バブル景気

日本において、プラザ合意後の円高不況を乗り越えた後も金融緩和を継続した結果、不動産と株式市場が異常高騰したことによる経済バブル期間 From Wikipedia, the free encyclopedia

バブル景気(バブルけいき)とは、1980年代後半から1990年代初頭にかけて、日本で発生した株式や不動産などの資産価格上昇を伴う景気拡大期の通称である。

一般的には、内閣府景気基準日付における第11循環の拡張期である1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までを指す[1]

この時期には、株価や地価の上昇、企業投資の拡大、金融機関による信用供給の増加が見られた。日本銀行金融研究所は、1980年代後半の日本について、資産価格の上昇と金融・信用面の拡大が進行したことを分析している[2]

その後、金融引締めや資産価格調整を背景として株価・地価は下落し、金融機関の不良債権問題や景気低迷につながった。

概要

バブル景気とは、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの期間を中心に、日本で発生した株式や不動産などの資産価格上昇を伴う景気拡大期の通称である。内閣府景気基準日付では、第11循環の拡張期にあたる[3]

この時期には、株価や地価の上昇、企業投資の拡大、金融機関による信用供給の増加などが見られた。日本銀行金融研究所は、1980年代後半の日本について、資産価格の上昇と金融・信用面の拡大が進行したことを分析している[4]

その後、日本銀行による金融引締めや資産価格調整を背景として株価・地価は下落し、金融機関の不良債権問題や景気低迷につながった[5]

景気の名称(通称)の由来

「バブル景気」という名称は、株式や不動産などの資産価格が実体経済から大幅にかけ離れて上昇した後に急落する現象を、泡(bubble)が中身のないまま大きく膨らみ、やがて破裂して消えてしまう様子に例えた「バブル経済」という表現に由来する。経済学では、資産価格が経済の基礎的条件(ファンダメンタルズ)から乖離して上昇し、その後調整する現象を資産価格バブルと呼ぶ。

1980年代後半の日本では、当時の景気拡大を一般に「バブル景気」と呼ぶことは少なく、資産価格の上昇や景気拡大は「平成景気」などと表現されていた。その後、株価や地価の下落、不良債権問題の発生を経て、この時期の経済状況を振り返る表現として「バブル景気」「バブル経済」という名称が広く定着した[6]

バブル経済」という語は、英語圏で投機的な価格上昇を表す「bubble」に由来し、歴史上の投機熱である南海泡沫事件(South Sea Bubble)などに関連して用いられてきた。日本では1990年(平成2年)に「バブル経済」が新語・流行語大賞の流行語部門で取り上げられ、その後、一般的な経済用語として定着した[7]

要因

日本のバブル景気の形成には、プラザ合意後の急激な円高への対応として実施された金融政策財政政策金融機関による融資拡大、土地価格の上昇期待など、複数の要因が重なったと考えられている[8]

プラザ合意と円高

1985年(昭和60年)9月22日のプラザ合意以降、主要国による協調介入を背景として急速な円高が進行した。為替相場は約1年間で1ドル240円前後から150円台まで上昇し、輸出産業は大きな影響を受けた。政府は円高不況への対応として内需拡大政策を推進した[9]

財政政策と金融緩和

政府は公共投資を中心とする景気対策を実施し、日本銀行は1986年から1987年にかけて公定歩合を段階的に引き下げ、最終的に2.5%とした。これらの政策は景気回復を後押しした一方で、株式市場や不動産市場への資金流入を促進したとされる[8]

金融機関の融資拡大

日本銀行は『日本銀行調査月報』(1992年9月)において、土地担保価値の拡大を背景として金融機関が融資を積極化させ、マネーサプライ(M2+CD)の伸び率が高まったことをバブル形成の要因として分析している[10]

地価上昇期待

土地価格は継続的に上昇するとの期待が広まり、土地を担保とした融資がさらに拡大した。この信用拡大と地価上昇が相互に作用し、不動産価格の急騰につながったとされる[11]

