バルチュク・アルト・テギン
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天山ウイグル王国の君主ヨスン・テムル(月仙帖木児)の子として生まれる。
1125年頃以来、天山ウイグル王国は西遼(カラ・キタイ)の属国となっていたが、西遼皇帝は年若いバルチュクが新たな国王となるとこれを侮り、名宰相として名高いカラ・イカチ・ブイルク(哈剌亦哈赤北魯)をバルチュクのもとから引き離し、太師僧(西丹僧とも)の少監(シャウケム)を派遣してウイグル王国に圧政を敷いた。そこでバルチュクは国相のビルゲ・ブカの助言の下、当時勃興しつつあったモンゴル帝国を頼って西遼から離反することを決意した[3][4][5]。
1209年の春、カラ・イカチ・ブイルクの娘婿アリンテムル・トトクと国相ビルゲ・ブカは共謀し、高昌(カラ・ホージャ)において少監を殺害、バルチュクはモンゴル帝国に使者を派遣して帰順の意を示した[6][7][4]。この報を聞いたチンギス・カンは以前にバルチュクがメルキト残党の亡命を拒否したことも知っていたため、バルチュクのふるまいに喜び、使者をもてなした。一方の西遼ではウイグル王国の態度に憤慨して責任者の出頭を命じたため、アリンテムル以下の重臣が謝罪のため西遼に出向することとなった。折しもナイマンの王子クチュルクが西遼の王位を簒奪する事件が起き、西遼の国政が動揺していたので、アリンテムルたちは難を逃れることができた[8][9]。
1210年の夏、チンギス・カンはバルチュクの使者を帰国させるとともに、アルプ・ウトゥク(アドキラク)とダルバイを同伴させ、バルチュクの来訪を促した。1211年の春、バルチュクは自らチンギス・カンのもとに赴き、服属の誓いをするとともに、おびただしい貢納品を献上した[10][9]。
その後のバルチュクはウイグル軍を自ら率いてチンギス・カンの遠征に随行し、1219年のホラズム・シャー朝攻略戦、1226年の西夏攻略戦で功績をあげた。これに対しチンギス・カンはバルチュクに娘のアルトゥン・ベキ(アル・アルトゥン)を娶らせる約束をしたが、1227年にチンギス・カンが崩御してしまったため、結婚は延期となった。チンギス・カンの後を継いでモンゴル帝国第二代皇帝となったオゴデイはその縁談を果たそうとしたが、アルトゥン・ベキが死去してしまったため、自らの娘アラジン・ベキをバルチュクに娶らせようとした。しかし、アルトゥン・ベキの後を追うようにバルチュクも死去してしまったため結局果たすことはできなかった[11]。