バナナボート (船)
バナナ貿易に使われていた平坦な船を表す愛称
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概要
果物輸送船の一種で、1970年代においては18ノットの船速を誇る5,000トン程度の中型船が使用された。船体の温度上昇を防ぐため、船体を白く塗ったものが多く、客船と似たスマートな船型が採用される[4]。また、余剰の海軍軍艦が高速を追い求めたバナナ運搬船に改装される事もあり[5][6]、かつては便乗する旅客のため12名分程度の船室を備えたものも多かった[4]。往路で冷却されたバナナを運び、復路で一般貨物を運搬する。
古くは船室の換気能力を高めた通風船が使用され、後に冷蔵船に切り換えられた。この冷蔵装置は温暖な産地から寒冷な国へと航海するため、航海する経度に合わせて冷蔵庫内の温度を切り替えるよう工夫されている[4]。
各国の例
アメリカ
アメリカ合衆国のスタンダード・フルーツやユナイテッド・フルーツ、1910年にユナイテッド・フルーツの傘下に入ったFyffes、といったフルーツを扱っていた大企業は、バナナ貿易において、一部をバナナ輸送専用に、その他を乗客も乗せられるようにする目的で船を入手または建造した[5][7][8]。
20世紀の前半は、中央アメリカとアメリカ合衆国の貿易に従事していたSSアンティグアやSSコンテッサといった冷蔵船が、豪華客船としても運用されていた。

ユナイテッド・フルーツは、The Great White Fleetとして宣伝された大船団を1世紀以上も運用した。Great White Fleetとは1900年代のアメリカ海軍太平洋艦隊が海軍力を示すため世界一周を行った際に名乗ったもので、米西戦争が終結した1900年代初頭にサンプソンとアドミラル・ファラガットの2隻の海軍艦が同社に売却され、バナナボートに改装して運用した[9]。
1932年、スタンダード・フルーツ・カンパニーが、機関が撤去されたアメリカ海軍駆逐艦4隻の船体を、マサヤ、マタガルパ、タバスコ、ティーパという名の船に改装した[5][6]。軍艦から転用して、輸送船、特にUSSミザールのような冷凍貯蔵船、すなわちユナイテッド・フルーツの乗客とバナナを運ぶ輸送船Quirigua、ミザール級の貯蔵船として知られる一団のネームシップとして使われた。
ユナイテッド・フルーツの後継企業、チキータ・ブランドが2007年に、同社の約70%のバナナを北アメリカとヨーロッパに輸送した8隻の冷蔵船と4隻のコンテナ船のリースバックで、最後の船を売却した[10][11] 。かつて、艦隊は100隻の冷凍船で構成され、フィデル・カストロ政権の転覆計画でピッグス湾上陸を支援するために一部が中央情報局に貸与された、世界最大の民間船団だった[12]。
ヨーロッパ
海軍艦をバナナボートに転用したアメリカとは逆に、第二次大戦中のドイツやイタリアはバナナボートを仮装巡洋艦に改装して通商破壊に使用した[4]。イタリアのラム級仮装巡洋艦ラム2世は1943年(昭和17年)のイタリアの降伏後に大日本帝国海軍に編入され、特設運送船(給糧船)生田川丸に再び転身するという数奇な運命を辿っている。
日本
戦前に台湾を統治していた日本でも、日台航路で台湾バナナの輸送船を運用した。大阪商船は1927年(昭和2年)、横浜・高雄線に新鋭貨客船の高雄型(4,300総トン)2隻を建造する。船倉にバナナの鮮度を維持する機械通風装置を備えた通風船で、三菱重工業長崎造船所製のインパルスD.G.タービンを搭載した石炭焚きの高速タービン船としてバナナの急送を行った。ネームシップの高雄丸は浦賀船渠で建造し、姉妹船の恒春丸は横浜船渠で進水。同航路の専用船として山下汽船、近海郵船と共同運航を行った[13][14]。
さらに大阪商船は1932年(昭和7年)の船舶改善助成施設政策の補助金を受け1935年(昭和10年)に屏東丸型(4,468総トン)3隻を三菱重工業長崎造船所で建造した。この船は高雄型を改良した青果専用の貨物船で、台湾バナナ急送用の通風船として横浜高雄線に就航した。メインボイラーの蒸気圧力17.5気圧は当時の商船の中で最高値を示す快速船であった。屏東丸に続く姉妹船は臺東丸、彰化丸と命名された[15][16]。1935年(昭和10年)に近海郵船が建造した台湾航路用バナナ輸送船、千光丸、万光丸の2隻は建造当時から海軍の指示により砲座用の支柱が設置されていた[17]。
1935年(昭和10年)現在の記録によると、上記のほか数社が日台間でバナナ輸送船を運用しているが、いずれも主体はアメリカのようなプランテーション農園を運営する商社でなく船会社の所属である。基神線(基隆・神戸間)、高阪線(高雄・大阪間)、高濱線(高雄・芝浦間)、高北線(高雄・小樽間)、基神線(基隆・長崎間)の5航路に就航し、朝鮮や中国大陸行きを含めると14路線、年間441便がバナナ輸送に従事した[18]。第二次大戦が始まるとこれらの商船は陸海軍に徴用され、ほぼすべてが沈没、あるいは放棄によって喪われた[19]。戦後、商船三井の高砂丸と近海郵船の玉山丸が冷房船として建造され阪神・基隆間で台湾バナナの輸送に従事した[20]。
台湾
戦後、日台航路のバナナボートの主力は台湾船籍に移り、1969年(昭和44年)現在では日本船2隻に対し21隻の台湾船が運用されていた[20]。1960年代には中南米産バナナが日本市場に進出し、台湾は国策として通風船からヨーロッパから輸入した冷凍・冷蔵船に切り換えている[21]。これらの台湾船は海運会社だけでなく、僑果公司などの荷主が貨物船を購入し、後発組として参入した。日本から台湾に戻る折り返し便で雑貨や機械・鋼材を運んだが、国策による過剰な冷房船隊の整備は定期航路の権益を脅かし、不法に海運秩序を乱すものでもあった[22]。
ギャラリー
大衆文化におけるバナナボート
1950年代、この用語が移民の差別用語と関連付けられた。西インド諸島の主な生産品がバナナだったため、安価な輸送手段としても使われた。1959年から60年までの西インド諸島におけるイギリスのクリケットチームが、大西洋を横断して、諸島と行き来するためにバナナボートを使った。西インド諸島の移民をイギリスに運ぶことで知られていて、「誰かがバナナボートから降りた」という言い回しは、移民の到着に反対した人々により使われた蔑称だった。その後、イギリスのアフリカ系カリブ人のコミュニティがイギリスに生まれたために、1970年代には使われなくなった。
現代ではおそらく、バナナボートという用語は、ハリー・ベラフォンテの1956年のヒット曲「バナナ・ボート」の文脈で最も知られている。