その他の要因

研究者によっては、1986年の原油価格急落による交易条件の改善、国土庁による将来のオフィス需要予測、税制改正による可処分所得の増加なども、バブル形成に影響した要因として挙げられている[12][13]。学術研究では、プラザ合意後の円高への対応として実施された金融緩和と、それに伴う信用拡大および土地担保融資の増加が、バブル形成の中心的要因であったとする見解が広く示されている[8]

展開

日経平均株価(月末値)。1989年12月29日の東証大納会で日経平均株価が史上最高値の38,957円44銭(同日終値38,915円87銭)を記録、1990年1月4日の大発会から株価の大幅下落が始まる。

1985年度(昭和60年度)-1990年度(平成2年度)の5年間で日本の金融機関の資金量は90%拡大し、貸出先の開拓に追われていた[14]

1980年代後半、エクイティファイナンス(新株発行にともなう増資)の隆盛は大企業の銀行離れを加速させ、銀行は行き場のない資金をだぶつかせていた[15]。プラザ合意以降、金利低下に拍車が掛かった。金利自由化の影響により、銀行は従来のやり方では利ざやが稼げなくなっていた[16]。1987年(昭和62年)末には都銀の収益を支えていた製造業向けの貸出が初めて2割を割った[17]

企業は設備投資を積極的に行っていたが、その資金は銀行の長期融資に依存せず、エクイティファイナンスでまかなっていたため、金融機関の融資は不動産に向かった[14]。日本では投機熱が加速、特にと土地への投機が盛んになった。なかでも「土地は必ず値上がりする」「土地の値段は決して下がらない」といういわゆる土地神話に支えられ、転売目的の売買が増加した。地価は高騰し、数字の上では東京23区の地価でアメリカ全土を購入できるといわれるほどとなり、銀行はその土地を担保に貸し付けを拡大した。1985年(昭和60年)3月末から1993年(平成5年)3月末にかけて、全国銀行の貸出は251兆円から482兆円へと増加している[18]。資産価格高騰は資産保有者に含み益をもたらし、心理的に財布のひもを緩める資産効果によって消費が刺激され、景気の過熱感を高める効果もあった。また、1986年(昭和61年)から日本企業の欧米企業に対するM&Aが進められた。企業収益の向上と共に個人所得も増加し、消費需要が上昇する乗数効果を生んだ。

日本の1人あたりの国民所得はアメリカに次ぐ第2位となった。1985年(平成60年)9月30日に横浜駅東口に当時世界最大級の百貨店そごう横浜店が開業した。

三大都市圏における地価は1986年(昭和61年)から上昇し、1987年(昭和62年)には東京都の商業地で対前年比で約80%となった[19]

1987年(昭和62年)に入ると現象は経済全体に波及し、土地に対する需要が高い限り決してこの景気は終わらないという楽観論が蔓延した。特に株式は1987年(昭和62年)10月に起こった米国ブラックマンデーによる世界同時株安の影響を世界で最初に脱出し、高値を更新したことから日本株に対する信任が生じた。その後、投機が投機を呼ぶ連鎖反応が起こり、「岩戸景気」「神武景気」に続く景気の呼び名を公募する記事が、雑誌を賑していた。

1988年(昭和63年)秋に来日したアラン・グリーンスパンFRB議長は、日本銀行にて「日本の株価は高過ぎるのではないか」と述べていた[20]

1989年(平成元年)4月1日消費税(税率3%)が導入された。このとき、便乗値上げが起きた[21]。同時に景気対策と内需拡大の掛け声とともに、所得税の国税地方税を合計した最高税率が88%から75%に引き下げられ、富裕層を中心に手取り収入が最大2倍近く増えたことが金融市場に資金提供することとなった。

すでに地価や株価は収益還元法などで合理的に説明できる価格を超えて高騰しており、日本経済はいつ破裂してもおかしくないバブル経済に突入していた。そもそも日本の人口増加率が低下し、2007年(平成19年)から2008年(平成20年)には人口が減少に転じると予想されたことから[要出典]、土地の需要がこのまま持続・増加するはずが無いとの指摘もあったが[誰?]、政府の「世界の中心都市としての東京は今後も発展を続け、オフィス需要は拡大しつつあり、これに対して供給はまだまだ不足している」とする見解をはじめとする強硬な反論が幅を利かせていた。

