ハードボイルド・ハガティ

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リングネーム ハードボイルド・ハガティ[1]
本名 Donald J. Stansauk[1]
ニックネーム 喧嘩狂[2]
身長 185cm[1]
ハードボイルド・ハガティ
ハードボイルド・ハガティの画像
1952年
プロフィール
リングネーム ハードボイルド・ハガティ[1]
本名 Donald J. Stansauk[1]
ニックネーム 喧嘩狂[2]
身長 185cm[1]
体重 118kg - 129kg[1]
誕生日 1925年4月2日[1]
死亡日 (2004-01-27) 2004年1月27日(78歳没)[1]
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州の旗 カリフォルニア州
ロサンゼルス郡ロサンゼルス[1]
スポーツ歴 アメリカンフットボール[3]
デビュー 1950年[4]
引退 1973年
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ハードボイルド・ハガティHard Boiled Haggerty、本名:Donald J. Stansauk1925年4月2日 - 2004年1月27日)は、アメリカ合衆国プロレスラー俳優カリフォルニア州ロサンゼルス出身。

現役レスラー時代は「喧嘩狂」の異名を持つヒールとしてラフファイトを繰り広げた[2]。後年はジョン・F・ケネディとも親交を持った[2]

パサデナ・シティ・カレッジとデンバー大学ではアメリカンフットボールで活動し、ドラフトNFLデトロイト・ライオンズに入団[5]。その後、グリーンベイ・パッカーズディフェンシブタックルとして移籍した[5]

フットボールのオフシーズンを利用してプロレスのリングに上がり、1950年ウィスコンシン州グリーンベイにて本名でデビュー[5]。その後、本格的にプロレスに転向した(「喧嘩狂」のイメージを印象付けるプロフィール上の設定では、大学は喧嘩で放校、プロフットボールもトラブルを起こして追放。合法的に喧嘩のできる商売としてプロレスに転向した、などとされている)[2]

1950年代前半はミネアポリスサンフランシスコで活動。サンフランシスコでは1954年1月19日、アメリカ修行中だった力道山と対戦[6]。ミネアポリスでは同年11月30日、ルー・テーズの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦[7]。以降、NWA世界王座には1959年にかけて再三挑戦した[8][9][10][11][12]

1950年代後半はバンクーバートロントモントリオールカルガリーなどカナダの主要テリトリーを転戦。トロントでは1956年9月20日、ディック・ハットンとのコンビでカナディアン・オープン・タッグ王座を奪取[13]。モントリオールでは同年10月3日、キラー・コワルスキーを破ってケベック地区認定の世界ヘビー王座を獲得している[14]1958年からはハワイにも進出、ホノルルでは1960年ロード・ブレアースらのチームを下してNWAハワイ・タッグ王座を奪取した[15]

1960年下期より、ミネアポリスでバーン・ガニアが旗揚げしたAWAに参戦、10月4日にレン・モンタナと組んでAWA世界タッグ王座を獲得[16]。翌1961年3月からはモンタナの負傷によりジン・キニスキーを新パートナーに迎え、ウイルバー・スナイダー&レオ・ノメリーニとタイトルを争った[16]。AWAではガニアの保持していたAWA世界ヘビー級王座にも1962年にかけて度々挑戦している[17][18]。キニスキーとはカナダのバンクーバーでもタッグを組んで活動、1962年8月にはホイッパー・ビリー・ワトソン&ベアキャット・ライトからNWA太平洋岸タッグ王座を奪取した[19]

1963年7月、日本プロレスの『夏の国際試合』中盤戦に特別参加で初来日。東京・渋谷のリキ・スポーツパレスで行われた同月26日の来日第1戦ではドン・ジャーディン&ミスター・ゼロ(クルト・フォン・ブラウナー)[20]と組み、力道山豊登吉村道明と6人タッグマッチで対戦[21]。試合途中で控室から野球のバットを持ち出し、力道山の足を滅多打ちにするという暴挙で悪名を轟かせた[22]。同年9月開幕の『秋の国際試合』にもサニー・マイヤースバディ・オースチンらと共に参戦したが、力道山とのシングルマッチは行われず[23]、決着がつかないまま同年暮れに力道山は死去。結果として「力道山が退治できなかったガイジン・レスラー」の1人となった[22]

1964年より、地元ロサンゼルスのWWAに参戦。ザ・デストロイヤーをパートナーに、7月30日にラモン&アルベルトのトーレス兄弟、11月3日にフレッド・ブラッシー&ミスター・モトを破り、WWA世界タッグ王座を同年に2回獲得[24]。並行してハワイにも遠征し、1965年2月24日にエンリケ・トーレスからUSヘビー級王座を奪取、9月15日にカーティス・イヤウケアに敗れるまで戴冠している[25]。WWAには1967年まで出場し、ペドロ・モラレスマーク・ルーインといった新しい世代の選手や、日本から遠征してきた坂口征二、さらにはカール・ゴッチとも対戦した[26]

1968年からは古巣のAWAで活動。スナイダー、クラッシャー・リソワスキーマッドドッグ・バションカウボーイ・ビル・ワットらと対戦し、ガニアのAWA世界ヘビー級王座にも再び挑戦した[27]

1960年代末より俳優業を本格的に開始して、1971年にはクリント・イーストウッド主演の『ダーティハリー』にも出演[5]1973年にレスラーを引退して俳優に転身、数々の映画やテレビドラマ、CMなどで活躍した[5]

2003年6月20日、自動車事故により首を骨折する重傷を負う[4][5]。退院後、リハビリテーションを続けていたが、翌2004年1月27日カリフォルニア州マリブの自宅にて死去した[4][5]78歳没

得意技

獲得タイトル

モントリオール・アスレチック・コミッション
  • 世界ヘビー級王座:1回[14]
ミッドウエスト・レスリング・アソシエーション
NWAサンフランシスコ
NWAロサンゼルス
  • NWAビート・ザ・チャンプTV王座:1回[31]
NWAビッグタイム・レスリング
  • NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / スチュ・ギブソン)[32]
メープル・リーフ・レスリング
NWAオールスター・レスリング
NWAミッドパシフィック・プロモーションズ
アメリカン・レスリング・アソシエーション
ワールドワイド・レスリング・アソシエーツ

出演作品

脚注

外部リンク

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