ハロルド・ロス
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- 雑誌編集者
- ジャーナリスト
ハロルド・ロス | |
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| Harold Ross | |
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| 生誕 |
Harold Wallace Ross 1892年11月6日 |
| 死没 |
1951年12月6日(59歳没) |
| 墓地 | コロラド州アスペン アスペン・グローヴ墓地 |
| 職業 |
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| 活動期間 | 1910年代 - 1951年 |
| 配偶者 | |
| 子供 | 1人 |
| 兵役経験 | |
| 所属組織 | |
| 部門 | アメリカ陸軍 |
| 軍歴 | 1917年 - 1919年 |
| 戦闘 | 第一次世界大戦 |
ハロルド・ウォレス・ロス(Harold Wallace Ross、1892年11月6日 - 1951年12月6日)は、アメリカ合衆国の雑誌編集者、ジャーナリストである。1925年に当時の妻ジェーン・グラントとともに『ザ・ニューヨーカー』誌を創刊し、生涯に渡り編集主幹を務めた。
ロスは1892年11月6日にコロラド州アスペンの採掘小屋で生まれた[1]。父はスコットランド系アイルランド人移民の[2]鉱夫であるジョージ・ロス、母は教師のアイダ(旧姓マーティン)だった[3]。ハロルドが8歳のとき、銀の価格暴落のため、一家はアスペンを離れ、コロラド州のレッドクリフ、シルバートンを経て、ユタ州ソルトレイクシティに移り住んだ。ソルトレイクシティでは、ウェスト高校で学内新聞の編集に携わり、高校在学中に同市を代表する日刊紙である『ソルトレイク・トリビューン』のストリンガー(非常勤記者)も務めた。13歳で高校を中退し、家出をしてデンバーの叔父の家に逃げ込み、そこで『デンバー・ポスト』紙の記者として働いた。その後、ソルトレイクシティの家族の元に戻ったが、学校には復帰せず、小さな夕刊紙『ソルトレイク・テレグラム』に就職した。
25歳までに、『アピール』(メアリーズビル)、『サクラメント・ユニオン』、『パナマ・スター・アンド・ヘラルド』(パナマシティ)、『ニューオリンズ・アイテム』、『アトランタ・ジャーナル』、『ホブソン・オブザーバー』(ホーボーケン)、『ブルックリン・イーグル』、『サンフランシスコ・コール』など、数多くの新聞社を渡り歩いた。アトランタでは、「世紀の裁判」の一つとされるレオ・フランク事件の裁判を取材した。
軍役
第一次世界大戦中はアメリカ陸軍(アメリカ外征軍)に入隊し、第18工兵連隊に配属された。フランスで従軍中、連隊の隊内新聞"The Spiker"の編集を担当し、1918年2月から1919年4月までは軍の準機関紙『星条旗新聞』のためにパリで働いた。ロスの主張によれば、彼はラングルの士官学校からパリまで150マイル歩いて向かったという[3][1]。パリ滞在中に、アレクサンダー・ウールコット、サイラス・リロイ・ボルドリッジ、フランクリン・P・アダムス、そして、後に最初の妻となるジェーン・グラントと出会った。
第一次世界大戦後は、ニューヨークで退役軍人向けの雑誌『ザ・ホームセクター』(The Home Sector)の編集長に就任した。同誌は1920年に"American Legion Weekly"に吸収された。ロスはユーモア雑誌『ジャッジ』で数か月働いた。
『ザ・ニューヨーカー』

ロスは、都会的な感性と洗練されたトーンの新しい雑誌を企画し、当時の妻ジェーン・グラントとともに『ザ・ニューヨーカー』を創刊した。創刊号は1925年2月21日号だった。ロス夫妻は、フライシュマン・イースト社の跡取り息子であるラウル・フライシュマンとパートナーシップを結び、『ザ・ニューヨーカー』誌出版のためのF-R出版社を設立した[4][5]。
ロスはアルゴンキン・ラウンド・テーブルのオリジナルメンバーの一人であり、『ザ・ニューヨーカー』の創刊には、その人脈を活用した。アレクサンダー・ウールコットはロスを「不誠実なエイブラハム・リンカーン」と評していたが[6]、その人柄はこの新しい雑誌に才能ある作家を惹きつけ、ウールコット、ジェームズ・サーバー、E・B・ホワイト、ジョン・マクナルティ、ジョセフ・ミッチェル、キャサリン・S・ホワイト、S・J・ペレルマン、ジャネット・フラナー、ウォルコット・ギブス、セントクレア・マッケルウェイ、ジョン・オハラ、ロバート・ベンチリー、ドロシー・パーカー、ウラジーミル・ナボコフ、サリー・ベンソン、A・J・リーブリング、J・D・サリンジャーなどの作家たちがこの雑誌に寄稿した[3]。