一部の経済学者は地価を考慮すると家賃は安すぎると主張し、容積率規制緩和を主張した。もともと、地価が上昇した場合はその上で操業している賃貸の工場やビルの収益率が低下するため、土地を売却し債券などを購入することが合理的になる。この結果、高騰した土地の上で経営が成り立つ産業だけが立地することになり、やがて価格は均衡する。しかし、日本においては土地資産などの計上が簿価で行われていたため、名目的に収益率は変わらずに土地を持ち続けることが正当化された。加えて、簿価と時価の差額が含み益をもたらし、担保価値の上昇という形で資金を導入して経営を拡大する方向に動いた。損失を出してもいざとなれば含み益を用いて解消できるとして経営の多角化を進めたりハイリスクな事業を展開する、放漫な経営で損失が出ても重大に受け止めないなどの例もあった。このような動きの中で、日本企業は収益率を高めるのではなく総資産を増加させることを第一義的な目標とするようになった。

バブル期に特に借金を増やしたのは非製造業であった[22]建設業不動産業ノンバンクは「バブル三業種」と呼ばれ、借金がそのほかの業種と比べて大きく増えた業種であった[23]

経済への影響

1980年代後半のバブル景気では、株式・土地などの資産価格が急速に上昇した。株式市場では、東証株価指数(TOPIX)が上昇を続け、1989年(平成元年)12月18日に終値2,884.80ポイントを記録した。また、日経平均株価は同年大納会の12月29日に史上最高値の38,957円44銭(同日終値38,915円87銭)を記録した[24]

株価上昇の背景には、金融緩和による資金供給の増加や、土地担保融資の拡大などがあった。日本銀行は1987年(昭和62年)2月に公定歩合を2.5%へ引き下げ、その後1989年(平成元年)5月まで維持した[25]

土地市場では大都市圏を中心に地価が上昇した。国土交通省の地価公示によれば、東京圏の地価は1980年代後半に急激な上昇を示し、1990年前後にピークとなった[26]

資産価格の上昇は企業や家計の保有資産価値を増加させた一方、地価高騰による住宅取得困難化や、土地担保融資拡大による金融機関の不良債権問題につながった[27]

地価高騰

1980年代後半、日本では土地価格が全国的に上昇し、特に東京圏ではオフィス需要や金融取引の拡大を背景として地価上昇が進んだ[28]。金融機関による土地担保融資の拡大は、資産価格上昇を支える要因となった。日本銀行はバブル期の金融経済情勢について、金融機関の融資姿勢や資産価格上昇期待が金融活動を活発化させたことを指摘している[29]

財テクと企業行動

バブル期には企業による株式・土地などへの投資が拡大し、本業以外の資産運用による利益を重視する動きがみられた[30]

雇用環境

バブル景気の時期には企業の採用活動が活発化し、有効求人倍率は1991年(平成3年)に1.40倍となった[31]

国際経済環境

1980年代後半、世界経済では先進国を中心にインフレーション率が低下し、金融市場の国際化や資本移動の拡大が進んでいた[32]。また、各国では金融自由化が進展し、国際的な資金取引が活発化していた。

日本では、プラザ合意後の急速な円高による景気減速への対応として金融緩和が行われ、国内需要の拡大が進んだ。その後、経常収支黒字を背景として、日本企業による海外投資や国際的な資本移動も拡大した[33]。1980年代後半の日本経済は、高い成長率、低い失業率、安定した物価上昇率を背景に、海外からも注目を集めた。一方で、日本の経常収支黒字や対米貿易黒字、日本企業による海外資産取得は、各国との経済摩擦の要因ともなった[34]。この時期には、1989年のベルリンの壁崩壊に象徴される冷戦構造の変化など、国際政治環境にも大きな変化が生じた[35]。ただし、これらはバブル景気の直接的な原因というより、同時代の国際情勢として位置付けられる。

