ハーマン号事件
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犠牲者数
史料によって乗船者数、死亡者数に違いがある。
- 「肥後藩国事史料」によると、乗船者347人のうち生存者は136人、死者・行方不明者は211人。同書には乗船した藩兵ら約345人(大略三百四拾五人)のうち136人が生存(内百三拾六人 存生)、209人が死亡および行方不明(残貳百九人、百二十四人 生死不定、十二人 死骸相分、七拾三人 但此分死亡ト有之死骸相分居候も有之由)との記載があるが、乗船者の一覧には名前が分からない125人も含めて346人分の記載があり、生存および存生または存命が136人、死亡73人、死骸相分12人、行方不明(生死未相分)125人。同書には乗船者一覧にある死亡および行方不明の210人のほかに、御番方・岩越勝左衛門も溺死したらしい(相分不申全溺死とは相見へ候)、との書入が「熊本県庁所蔵明治二年機密間日記」にあると記されており、死者・行方不明者は211人となる[2]。
- 「靖国神社忠魂史」によると、乗船者391人(藩兵265人、夫卒126人)のうち死者は164人(死者には前記の岩越勝左衛門も含まれている)[3]。
- 「幕末維新全殉難者名鑑」によると、死者は218人、靖国神社への合祀は166人[4]。
- 「明治二年奥州出征米国船ハーマン号勝浦沖遭難絵巻」の詞書によると、乗船した349人のうち、存命141人、溺死208人(侍37人、徒士4人、足軽76人、昇之者3人、徒僕38人、雇夫50人)。同書には、津軽君より溺死者(溺死之面々)に香典を下された、との記述があり、その対象人数は207人(仁保達三郎、西川十郎右衛門、平野英兵衛、平士37人、足軽76人、昇之者3人、僕38人、夫50人)となっている[5][6]。
- 新聞「The Japan gazette」や「The Japan Times' Overland Mail」に掲載されたニューウェル船長(Captain Newell)の手記によると、乗客は350人、乗員は80人。乗員の生存者は58人、行方不明者は22人[7][8]。死亡した乗員の埋葬場所は未確認[9]。
- 「千葉県夷隅郡誌」によると乗船者は藩兵350人、溺死者210人。遺体105を埋葬[10]。
- 「American Steamships on the Atlantic」によると乗船した日本人の兵士350人のうち過半数が死亡した[11]。
ハーマン号概要
「ハーマン」(Hermann)は、Ocean Steam Navigation Companyがニューヨーク市のJacob A. Westervelt & William Mackey Co.で建造した木造の外輪蒸気船で、1847年9月30日に進水。1848年3月21日から処女航海を行い、1857年まで大西洋航路に就役した。建造時の仕様は全長:234フィート11インチ(71.6m)全幅:39フィート6インチ(12m)、喫水:31フィート7インチ(9.6m)、載貨重量トン数:1,734 45/95トン(95立方フィートを1トンとし、船の全長と全幅から積載量を算出するアメリカ方式のビルダーズ・オールド・メジャメントによる[12])であったが、荒天や事故による損傷、船体の補強、機関の改造、外輪の変更など、複数回の修理・改装により船容は大きく変化しており、船の所有者も複数回変わっている。1859年2月、負債のため差し押さえられ、4万ドルで売却される。その後、Pacific Mail Steamship Companyが購入。改装され、1867年3月1日にサンフランシスコから横浜に向けて出航。1868年、日本沿岸航路に就役している[11]。
慰霊

- 官軍塚 - 明治2年2月(1869年)に犠牲者170名を埋葬した華立墓地(官軍塚園地駐車場付近)の跡地[13]。「千葉県夷隅郡誌」によると埋葬された人数は105名[10]。1878年5月1日に建立された慰霊碑「華立巌碑」と記念碑が建っている(慰霊碑は1947年に現在地に移転)。千葉県指定文化財(史跡)。官軍塚園地は南房総国定公園の一部で国有地。所在地、千葉県勝浦市川津1394[14][15]
- 回向院 - 境内に明治2年3月(1869年)に富岡文吉らが建立した山鹿屋人足の供養碑「溺死四十七人墓」があり、墓の台石には「山鹿屋」と刻まれている。「肥後藩国事史料」によると山鹿屋人足は50人が行方不明(生死未相分)、16人が存命となっている[2]。また「明治二年奥州出征米国船ハーマン号勝浦沖遭難絵巻」にある溺死した雇夫50人がこれに該当すると思われる[5]。墨田区登録文化財、石造海難供養碑の一部[16]。所在地、東京都墨田区両国2-8-10
- 西信寺(さいしんじ) - 境内に明治2年3月3日(1869年4月14日)に建立された永代供養碑がある。施主は伏見屋善八。碑には30人の戒名と俗名、および溺死者全員の菩提(此外軍艦同船溺死霊魂一切菩提)と刻まれている。所在地、東京都文京区大塚5-2-10
- 津慶寺(しんけいじ) - 明治5年5月(1872年)、藤島正健・千葉県知事(当時)らが境内に「熊本藩兵瘞骸碑」を建立[10]。津慶寺には事故犠牲者の過去帳が残されており、毎年水難供養祭を行っている。所在地、千葉県勝浦市川津1655
- 安国禅寺 - 境内に供養塔「上総沖溺死者供養塔」がある。ハーマン号の遭難者を含む熊本藩の戦死者の供養を行っている。所在地、熊本県熊本市中央区横手3-26−8
- 靖国神社 - 事故で死亡した熊本藩兵・夫卒は戦死扱い(幕末殉難者)とされ1891年11月6日に合祀された。
- 慰霊祭 - 2012年から毎年2月13日に「黒船『ハーマン号』を世に出す会」(会長・勝浦市長)が慰霊祭を開催している。晴天の場合は官軍塚で、雨天の場合は津慶寺で行われる[17][18][19][20][21][22]。