この雑誌の当初の目論見書には、「『ザ・ニューヨーカー』はダビュークの老婦人のために編集された雑誌ではない」と書かれていた[3]。サーバーは、この文章はロスらしくないとして[7]、ロスの目標を次のように要約した。
「カジュアル」とは、あらゆる種類の小説やユーモア作品を指すためにロスが用いた言葉である。これは、無造作で(offhand)、話好きで(chatty)、形式張らない(informal)気質をこの雑誌に与えようというロスの決意を示している。それは苦心の跡が見えたり考え抜かれたものであってはならず、芸術的・文学的・知的なものであってはならない[8]。
ロスは性的な話題を禁止し、下品なジョークやダブルミーニングがないか全ての作品や記事をチェックし[9]、不適切と判断した広告は却下した。ロスは運命論的な作品を嫌い、彼が「陰鬱」(grim)と呼んでいた「社会意識的なもの」を最小限に抑えようとした[10]。
第二次世界大戦中は、多くの寄稿者が戦時任務に就いたため、『ザ・ニューヨーカー』は最小限の人員で運営された。ロスと助手のウィリアム・ショーンは、この時期週に6~7日働いていた。関係構築のため、ロスらは戦争省のPR作品を掲載した。ロスは、ジョン・ハーシーが書いた、当時海軍軍人だったジョン・F・ケネディに関する記事"Survival"を、承認を得るために事前に戦争省に提出した。ケネディの父ジョセフ・P・ケネディは、この記事が小規模でニッチすぎる『ザ・ニューヨーカー』に掲載されたことに失望した。それを知ったロスは、苛立ちを覚えつつも、自分の雑誌が小規模であることを認め、この記事を『リーダーズ・ダイジェスト』に転載することを認めた。後に、ケネディの連邦下院議員選挙、大統領選挙の際、『リーダーズ・ダイジェスト』に掲載された記事のコピーが大量に配布されることとなった[11]。
ロスは雑誌編集の仕事に没頭し、そのために3度の離婚を経験することとなった。ロスは慎重かつ誠実な編集者であり、原稿を明快かつ簡潔に保つことに努めた。ロスが自身の雑誌の寄稿者によくしていた質問は「それは誰だ?」(Who he?)だった。ロスは、英語圈で誰もが知る人物はハリー・フーディーニとシャーロック・ホームズの2人だけであると信じていた[12]。
ロスは自身の教育レベルの低さを自覚しており、H・W・ファウラーの『現代英語用法辞典』を聖書のごとく扱った。ロスは創刊から死去するまでの1399号の全てを編集した。ロスは、コンマを多用する悪癖で知られていた[12]。自身の死後の後任の編集長にショーンを指名し、ロスの死後、ビジネスパートナーのフライシュマンがそれを承認した[13]。
ジェームズ・サーバーは1959年の回顧録『ロスとの日々』で同僚たちの回想を引用し、『ザ・ニューヨーカー』のスタッフを形作ったのが、ロスの悪ふざけ、気性、卑語、反知性主義、執念、完璧主義、そして、ほぼ恒常的な社交不安であったことを語っている。ロスと『ザ・ニューヨーカー』は、知識階級や新聞人の間で徐々に知られていった。サーバーは、ロンドンの『タイムズ』紙のワシントン特派員ジョン・ダンカン・ミラーが1938年にロスと会った後の言葉を引用している。
最初の30分間は、ロスが『ザ・ニューヨーカー』を編集できる世界で唯一の人物だと思っていた。しかし、その場を離れる頃には、世界で彼以外にそれをできる人物はいないと悟った[14]。
ロスは膨大な量の書簡を保管しており、それらはニューヨーク公共図書館に保存されている。
私生活
伝記
- Kunkel, Thomas (1995), Genius in Disguise: Harold Ross of the New Yorker, New York: Random House, ISBN 0-679-41837-7.
- Yagoda, Ben (2000), About Town: The New Yorker and the World It Made, New York: Scribners, ISBN 0-684-81605-9.
- Top Hat and Tales: Harold Ross and the Making of the New Yorker (movie) (Carousel Film and Video, 2001, 47 minutes)[15][16]