社会的影響

1980年代後半、日本では株価や地価などの資産価格が大幅に上昇した。この資産価格の上昇は、一般物価の上昇を伴わない「資産インフレ」とされ、 資産を保有する者と保有しない者との間で資産形成機会の差が意識されるようになった[36]。地価上昇は土地所有者の資産価値を高める一方、住宅取得を希望する層にとって住宅価格上昇という問題を生じさせた。また、株式や不動産などの資産価格上昇による利益獲得を期待した投資行動が広がり、企業や金融機関の投融資活動にも影響を与えた。一方、資産価格上昇による影響については、 所得格差全体への影響については複数の見方があり、資産保有状況による格差と、所得格差は区別して考える必要がある。

資産価格は1990年代に入ると下落に転じ、土地や株式を保有していた企業や投資家では評価損が発生した。また、不動産関連融資の抑制や金融環境の変化により、不動産市場への資金流入は縮小した[37]。バブル景気については、資産価格上昇が企業活動や資産形成に与えた影響だけでなく、その後の資産価格下落が金融システムや実体経済へ与えた影響も含めて評価されている。

バブル景気の終焉

1980年代後半、日本経済は景気拡大を続け、株式や土地などの資産価格が大幅に上昇した。しかし、資産価格の上昇は次第に実体経済の成長を上回るものとなり、その後の金融政策の変更や市場環境の変化によって調整局面に入った。日本銀行は、物価上昇や資産価格上昇への対応として、1989年以降、公定歩合の引き上げなど金融引締め政策を実施した。公定歩合は1989年5月以降、10月、12月、1990年3月、8月に段階的に引き上げられた[38]。また、1990年3月には大蔵省による不動産向け融資の総量規制が開始され、不動産関連融資の抑制が図られた。

その後、株価は下落に転じ、地価も1990年代に入って下落局面を迎えた。資産価格の下落により、土地や株式への投資を拡大していた企業や投資家では 評価損が発生し、設備投資や不動産投資も縮小した。バブル崩壊後、日本経済は金融機関の不良債権問題や企業活動の停滞に直面し、 長期的な低成長期へ移行した。バブル景気の崩壊については、金融引締めや総量規制だけでなく、金融自由化、金融機関の融資姿勢、土地市場の構造、企業や投資家の行動など複数の要因が影響したとされている。

金融政策とバブルの拡大・崩壊

バブル景気の形成と崩壊については、金融政策、金融自由化、土地・株式市場における投資行動、企業や金融機関の融資姿勢など、複数の要因が関係したと考えられている。

金融緩和の継続

プラザ合意後の急激な円高による景気減速への対応として、日本銀行は金融緩和政策を実施した。公定歩合1987年(昭和62年)2月に2.5%まで引き下げられ、その後1989年(平成元年)5月まで同水準が維持された[39]。この間、日本経済は景気回復を続け、株価や地価などの資産価格が上昇した。金融緩和の長期化が資産価格上昇を促した要因の一つであるとの指摘がある一方、バブル形成は金融政策だけではなく、金融自由化、企業や金融機関の投資行動、土地取引慣行など複数の要因によるものとされている。

金融引締め

日本銀行は、物価上昇や資産価格上昇への対応として、1989年以降、公定歩合の引き上げなど金融引締め政策を実施した。公定歩合は1989年5月以降、段階的に引き上げられ、1990年には6.0%となった[40]。その後、株価や地価は下落し、金融機関では不良債権問題が拡大した。金融引締めの時期や規模が資産価格下落に与えた影響については、 政策判断の評価を含めて議論が続いている。

政策評価

バブル崩壊後、日本銀行の金融政策運営については、資産価格上昇への対応や金融システム安定化の観点から検証が行われた。一方で、バブル景気の発生・崩壊は、金融政策だけでなく、金融制度の変化、企業財務行動、土地市場の状況などが複合的に影響したとされる。この経験を踏まえ、1997年(平成9年)には日本銀行法が改正され、日本銀行の独立性を高める制度改革が行われた。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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