高原がチンギス・カンによって統一されて初めて定住民に行われた遠征であったが、結果は芳しくなかった。都城の守備を固める方針をとった西夏に対し、攻城戦を知らないモンゴル軍は至るところで苦戦を強いられ、思うような戦果を上げることができなかった。一度講和を結びモンゴルの宗主権を認めさせ、モンゴル軍は西夏から撤退したものの、1207年秋、西夏の貢納の遅れを口実に再びモンゴル軍は西夏に侵攻した(第二次遠征)。しかしこのときも依然としてモンゴル軍は攻城戦に苦しみ、西夏の国土の一部を荒らしたにとどまった。
1209年秋、再び西夏に侵入したモンゴル軍は、今度は西夏の国王襄宗の世子の軍を破り、いくつかの都城を落として首都興慶(現在の銀川)に迫った。興慶で籠城戦を続ける襄宗に対し、チンギス・カンは水攻めを行おうとしたものの失敗し、かえって自陣に洪水が氾濫することとなり、撤退を余儀なくされた。チンギス・カンは自ら講和の使者を出し、襄宗が娘をチンギス・カンの妃として差し出すことで講和は締結され、モンゴル軍は撤退した。結果として西夏はモンゴル軍を撃退した形となったが、3度にわたるモンゴル軍の侵入で国土は荒廃し、西夏の国力はすでに限界に達していた。
西夏遠征の経験が活かされた第一次対金戦争において、モンゴル軍は金側の失態もあり、莫大な戦果を上げた。東方で成功を収めたチンギス・カンは今度は西方に目を向け、ホラズム・シャー朝への遠征を計画し始めた。チンギス・カンは西夏に派兵の要求をしたが、クーデターを起こして即位した神宗がこの派兵要請を拒否すると、モンゴル軍は再び西夏へ侵攻した。ホラズムへの遠征を控えたモンゴル軍は深入りしなかったものの、この遠征で西夏は国勢回復が不可能な状況に陥り、神宗は献宗に位を譲った。