法は後年の投手に多大な影響を与えた。その徹底された健康管理とトレーニング方法は著書「ピッチャーズ・バイブル」に詳細に書かれている。また、投手には一般的でないどころか、害になるとさえ言われていたウエイトトレーニングを取り入れ、肩周辺のローテーターカフ(いわゆるインナーマッスル。当時はこれらの言葉も一般的ではなかった)もアウターマッスル同様に鍛えるエクササイズを取り入れていたことは、驚くべきことである。「投手は若い内はより多くのイニングを投げて肩を作るべきだ」という独自の理論を持っており、現在のMLBでスタンダードとなっている「先発投手は1試合100球・1シーズン200イニング」という考え方に疑問を持っているとのコメントが「ピッチャーズ・バイブル」の中において、ある研究者へ寄せられている。

ノーヒットノーランを7回達成している[16]。また8回まで無安打だったのに9回で安打を許してしまったことが5試合あったとのこと[17]。通算被安打率(9回ごとの被安打数)6.56は1000投球回以上での歴代1位[18]、1972年のシーズン被安打率5.26は規定投球回以上での歴代3位[5]

投手としての球種はカーブ、サークルチェンジ(1986年頃から)『米書 guide to pitchers』より

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...




















































W
H
I
P
1966 NYM 21000010--.000173.0513106105515.002.67
1968 2118300690--.400559134.0931275441337050463.091.25
1969 2510200631--.66737589.16035331921338353.531.26
1970 27195207111--.389570131.2861097241258059503.421.39
1971 302630010140--.417705152.012581164151376178673.971.59
1972 CAL 3939209019160--.5431154284.01661415741032918080722.281.14
1973 4139264021161--.5681355326.023818162273831501131042.871.23
1974 4241263022160--.5791392332.22211820239367901271072.891.27
1975 2828105014120--.538864198.0152131320718612090763.451.43
1976 3939217017180--.4861196284.11931318325327521171063.361.32
1977 3737224019160--.5431272299.01981220479341213110922.771.34
1978 3131143010130--.4351008234.21831214873260132106973.721.41
1979 3434175016140--.533937222.2169151143622390104893.601.27
1980 HOU 353542011100--.524982233.2205109813200101100873.351.30
1981 21215301150--.688605149.0992681114016234281.691.12
1982 3535103016120--.5711050250.11962010938245182100883.161.22
1983 29295211490--.609804196.11349101341835174652.981.20
1984 303052012110--.522760183.21431269241976378623.041.15
1985 353540010120--.455983232.0205129589209142108983.801.29
1986 30301001280--.600729178.011914825419415072663.341.13
1987 34340008160--.333873211.215414872427010275652.761.14
1988 333341212110--.522930220.018618876722810798863.521.24
1989 TEX 323262116100--.615988239.116217983930119196853.201.09
1990 30305201390--.591818204.01371874272329186783.441.03
1991 27272201260--.667683173.01021272052038058562.911.01
1992 2727200590--.357675157.11389690121579075653.721.32
1993 1313000550--.50029166.15454001463047364.881.42
MLB27年 8077732226143242923--.526225755386.03923321279578158571427733217819113.191.25
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年度別守備成績

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投手(P)












1966 NYM 210001.000
1968 2151140.800
1969 250410.800
1970 27111042.840
1971 3051532.870
1972 CAL 3972862.854
1973 41112821.951
1974 42124861.909
1975 28121873.811
1976 39143471.873
1977 37203581.873
1978 31133383.852
1979 3482941.902
1980 HOU 35132750.889
1981 2151613.955
1982 3593321.955
1983 2942820.941
1984 3071120.900
1985 3562020.929
1986 30101722.931
1987 34111811.967
1988 3381840.867
1989 TEX 32111930.909
1990 30713011.000
1991 27714011.000
1992 2721631.857
1993 131430.625
MLB 8072205479027.895
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タイトル

表彰

記録

背番号

脚注

関連項目

外部リンク

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